第百四十三話 明智光秀の調略 その1
百地丹波は小田氏治から命を受け、美濃の明智光秀を調略すべく旅立った。尾張に向かう船上で、百地丹波は痩せた若者の姿を思い出して相好を崩した。織田帰蝶の間者としてやって来た明智光秀は領内に入ると直ぐに氏治と出会い、そして捕らえられたのである。その時の様子を思い出しながら三年ぶりだろうかと嫌に懐かしく思った。
尾張に到着した百地丹波は小田家が置いている商家の拠点に顔を出して情報を確認した。尾張は信秀と信長の手によって平定され、近頃では律令と思われる制度を導入しようとしている気配があると伝えられた。信秀と信長が行った酒宴の様子を聞いた百地は思わず破顔した。佐竹家でもそうだが、この尾張織田家でも当家に倣って律令をするらしい。百地丹波はそれらの話を聞くと商家を宿として一泊し、翌日には馬を用意させて美濃の明智荘に出立した。
尾張を貫くように北上し、木曽川に当たるとそれに沿うように馬を駆けさせた。昼が過ぎた頃になるとようやく目的地である明智荘に到着した。そして畑仕事をしている百姓に道を尋ねて明智城に向かったのである。明智城は小さな山城で空堀が掘られていた。特別堅固には感じられなかったが、荒れた場所が見当たらず、周りの木々を見渡しても伐採された様子もなく、古い木々が自生しており、戦火に巻き込まれていない事が見て取れた。
百地丹波は明智光秀に取次ぎを頼むと辺りを眺めながら時間を潰した。暫くすると「百地殿~!」と声が聞こえて、振り返ると二の丸の門から明智光秀が走って来るのが見えた。流石の百地もその様子に驚いてしまった。「門を開けよ!」と声がして、門が開くと光秀が飛び出すように出て来たのである。そして息を切らしながら口を開いた。
「百地殿!お久しゅう御座います!」
目を輝かせながら言う明智光秀の様子を見て、百地は元気そうだと思いながら答える。
「明智殿、お久しぶりで御座います。お元気そうで何よりで御座います」
百地がそう言うと光秀は破顔した。そして城内に百地を招き入れた。広間に通された百地は、光秀から会わせたい者がいると少し待ってもらうように頼まれた。待っている間に茶が出され、それを持って来た娘は光秀の妻であると名乗り、氏治から贈られた土産に感謝している事を百地に伝えた。
そうしていると、光秀と初老の武士が姿を現した。光秀から紹介された人物は明智光安と名乗った。明智光秀の叔父であり、光秀が若年の頃は明智城主として後見していたという。今では光秀を当主として自身は重臣の一人として仕えているという。自ら当主を続ける事も出来たはずである。この乱世で律義に振舞う光安に百地は好感を覚えた。
「此度は突然のお越しで御座いますが、何ぞこの光秀に御用でも御有りなので御座いましょうか?噂では御座いますが、小田様は大戦を制され、大領を得たと聞き及んでおります」
「それなので御座いますが、此度は主命で参りました」
「主命で御座いますか?」
光秀は多少の疑問を覚えながら言った。
「左様で御座います。早速で御座いますが、主からのお言葉をお伝え致します。我が主、小田氏治は明智光秀殿を家中に迎えたいと申されました。明智殿が仕官頂けるのであれば、重臣の列に加え、城も任せると仰せで御座います。ご希望であれば、明智荘の領民も連れて参られても良いと申されております。その際はこの百地が手配致しますゆえ、ご安心を。ですが、当家では律令を採用致して居りますので領地を差し上げるわけには行かず、俸禄で御奉公して頂く事になりまする。その俸禄も不足なきよう十分にお支払い致すと申されました」
「何と!」
思わず光安が言葉を発する。そして光秀は思わぬ誘いに耳を疑い、そして咀嚼するように百地の言葉を飲み込んだ。氏治に仕えたいとは願っていた。だが、明智荘を考えると斎藤家に留まらざるを得なかった。斎藤家は主である斎藤利政の取り巻きのみが繁栄を享受して居り、姻戚でもある明智家はどういう訳か冷遇されていた。主命もお使いのようなお役目ばかりで仕事のし甲斐も無い。そして若年の光秀は明らかに斎藤利政に舐められていた。明智荘の領民も連れていいと言って来ている。自身を重臣として扱う事も破格である。ただ、律令が気になった。
