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第百三十六話 信秀と信長


 ―尾張国 清洲城―


 小田氏治と佐竹義昭がそれぞれの本拠地に帰還し始めた頃、清洲城では大規模な酒宴が行われていた。上座に座すは、織田信秀と、その嫡男である織田信長である。その二人の前には人の列が出来ていていたが、信秀と信長の前に並ぶ人数に明らかな偏りがあった。そして並ぶ者は皆一様に緊張した面持ちであった。尾張の統一を果たした信秀と信長は祝いと称して酒宴を計画したのである。


 こうなるまでの経緯はこうである。信秀は過去に正木時茂から今川義元との和睦を求められた事があったが、その時はにべもなく断った。その後、信長を訪問した小田氏治から尾張統一への道筋の話を聞き、信秀は大いに影響を受けたのだ。合わせて語られた律令の有用性も理解した信秀は、今まで心の内に描いていた構想を一変させた。嫡男である信長と相談し、尾張統一を志す事に決めたのだった。


 そうして準備を始めようとした矢先に、再度正木時茂が織田信秀を訪問した。そして再び今川家との和睦を要請された信秀は、これを幸いと飛びついたのである。信秀と信長はこれを好機とし、重臣である平手政秀に命じて斎藤利政に尾張統一の為の援軍要請を求めたのだ。


 信秀から要請を受けた斎藤利政は、突然の話ではあったがこれを受ける事にした。美濃斎藤家は越前の朝倉家や近江の六角家と小競り合いが続き、何れは大戦に発展するのではないかと危惧を抱いていた。斎藤利政は美濃国の守護大名、土岐頼芸から国を奪って大名になった人物である。家格など無きに等しく、国を奪った成り上がり者として周囲の国から敵意を向けられていた。


 現代では美濃の蝮と呼ばれて戦国時代の大物として語られる斎藤利政だが、この時代では斎藤利政を恐れる大名などはいないし、美濃の蝮と呼ぶ者も存在しない。現代人が持つ斎藤利政のイメージは、創作に創作を重ねたものであり、実像とは大きくかけ離れている。大物と呼ばれる大名は細川氏や畠山氏、六角氏や三好氏などであり、斎藤利政は成り上がり者として軽蔑されているのである。


 そんな状態であったので、斎藤利政は婚姻関係を結んだ織田信秀が尾張を統一すれば共闘体制が強化され、自身の国を守り易くなると考えたのである。それに、将来家督を継ぐであろう娘婿である信長を気に入っていた事もあり、信長となら巧くやれるだろうとの考えもあり、斎藤利政は織田信秀からの要請に応えたのだった。


 今川義元と和睦をし、縁戚である美濃の大名である斎藤利政に尾張平定を目的とした協力を求め、斎藤家の援軍を引き出す事に成功した信秀と信長は、斎藤家の軍勢と挟み撃ちにして尾張の上四郡を治める織田信安と下四郡を治める守護代の織田彦五郎、そして織田信清、 尾張守護である斯波義統の勢力を瞬く間に平らげたのである。


 その中心にいたのが信長だった。信長は父である信秀に次々と軍略を提案した。小田氏治の「私と孫子」には古代中国の戦術から近代の戦術や戦略の概念や情報の扱い方まで記されており、それを吸収した信長が提案した軍略は信秀を唸らせた。そしてその軍略を元に軍勢を動かして次々と敵を粉砕して行ったのである。 


 守護代の織田彦五郎は討ち死にし、上四郡を治める織田信安を捕らえ、織田信清は降伏し、尾張守護である斯波義統は追放したのだ。生来、気持ちの優しい信長は尾張守護と守護代の扱いに心を痛めたが、今の現状が続けば(いず)れは今川家に滅ぼされる事は明白であり、今はやらなければやられるのだと自身を納得させたのだ。


 信秀は当初は主家への反乱行為に戦々恐々とした気持ちにはなったが、いざ事を起こして城を奪い、捕虜にしてみると守護である斯波義統を始めとする斯波家の家臣達や、同族であった守護代の織田彦五郎の家臣や織田信安、織田信清の家臣も揃って信秀を恐れ、恭順を申し出て来た。その様子を見て(こんなに呆気ないものなのか?)と拍子抜けした信秀は被官する者のみを許し、拒絶した者は国外追放とした。

