第百三十八話 長尾景虎の来訪 その1
私は受け取った長尾景虎からの文を眺めながら考えた。関東管領と戦をした直後に届けられたのが不安を掻き立てた。私の知る歴史だと上杉憲政が上野を追われ、越後の長尾景虎を頼って落ち延び、そこで和解をして上杉家の家督を譲ったのである。その後は北条家と戦をする為に度々越山して来たのは有名な話だ。
今はまだ上杉憲政は存命だし和解もしていない筈。長尾景虎も軒猿衆を使っているから私が戦をしている事は知っている筈だし、この連合の顛末も知っている筈である。民草の噂も拡散しているようだし。だけど戦勝の祝いにしては早過ぎるのだ。だとしたら何か思惑があるのかも知れない。
長尾家とは形だけの外交しかしていないので、私は長尾家の重臣にも面識が無い。にも拘らず、このタイミングで文が届くという事はもしかしたら上杉憲政や上杉朝定の扱いに怒っている可能性がある。どうしよう?凄く読みたくないんだけど?
私が悩みながら文を眺めていると政貞が問い掛けて来た。
「御屋形様、長尾家からの文と申されましたがお読みにならないので御座いますか?先程から眺めるばかりで御座います。某は文の内容が気になっているので御座いますが?」
政貞が呑気に聞いて来るけど、今の時期だと誰も長尾景虎を恐れていないんだよね?ビビっているのは私だけである。それに皆は武田晴信も恐れていないのだ。私と百地の工作で足止めされている武田晴信は戦上手という評価はされているけど、史実のように恐れられてはいないのである。史実だと来年に第一次川中島合戦があるのだけど、今の様子だと消滅すると思う。村上義清と小笠原長時が頑張ってるし……。
長尾景虎は二十二、三歳の筈。まだ若者だけど、戦の天才には変わりがない。信長の天才ぶりを見たからそこにだけは確信を持てるのだ。もし戦になったら勝てるだろうか?鉄砲はある、だけど用兵は勝貞か久幹に頼るしかない。戦が終わったばかりだけど、兵は集められる。でも、そうすると兵糧を消費し過ぎて国の運営に支障が出るかもしれない。あと二年待ってくれれば兵は四万七千集められるのに……。
彼に勝つ為には数を揃える必要がある。四万七千の軍勢なら持久戦に持ち込んで磨り潰せばいい。確か前世の偉人の言葉で『戦いは数だよ兄貴!』という言葉があった気がする。数さえ揃えばこんなにビビらなくてもいいのに……。待って!もしかしたら越山して冬の間は関東で過ごす気なのかもしれない。そうなると、今から軍勢を集めて防衛しないといけない。戦場は武蔵になるから、慣れない土地での防衛は苦労が多いだろうし、やっぱり兵糧が保たないかもしれない。
私は悩んでしまって文を読めないでいた。私の様子を見て、今度は勝貞が私に声を掛けた。
「御屋形様、如何なされたのか?顔色も宜しく無いようですが何か御座いましたか?」
少し心配そうな顔をして勝貞に聞かれたけど、随分顔に出てしまっているようである。長尾景虎を知っていて恐怖しない人はいないと思う。
「何でもないよ。ちょっと考え事をしていただけ」
「左様で御座いますか。ですが、いつもと様子が違うように思えます。長尾家と何か御座いましたか?もし長尾家が御屋形様に無礼を働くような事が御座いますればこの勝貞が成敗致しますが?」
ちょっ!止めて下さい!いくら勝貞でも勝てないから!ていうか、変な誤解をされると不味い気がする。もういいや、覚悟を決めて読んでみよう。もし戦になるなら私も自重無しで挑むしかない。倫理を捨てる事になるけれど、長尾景虎に家臣や領民を殺させる訳には行かないのだ!私が自重無しで策を練れば、長尾景虎も武田晴信も敵ではないのだ!現代戦術の恐ろしさを思い知らせてやる覚悟である。
「何でもないからね?今読もうとしていたんだよ、気にしなくていいよ?」
そして私はドキドキしながら文を広げたのである。
―― 小田氏治殿 ――
先ずは戦の大勝利をお祝い致します。大領を得られた事に驚いています。私も関東の戦が気になり様子を窺って居りました。氏治殿の知略には大いに驚かされ、この景虎も感心致して居ります。