「百地殿、律令は存じて居りますが、小田様の御家来衆は土地を持たぬので御座いますか?」
「左様で御座います。土地を持つのは一部の家臣のみで御座います。この百地は氏治様に一番にお仕えした事を評されまして表高三千石、実高六千石の領地と俸禄を頂いております。他には小田家に長く忠義を尽くした菅谷様が二万石、氏治様に真っ先に被官為さった真壁殿が八千石で御座います。その他の御家中や、国人の尽くは氏治様に領地を献上し、被官致して居ります」
百地の言葉を聞いた光秀と光安は言葉を失った。光安は所領を差し出して被官した事に大いに驚いた。それ程まで氏治の力は強いのかと考えた。一方で光秀は律令を知って居り、氏治の狙いを理解していた。氏治の行いは帝が考えられた制度を利用しており、国人に兵力を持たせずに国を治めるやり方だと考えた。国人が兵力を持たないという事は、国人の国力や家柄に寄った政をしなくても良いという事である。つまりは、実力があれば重く用いられるのだ。氏治は自分を重臣にと言って来ている。斎藤家で使い走りをするくらいなら、仁君である氏治の元で仕事がしたい。
光秀がそう考えていると、光安は慌てた様に口を開いた。
「光秀!いや、殿!所領が無くなるのは問題かと考えまする。破格の条件だとは思われますが、明智荘を手放すわけには参りませぬ!」
「叔父上、そうでは無いのです。光秀が考えますに、氏治様の律令はただ土地を取り上げるものでは無いと考えます。百地殿、小田家の律令の説明をお願い致したい」
百地は光秀の要求に応えて小田家の律令の仕組みを話した。そして追加して、小田家では実力と功績のみで家臣を評する事。その実力に見合った役を与えられる事。一門と言えど優遇されない事。むしろ一門が血で優遇されない事に不満を持っている事などを話した。その話を聞いて光安はこぼれるような声で言う。
「御一門が特別に扱われないなど聞いた事が御座いませぬ。それにしても律令を初めて聞きましたが、殿は御存じであったので御座いましようか」
「存じて居りましたが、氏治様が致しているとは存じて居りませなんだ。百地殿、律令で御家中は纏まっているのでしょうか?」
「光秀殿のお気持ちは察して居ります。ご懸念為さる気持ちも解ります。当家では戦で降った者達は不満に思っていると存じますが、譜代の家臣の皆様は納得して居りますし、所領を持っていた時よりも良い暮らしをして居ります。この百地ですら贅沢をさせて頂いて居ります」
百地の言葉を聞いて光秀と光安は再び唸った。明智家の台所はとても苦しい。先日も織田家の尾張平定に手を貸すべく斎藤利政に命じられ出陣したが、碌な恩賞も貰えずに兵糧ばかりを消費してしまっている。家臣を食わせない主君に光安も憤慨していたのである。
「殿から小田様の御話を聞いて、この光安もお人柄は存じて居ります。斎藤家を致仕致し、小田様にお仕え致すつもりで御座いましょうか?」
光秀は光安の言葉を聞いて心が揺らいだ。行きたい、だが、本当に行ってもいいのだろうか?斎藤家を見限るのは構わない。現に明智家は冷遇され、日々の生活も苦しいものである。政らしい事も碌にせずに、家臣達は斎藤利政の歓心を得ようとするばかりである。光秀が悩んでいると百地が口を開いた。
「この様な事を申すのはご無礼かと存じますが、此度の戦で当家の所領は百九十一万石になり申した。明智殿には十分に報いる国力が御座います。更に申せば、氏治様は滅多な事では直臣を取られませぬ。氏治様自ら直臣に致したのは、この百地と天下の剣豪で名を轟かせて居られる愛洲殿、そして此度の戦で重臣に致した高城殿に村上殿で御座います。この御二方は民に善政を敷かれていた事に御屋形様がいたく感心なされ、重臣の列に加わって頂いたので御座います。そこに明智殿も加わるので御座います」