 

 信秀は戦が終わると直ぐに信秀の嫡出子である織田信勝を城に呼び出して捕らえてから家督継承権を奪い、織田家の菩提寺である万松寺に出家させたのだ。信長に叛意を持つ派閥になりつつあった事を知っていての行動である。家臣からは諫める者も多数出たが、聞く耳を持たずに不満のある者は当家から去れと言い放った。


 それ以降は信秀のやり方を咎める者も無く、奪った領地は全て嫡男である信長に与えたのだ。城には自身と信長に近しい家臣を城代に置き、所領を家臣に与える事はしなかった。信秀のやりようを目の当たりにした家臣達は、皆一様に頭を捻ったが、今の信秀に逆らう力も無く、黙って従ったのである。こうして信長は父である信秀よりも多い領地を手に入れて、織田家中で一番の軍事力を持つ事になった。


 信長の友であり、同盟者でもある小田氏治の助言をそのままに、信秀と信長は尾張統一を強引に果たしたのだ。そして尾張と西三河を合わせて六十二万石の大名に成長したのである。信秀と信長は休む間も無く次の手と策を練った。あれこれと話をしながら信秀は愉快そうに口を開いた。


 「初めはどうなる事かと思ったが、やってみると案外大した事がなかった。かように巧く事が運ぶならもっと早くにやっておくべきであったな?」


 そう言って信秀は酒杯を口に運んだ。その様子を見て苦笑しながら信長が答える。


 「私は巧く行き過ぎたと考えています。今川との和睦に斎藤家の援軍、運もあったのでしょう。ですが、これで尾張の統一は成りました。他国も当家には簡単に手が出せないでしょう」


 「左様であるな。其の方の申す通り信勝は寺に押し込めたが、この後は如何致すつもりだ?其の方のことであるから乱暴は致すまいが?」


 「父上、信勝は私にとっては大切な弟です。此度は取り巻きの家臣を信勝から引き離すのが目的です。少々乱暴ではありましたが、落ち着きましたら寺から引き揚げ私に仕えるように命じるつもりです。佞臣に冷や飯を食わせてからになりますね」


 「うむ、あのような事を致したので信勝に合わせる顔が無い。時が来たら其の方からしかと説明せよ。信勝が寺から戻れば儂は親として信勝に詫びようと思う」


 信秀が心を痛めている様子を見た信長も同様に心を痛めた。だが、織田家の中の派閥を放置する訳にはいかない。律令の導入と合わせて一気にやってしまった方が良いと判断したのである。


 「信勝の事はご安心下さい。父上、次の手を打たねばなりません。面倒ではありますが策があります」


 信長はそう言って信秀に胸に秘めていた策略を話した。信秀は信長の策を聞いて目を丸くしたが、面白いと同調したのである。


 数日を置いて、信秀と信長は国内の主だった家臣を集めて大々的に祝いの宴を催した。織田家の家臣達は続々と清洲城を訪れたが、広間の上座に信秀と信長が中央を分けて座している様子に驚いたのである。本来であれば主君である信秀が上座に座るのが当然である。にも拘らず、二人で分け合うように上座に座っているのである。挨拶をしなければならないが、あまりに不自然な様子を見て、これではまるで二人のどちらかを選べと問われているように感じた。


 織田家の家臣は取り敢えずと広間を分けるように並び座り、様子を伺ったのだ。そしてその視線は信秀の長男である織田信広に注がれた。身分の高い者から挨拶をするので西三河を任されている織田信広の動きに注目が集まったのだ。


 堪らないのが信広である。自身は確かに信秀の長男だが、家督を継承する気は更々無かった。弟である信長に仕える事にも抵抗は無かったし、命じられれば素直に従うつもりでいた。だが、一方的に家督の継承権を奪われ、寺に押し込められた織田信勝の例がある。選択を間違えれば自身もどうなるのか予測が付かなかった。


