第百三十五話 北条包囲網 その22
―相模国 小田原城 北条氏康―
北条氏康は幻庵から和睦が成立したと報告を受け、内心で胸を撫で下ろした。交渉相手が上杉家から小田家に代わった事には驚いたが、上杉家と小田家の争いの原因を聞いて納得したのだ。風魔からは上杉憲政の暴言が噂話として流れているとは聞いていたし、城下でもその話が話題になっていると家臣からも聞いているから、小田家の乱破である百地が噂をばら撒いたのだろうと当たりを付けた。
帰還した北条幻庵が酷く不機嫌で、小田氏治を罵る様を見て氏康は首を傾げた。幻庵から話を聞くと、人質になると申し出た幻庵を袖にして、綱成を指名した事が幻庵の勘気に触れたらしい。いい歳をしてとも思ったが、氏康が最も頼りとする北条綱成を指名した氏治の判断は正しいと内心では考えた。幻庵が小田氏治憎しで語るので、綱成が戻ったら人となりを聞いてみようと氏康は思った。
「全く無礼な小娘じゃ。殿よ、このままでは当家は小田の小娘の門外に馬を繋ぐ事になるだろうよ。なんぞ策を練らねばならぬ。此度は命脈を繋いだが、今後はそうは行くまいよ」
憎々し気に語る幻庵の様子を見て、氏康は内心で嘆息した。伊勢宗瑞の末子である幻庵は家中はもとより、周辺諸国からも一目置かれる存在である。だが、人質を断られたくらいでそれほど怒るものかと氏康は考えるが、当の本人は御立腹らしい。お陰で氏康までこうして当たられているのである。
「そう頭に血を上らせては見えるものも見えぬのではないのか?今少し落ち着かれよ。既に和睦は成った。氏治殿であれば今川殿のように約束を破る事もあるまい。武蔵を奪われたのは口惜しいが、今は言うても始まるまい」
氏康がそう宥めると、幻庵は気にした様子もなく口を開いた。
「殿がかような様子では北条は滅びますぞ!この幻庵も、亡き父上に顔向けが出来ぬ。小田の小娘は仁者を気取って居るが、下総に上総、安房に武蔵まで全てを手に入れよった。これが謀略だとすれば、諸国が皆騙された事になる。いっそ風魔を送り、弓でも毒でも使い、殺してしまうほうが良かろう。小田家には世継ぎが居らぬと聞いて居るから亡き者に致せば国が割れようぞ」
幻庵の言葉を聞いた氏康の額に一瞬で朱が差した。そして常には表に出さない感情を見せながら氏康は吠えるように言った。
「かような卑怯な真似が出来るか!其の方、この氏康を何と心得る!暗殺など致さぬ!この氏康は恥を知って居る。二度とかような事を口に致すな!」
氏康がそう言い放つと幻庵は顔色一つ変えず氏康を見つめた。その両眼は色が深く落ち込んだようで、まるで獣を思わせた。幻庵は氏康に平伏すると、無言で部屋から立ち去った。その背中を見送りながら氏康は奥歯をギリリと噛み締めた。
機嫌を損ねた氏康は暫くは腕を組んで己を諫めていた。ついカッとなって感情を出してしまった事を反省し、何れは幻庵も機嫌が直るだろうと考える事にした。そして今後の北条家の舵取りに思いを切り替えた。
氏康の義弟である北条綱成も人質になったとはいえ、無事に戻る事が出来るだろう。だがこれで武蔵を失う事になったのが痛手であった。小田家は下総、上総、安房、武蔵を獲り、石高は百九十万石を超える事になった。もう小田家に抗う事は不可能に思えた。その上、佐竹家と同盟されては最早手出しなど出来ないだろう。そして氏康は今まで耳にした氏治の話を思い返した。
小田氏治が戦をしながら民に施しをした事は心底驚いた。前代未聞の行いに氏康は感動すら覚えたのである。民に施しをすると言っても簡単に出来る事ではない。事前に民に施す物資を用意していたに違いないと氏康は考えた。そして民を安んじる行為を行う事を当たり前に熟す氏治を尊敬した。若い娘だというが、そのような事は関係なかった。氏康は父である北条氏綱から伝えられた五か条の訓戒状の一文を思い返した。