上杉憲政や上杉朝定、その家臣である太田資正はとんでもない悪党ですね。彼等の裏切りを耳にした時はこの景虎も許せない気持ちになりました。もし越後に落ち延びて来るような事があれば捕らえて仕置をしてやろうと考えています。
上杉家とは因縁が御座いますので、もしこの景虎の力が必要な時は頼って貰いたいと考えています。不義を為す悪党は討ち滅ぼしてしまう方が良いと景虎は考えます。たとえ関東管領と言えども、裏切りは許されるものではありません。もし戦になるならこの景虎も軍勢を率いて越山する覚悟です。
氏治殿が戦をしながら民に施しを与えた事を聞きました。景虎はこの事に大変驚きました。乱暴狼藉は当たり前の事だと学んで育ちましたが、氏治殿の行いはまるで逆さまで、景虎は随分と考えてしまいました。善い行いをする事は当然だと思いますが、今までは乱暴狼藉を正しいと思っていた自分が恥ずかしくなってしまいました。景虎ももう少し考えてみようと思います。
お土産に頂いた珍陀酒はとても美味しく、今では珍陀酒が無いと生きて行けそうにありません。直江津の商家から珍しい南蛮の珍陀酒を一本だけ手に入れて飲んでみたのですが、氏治殿から頂いた珍陀酒の足元にも及ばないような品でした。あれは酒ではありません。
私が頂いた珍陀酒ですが、心無い家臣に狙われていて、落ち着いて味わう事が出来ないのがとても残念です。その者達は、用も無いのに毎日登城して景虎を見張るようにして珍陀酒を狙うのです。私は氏治殿から頂いた貴重な珍陀酒を一本ではありますが泣く泣く手放したのです。主の酒を狙う家臣がいるのはこの日ノ本広しといえども、景虎だけかもしれません。
私は出来るなら毎日一本の珍陀酒を味わいたいと考えています。そして氏治殿に代金をお支払い致しますので譲って頂きたいと思っています。毎日なので三十本程、毎月譲って頂きたく思っています。
氏治殿の御手紙には貴重な酒と記されていたので、譲って頂けるかとても心配しています。あの美しい赤い色に酸味のある芳醇な香り、そして深い味わいに、喉を通る際の酒精は正に絶品だと思われます。頂いた美しい器に珍陀酒を注ぐと、美しい赤を目で味わうことも出来ます。とても素晴らしい酒だと思います。
酒と言えば、ぶらんでーは絶品ですね。景虎は珍陀酒よりも美味い酒だと思いました。ぶらんでーを初めて飲んだ時の感動は生涯忘れません。あの仄かに香る甘い香りに喉を焼くかのような強き酒精はこの景虎を虜に致しました。
氏治殿のお手紙には珍陀酒よりも貴重な酒だと記されていました。景虎はこのぶらんでーも多く頂きたいと考えています。貴重な酒である事は承知致して居りますが、どうか、景虎の願いを叶えて欲しいと思います。代金は幾らでもお支払い致します。当家の重臣である本庄実乃の目を盗んで軍資金を確保する事に成功しました。もし足りないならまた軍資金を調達する覚悟です。
ぶらんでーは当家の心無い家臣には秘密にしています。もし存在が露見するような事があれば、あの家臣達は手段を選ばずにぶらんでーを狙うと思われます。もしかしたら氏治殿に御迷惑をお掛けするかもしれません。とても恐ろしい家臣達なのです。氏治殿には当家の者にぶらんでーを知られないようにご配慮して頂きたく思っています。
此度はこの景虎自ら氏治殿の戦勝の祝いの使者を務めようと考えています。以前に頂いた珍陀酒のお返しのお土産も沢山お持ち致します。気に入って頂けると景虎も嬉しく思います。
最後に、氏治殿のご健康を心からお祈り致して居ります。この文が届く頃には小田城に着いているかもしれません。
―― 長尾景虎 ――
私は思わず座卓に突っ伏した。あんなに思い悩んだのが馬鹿みたいだ。私は決戦や現代戦術の開放まで覚悟したというのに、ただの戦勝祝いだったのだ。それに手紙を読んだ感じだと、上杉家の事を怒っているみたいだし、私に味方してくれると書いてあったから余計な心配をしたようである。