 一方で信秀と信長は家臣の様子を観察していた。上座を二つに分ける事を提案したのは信長である。今後、家督を継ぐ自身に従うのか、父である信秀に従うのか明確に分ける為である。家臣を悩ませて申し訳ないという気持ちもあるが、信長はここできっちりと色分けをした方が今後がやり易いと考えたためである。この尾張統一の戦もそうだが、律令を導入すれば信長に従う者達を重用するつもりでいて、何かと反対ばかりする家臣など今後は必要ないと考えているのである。そして更に一計を案じていた。


 思い悩んで動けずにいる信広を置き去りにするかのように動いたのが平手政秀である。平手政秀は嫡男である平手長政を伴い、真っ直ぐに信長の元に向かい平伏した。居並ぶ家臣達はその様子を固唾を飲んで見守っていた。そして平手政秀は今回の戦の祝いの言葉を述べた後に信長に願い出たのである。


 「信長様、我が平手家は信長様に被官致したく思いまする。我が所領は全て信長様に献上致します。どうか我が一族の被官をお許し頂けますよう」


 そう言って平手政秀は長政と共に平伏したのである。それを聞いた信長は平手政秀の元に歩み寄り、そして平手の手を取りながら口を開いた。


 「よくぞ申してくれました。平手のような家臣がいてくれてこの信長は幸せ者です。これからの織田家は新しき(まつりごと)で国を差配していくつもりです。一番に被官を名乗り出てくれた平手には今の所領の一部と俸禄を与えましょう。これから忙しくなるので存分に励むように」


 その様子を見て居並ぶ家臣達は大いに驚いた。被官するという事は領地を捨てて、俸禄で仕えるという事である。手柄を挙げ、褒美として土地を貰い増やす事が武士の在り方である。そして現状を見て考えた。まさかこの場で被官しないと咎められるのだろうかと。居並ぶ家臣が困惑している様子を見て信長は口を開いた。


 「皆の者、此度は偶々(・・)平手が被官致しました。別にこの場で皆に被官しろと申している訳ではありません。気にせずにいつもの通りに振舞いなさい。ただ、丁度良い機会なので皆に聞いて貰おうと思います」


 信長はそう前置きしてから大きくよく通る声で語り始めた。自分が家督を継承したら織田家では律令の制度を用いて政をする事や、律令とは何かという事を解り易く説明し、そして今後は被官した者が優先的にその役割を担うであろうという事。そして被官を強要するつもりは全くない事も強調して説明した。


 信長は語り終えると元の座に戻った。信長の言葉を聞いた家臣達は一言も言葉を漏らさずに聞き、そして説明された律令を理解した者はその発想に驚き、話に付いて行けずに律令を理解出来なかった者は混乱した。そして様々に考え、思い悩みながら次に挨拶をするのは誰だと目だけを動かしていた。そしてその視線は再び信広に注がれる事になった。


 当の信広は居並ぶ家臣とは違って落ち着くことが出来た。元より野心など欠片も無い信広である。信広自身の立場はとても不安定である。織田家の家督を狙う資格があり、いつ謀殺されるか判らない身の上である。信広は静かに立ち上がり信長の元へ行き平伏した。そして挨拶を済ませると、平手政秀を模倣するように言葉を発した。


 「若殿、この信広も若殿に被官致します。私の領地の全てを若殿に献上致します。この信広は一族の者として平手に負ける訳には参りませぬ。どうぞお認め頂けますようお願いいたします」


 「兄上、有難い申し出です。この信長は嬉しく思います。兄上も平手同様に領地の一部と俸禄を与えます。そして苦難はありましょうが、共に領地を育て、繁栄させ、富貴を共に楽しみたいと考えています」


 信長がそう言うと信広は破顔して言った。


 「なんの。この場で言うのは憚られる事かと存じますが、兄が弟を守るのは当たり前の事。これからはこの信広を御頼り下さいませ」


 信広の言葉を聞いて居並ぶ家臣は驚愕した。そして信広が挨拶を済ませると、序列など関係ないと各々が動き出した。元より俸禄で召し抱えられている者はすぐさま信長の前に並び、そして律令が理解出来ずにいた者は取り敢えずと信秀の前に並んだ。そして律令を理解して迷う者は動けずに座ったまま悩んでいた。