(一つ、侍から民百姓にいたるまで、全てに慈しむこと。人に捨てるようなものはいない)
小田氏治は正にこれを実践しているのである。氏康自身が未だ為し得ぬ行いである。戦に次ぐ戦で民に負担を掛けていた事を氏康はいつも心苦しく思っていた。何れはと考えてはいたが、北条家の台所は厳しく、ままならぬ状況に歯噛みをしていたのだ。自身が為し得なかった事を為した小田氏治に賞賛の気持ちと、自身には情けないと叱咤した。
氏治が行った武蔵の城獲りにも心底驚いた。氏治の軍略の才を認め、今川義元との戦では氏治に倣って見せ兵を活用した氏康だったが、風魔から報らされた城獲りの謀略は前代未聞であり、そして痛快で、面白くもあった。怪我人を演じて門を開けさせ、引き連れた少数の軍勢で城を瞬く間に占領したというのだから驚くしかない。
しかもそれを同時に行い、狙った城の全てを奪ったというのだ。佐竹義昭も同調して下野を平定し、更に上野の一部を占領したという。小田氏治の軍略の底の深さに氏康は感心するしかなかった。仁君であり稀代の軍略家である小田氏治は若い小娘であるという。一体、どの様な教えを受ければあのような奇策を思い付くのか見当も付かなかった。百九十万石の大国の主となった小田氏治に対して勝ち筋が全く見えなかった。これでは幻庵が言うように、氏治の門外に馬を繋ぐ事になりそうだと自嘲して笑った。
数日を要し、小田家への城の明け渡しが終わると氏康は軍勢を解散した。小田家と佐竹家の軍勢は未だにあるが、和睦を破り、討ち入る事などあるまいと思えた。血縁である今川義元が信用できないのに、会った事も無い小田氏治や佐竹義昭を信ずることが出来るのが可笑しかった。武蔵に帰って行く兵を見送りながら、次に戦があるとすればあの者達と戦うのかと嘆息した。
そして北条綱成が帰還すると、氏康は重臣達と共に綱成から報告を受けた後に綱成を屋敷に呼び出して氏治の話を請うた。小田家の陣内に留め置かれたのならば、綱成が氏治と話をする機会くらいはあっただろうと考えたからである。戦には負け、領地を獲られる結果にはなったが、氏治への興味が尽きなかった。
氏康の屋敷を訪れた綱成は土産を持参してきた。氏康の目の前に並べられた品はどれも見た事が無い物であった。
「これは珍陀酒と申しまして、小田殿のご領地で造られた酒だと申されました。この珍陀酒をこの美しき器にて飲むそうで御座います。人質の身で土産を貰ったなどとは言えませぬから、今お持ち致しました。殿への土産もこちらで御座います」
氏康は綱成から差し出された箱を開けると珍陀酒と硝子の器が入っていた。その珍しくも美しい様に氏康は瞠目した。そして箱から緑色の瓶に入れられた珍陀酒を取り出して繁々と眺めた。
「これは参った。戦に負けて土産を貰ったなどとは口が裂けても言えぬ。だが嬉しくもある。氏治殿にはなんぞ礼をせねばなるまい。それにしても、かような物を氏治殿は御領地で造られて居るのか?」
「某もそう思いまして小田様にお聞き致しましたが、御領地で造っていると申されました。南蛮の酒を模した貴重な酒であると申されましたな」
そして綱成は酒を試そうと二つのグラスに珍陀酒を注いだ。赤い液体を興味深く観察ししてから一方を氏康へ、そして自身は毒見をすると酒を呷った。
「これは……。何とも言えぬ味わいで御座います。香りもいいし、酒精も程よう御座います」
氏康は綱成が酒を飲み干すのを見届けると、自身も珍陀酒を口に運んだ。今まで嗅いだ事のない香りと味、そして酒精に驚いた。そして一気に飲み干した。
「美味い……。かような酒は初めてだ。南蛮の酒を模したというが、よくぞ造ったものだ」