そして百地は「そうそう」と思い出したように懐から氏治から託された文を取り出して光秀に渡した。百地は自分が口説いてみて様子を伺っていたのである。光秀の心が揺らいでいるのを感じた百地は、頃合い良しとして氏治からの文を渡したのである。
光秀は氏治からの文を読んだ。その内容は大国の君主が記したものとは思えないほど気さくに、そして如何に自分が光秀を買っているかという事が書き記されていた。そして光秀は文を読み終えると大切そうに畳んで懐に入れた。
「叔父上、この光秀は小田様に仕官致そうと思います。叔父上から御賛同が頂けないのであれば、明智家の家督は叔父上にお譲り致します。如何で御座いましょうか?」
光秀の決意を聞かされ、そして家督を捨ててまでも小田家に行くという光秀の言葉に光安は言葉を失った。そして暫くは腕を組んで考え込んでいた。このまま斎藤家に従っていても明智家が日の目を見る事は無いだろう。小田家の待遇は領地は得られないが破格である。懸念があるとすれば関東という田舎に居を移さないといけない事である。だが、それは大した問題では無いかと考え直した。何より今の自分は光秀の家臣である。当主が決めたなら黙って付いて行くのが道だと考えた。
「殿がそうせよと仰せならこの光安は従いまする。であれば、まずは斎藤家からお暇せねばなりませぬな?我等を侮りし斎藤家にはこの光安も未練は御座いません」
光安の言葉に光秀は破顔した。
「叔父上、よくぞ申してくれました。叔父上が居ればこの光秀は何も恐れるものは御座いません」
そして二人で幾つかの言葉を交わした後に、光秀は居住まいを正して百地に言った。
「百地殿、小田様の御誘いをお受けいたします。どうかよろしくお願い致します」
光秀の言葉を聞いて百地も破顔した。
「明智殿、当家にお越しになられたらこの百地を頼って頂きたい。当家の重鎮である菅谷様や真壁様も御力を御貸し下さいましょう」
百地は無事に主命を達成出来た事に安堵した。これで氏治に合わせる顔が出来たというものである。それにこの若者を百地も気に入っていた。主である氏治も評価しており、政で四苦八苦している氏治と政貞の力になれると良いと考えた。
「では、明日にでも登城致し、斎藤家を辞して参ります。その際は叔父上も同行願いたい。利政様の機嫌を考えると光秀だけでは不安で御座います」
「左様で御座いますか。ならばお供致します。ですが、暗君に媚びる必要は御座いませぬ。堂々と辞されるが宜しかろうと存じます。当家は既に小田家の重臣で御座います。小田様の面子も御座いますゆえお心を強くお持ち下され」
「散々なぶるような扱いを受けて参りましたから。多少の気後れは御座いますが、叔父上の申す通りに致しましょう。主が見限られるのは斎藤利政様自身の問題。この一事で当家の家臣も留飲を下げるでしょう」
その後は小田領への引っ越しについて話し合われた。尾張に商家の拠点があると百地から聞いた光秀と光安は驚き、更に水軍を使って船の手配をすると言う。支度金も用意されていて、資金の心配をする事も無かった。光秀と光安は氏治が他国に拠点や水軍を持っている事にも驚き、流石は大国だと改めて思ったのである。そしてその夜は主だった家臣を集めて酒宴を開き、家臣達に小田家に仕える事を宣言したのである。
お知らせ
大変申し訳御座いませんが、筆者都合により投稿を三日間休もうと思います。ストックも禄に無いのですが、少し休憩致します。73話の連続投稿で疲れてしまいました。申し訳ございません。コメントのお返しも出来ていませんが、武田家に関して気になったので記しておきます。当小説では悪役設定になっておりますので、武田ファンの方には不愉快な思いをさせてしまうかもしれません。ご了承ください。
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