 家臣にとってはまるで踏み絵のような選択を迫られた酒宴はまだ始まったばかりである。だが、今は圧倒的軍勢を持つ信秀と信長はこの為に家臣が他家に鞍替えしてもいいと考えている。むしろ、そうしてくれれば軍勢を差し向けて領地を切り取れるのだから歓迎したいくらいである。


 そんな中で柴田勝家は動く事が出来ずに膝の上で握った拳を見つめていた。額からは汗が流れ、どうするべきか決断できないでいた。次々と挨拶に向かう者を横目で捉えながら苦悩したのである。暫くはそうしていたが、やがてどうにでもなれと柴田勝家は信長に挨拶をし、被官を申し出たのであった。


 異様な雰囲気で始まった酒宴が終わると、家臣達は皆一様に疲れ果てた顔をして帰宅の途についた。柴田勝家は家中に何と説明しようかと思い悩みながら馬に揺られたのだ。そして「どうしよう……」と猛将らしからぬ言葉をポツリと漏らしたのである。


 そんな家臣達の苦悩を他所に、信秀と信長、平手政秀は清洲城内の部屋に引き籠もり、話を始めた。思っていた以上に信長に支持が集まった事に信秀は安堵していた。そしてこっそり記させていた名簿を見ながらほくそ笑んだのだ。


 「信広が被官致したのが大きいな。この酒宴で領地を切り取ると其の方が申した時は何のことやら解らなかったが、かような悪巧みを致そうとは思うておらなんだ。我が倅ながら何たる悪党か。巻き込まれた平手が気の毒で仕方ないわ」


 そう言いながらも信秀は運ばせた珍陀酒(ちんたしゅ)を口に運びながら破顔した。


 「なんの。この平手は信長様に全てを差し出すに躊躇致す事は御座いません」


 「爺には迷惑ばかり掛けますが、此度は助かりました。お陰で律令を行う事も説明出来ましたし、領地を持つ者も被官してくれました。それに父上?兄上には元々野心は御座いません。この信長には判っていました。ですが、兄上を取り巻く家臣はそうではないようですね。それも此度の酒宴でその野心は潰せたと思います」


 「尾張を平定し、西三河も維持できている。今川は北条殿に戦で敗れ、河東を失ったと聞く。出来る事なら今すぐにでも三河を平らげたいところだが、当家も大国になった故、条約破りなど致す訳にも参らぬ」


 信秀が口惜しそうにしている様子を見て、信長は珍陀酒(ちんたしゅ)を一口飲んで口を開いた。


 「どの道、領地を掌握するまでは侵攻出来ません。それに斎藤家へ援軍を出さねばなりません。律令を完全に致すには領地を慰撫しなければなりませんから数年は大人しくするしかないでしょう。ですが、これで当家の所領は六十二万石。ようやく氏治殿に並ぶことが出来ました」


 「氏治殿と佐竹殿は他人の戦に駆り出されていると聞いたがどうしているだろうか?」


 「文は送ったのですが、返答がありません。未だ戦をしているのかもしれませんね。いつも氏治殿の戦の様子を文で頂いていましたが、此度はようやくこの信長も自慢が出来ます」


 「大いに誇るがいい。氏治殿の所領も六十二万石だった筈だ。これで胸を張って堂々とお会い出来るし、お会いした際にはご助言に礼を言わねばならぬ」


 そう言うと信秀がニヤリと笑った。その後は被官した者の名簿を三人で検討し、今後の律令の導入を思案する事になった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 豊かな尾張国の平定に成功し織田家はスタートラインに立つ事が できましたね。 織田信広は被官しましたし信勝は剃髪して寺に入りましたし 後継者問題が起きないようになったのも大きいですね。 動員…
[一言] 氏治のほうはとんでもないことになっててちょっとかわいそうだなwww
[一言] 信長さんところも纏まってきましたねー。 信長さんところと言えば林と佐久間と丹羽(五郎左と違う一族)がどうするのか気になるところです。最近知ったのですが林さんは信秀とヤンチャしてた悪友らしいで…
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