氏康と綱成は互いに珍陀酒を評しながら酒の味を楽しんだ。軽く酔いが回って来ると氏康は綱成に小田氏治の話を聞きたいと切り出した。
「何でもよい。この酒も氏治殿の政のひとつであろう。真に驚かされる。かように近くに居りながら、我らは気付きもしなかったのだ。戦をしながらの民への施しや、武蔵の城攻めの謀略も見事過ぎてぐうの音も出ぬ。まだまだ何かあるのではないかと思うてしまう」
綱成は苦笑しながら口を開いた。
「御年は十八だそうで御座います。目鼻が整った可愛らしい御仁で御座いました。語る言葉も御年に似合わず達者で御座いました」
そう言ってから綱成は小田氏治の事を語った。人質である綱成を随分と気遣ってくれた事や、今回の戦で上杉家と争う事になった顛末や、国造りの話に上方の話、話題の多い人だと氏康に話した。そして次郎丸に会った事や、自身が次郎丸を気に入った事など語ったのだ。氏康は珍陀酒を口に運びながら静かに聞いていた。
「殿もお耳にされたかと存じますが、小田殿の鉄砲には参りました。某が目で見た様子では五百は下らないかと?滝山城で鉄砲を撃たれましたが、あの数にはとても敵いませぬ。当家でも揃えるべきだと考えまするが、鉄砲も玉薬も高価。小田殿は如何にして揃えたのかは存じませぬが、今後の戦は鉄砲を多く持つ者が勝ちましょう」
「五百か……。富永からも凄まじきものだと耳にして居る。だが、相応の銭が掛かろう。今の当家では手が出せぬ。当家にある鉄砲は堺から持ち込まれたと聞いている。買い付け致すとしても堺に参らねばならぬ。相模の商人を介しては値も吊り上がろう。しかし、一丁で金十枚だと覚えて居るが、五百となると金五千枚になる。当家の懐ではとても揃えられぬ」
「金五千枚で御座いますか……。玉薬も考えますると目が眩むような大金が要りまする。せめて百は欲しい所で御座いますが」
「こうなると小田殿に抗う事など最早出来まい。今後は出来るならば盟約を結び、今川殿の駿河を狙うか、武田殿の甲斐を狙うしか道はあるまい。だが、長く続いた戦で国も民も力を失っている。今暫くは政に専念するしかあるまいな」
「左様で御座いますか。ならば使者は某にお命じ下さいませ」
氏康は珍陀酒の入ったグラスを置き、腕を組んで悩まし気な顔をした。
「それなのだが、幻庵が氏治殿を嫌うて居る。あの様子だと他の者にも触れて回ろう。なれば、そう簡単には行くまいよ。領地も失ったから家臣の心も揺れていよう。まずは領内を纏めねばならぬ。食わせられぬ主には誰も従わぬからな」
氏康の言葉を聞いて綱成も沈痛な面持ちになった。武蔵で知行を得ていた者達の生活を保障しなければならない。暫くは俸禄で養えるだろうが、何れは土地を求めて戦の催促をするだろう事は目に見えている。
「小田殿は下総、上総、安房、武蔵の来年の年貢を免除致すと申して居りました。一体、如何程の財をお持ちなのか……。羨ましい事で御座います」
「―――っ!真にそう申されたのか?」
「左様で御座います。小田様は当家が有していた領地は善政が敷かれ問題無いと申されましたが、上杉朝定の領地が惨いと申されました。同じ武蔵内で税が変わるのは宜しくないと、武蔵の全ての年貢を免除致すそうで御座います」
「これは敵わぬ。氏治殿こそ真の仁君よ、この氏康は到底敵わぬわ」
そして愉快そうに笑ったのである。そして北条氏康と北条綱成は酒を酌み交わしながら小田氏治の事や北条家の未来を語り合ったのだ。
長かった北条包囲網も今話で終了となります。気に入って頂けたか不安ではありますが、今後は幾つかのエピソードを書いて行こうと思います。「あのお方」の活躍にご期待ください。
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