でも、景虎の目当ては珍陀酒とブランデーのようである。史実でお酒好きなのは知っていたけど、毎日一本飲みたいとかお酒好きにも程があると思う。義昭殿が二日酔いで重体になっていたのを目の当たりにしたから余計にそう思う。
軍資金をちょろまかして珍陀酒を買おうとしているようだけど、なんだか年相応の悪さをしている青年に思えてきた。乱暴狼藉の事も考えているようだし、私が思っているような人ではないのかもしれない。信長や前田利家の例もあるし、もしかしたら付き合い易いかもしれない。
それにしても手紙の半分はお酒の事しか書いていなかったし、心無い家臣って何だろう?主の持ち物を狙うとか考えられないのだけど?まぁ、長尾家も景虎が力を持つまでは随分と不安定だったようだし、景虎も若いから家臣に舐められているのかもしれない。私みたいに譜代の家臣ばかりならそんな心配は無いのだけど。
私は身体を起こして澄ました顔で、景虎からの文を政貞に渡した。政貞は神妙そうな顔で読み始めたけど、困ったように眉を下げて、文を勝貞に渡した。勝貞も同様に読んだけど眉を顰めていた。
「戦勝祝いのついでに珍陀酒とぶらんでーが欲しいみたいだね?私はてっきり上杉家との戦を非難されるのかと思っていたよ。杞憂で良かったけどね」
私がそう言うと勝貞が口を開いた。
「長尾様はまだ若いと聞いて居りますが、この文には酒の事ばかり記して居りますな。この勝貞は感心致しません。主君が若い頃から酒に溺れては政に支障が出ましょう。とはいえ、他家の主君に物申す訳にも参りませぬか」
「珍陀酒もそんなに出せないし、ブランデーも貴重なんだよね?今は百地の忍び達が試しを色々しているけど、寝かせないといけないから直ぐには用意出来ないんだよね。熟成中なら四、五樽はあるんだけど」
実験中の焼酎が完成すれば、ブランデーの代わりに贈る事が出来るし、麦や米が原料になるから大量生産が可能になるのである。進捗はどうなのだろう?蒸留酒は原理さえ理解すれば色んなお酒が造れてしまうのだ。なので、ワイン製造を一任している百地のお酒担当の忍びが色々試しているのだ。ブランデーは紅茶を広めるために必要だから、あまり出したくないんだよね。
「あの酒精の強い酒で御座いますか。某は湯で薄めて飲むのが良いかと思いますな。程良く酔いました後に蕎麦を食するのが決まりで御座います。そうそう、土浦に新たに出来た蕎麦屋は盛況のようで御座いますな?某も試しましたが良い店で御座いました」
「政貞はもう行ってきたんだ?私は小田城に帰って来てからまだ一歩も外に出ていないよ」
私達が戦をしている間に土浦の飲食街にお蕎麦屋と、うどん屋の店舗がオープンしたのである。私が経営するお店で、熊蔵が連れて来た手伝いの小者の梅吉と松蔵に蕎麦打ちとうどん打ちの技を覚えて貰って、店長になって貰っているのだ。経営が軌道に乗ったらお店は彼等に譲渡する事になっている。政貞は小田に帰って来てから忙しい合間を縫って顔を出したらしい。私も行きたかったな。
「蕎麦好きとして顔を出さぬ訳には参りませぬ。御屋形様も試されると良いですな。椅子に座って食せるのはよう御座いました」
「お酒を飲んだ後にお蕎麦は良いかもね?景虎殿が来たらお出ししてみようか?」
長尾景虎の文を読んで荒事ではないと判った途端に私はお気楽になった。そして政務に戻ったけど、私達の部屋に桔梗がやって来て言ったのだ。
「御屋形様、越後の長尾景虎様が戦勝のお祝いに参りました。広間にお通し致しましたのでお支度をお願い致します」
えっ?もう来たの?確かに手紙にはそう書いてあったけど冗談だと思ってた。ていうか、この時代の文に冗談を書く人はいないと思われるから、私の勘違いにも問題がある気がする。一体どういう人なのだろう?景虎と会う為に、私は慌てて着替えをする事になったのだ。
Diego様
レビューを頂いてありがとうございます。心より感謝申し上げます。




