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第百三十話 北条包囲網 その17


 長野業正は高台に置いた自身の本陣の外に出て、遠くに見える小田勢に追い散らされる上杉勢を睥睨するように眺め見ていた。昨日は主君である上杉憲政を始めとする重臣達の性根を見て怒り狂っていたが、一夜が明けると小田勢が上杉勢に討ち入っていたのである。


 昨日の話が何処かで漏れ、小田氏治を怒らせたのだろうと推測した。上杉勢は一方的に追い散らされており、ここからの挽回は不可能に思われた。小田氏治の軍勢は一万と聞いている。不意を突かれた上に他の上杉家の軍勢との連絡も儘ならない。長野業正の陣は小田家の陣から遠くにあり、その幸運もあって急いで兵を整えるように命じたのだ。だが、長野業正の箕輪衆だけで防ぎ切れるものでは無いとも考えている。


 遠くから軍勢の鬨の声や多くの弾けるような音が響いて来る。恐らくは鉄砲であろうと推測したが、あまりにも多いその音に頭を捻っているのである。鉄砲は上杉憲政も数丁所有して居り、長野業正も見物をした事がある。大きな音と鎧を貫く威力に関心はしたが、鉄砲は次に撃つのに時間が掛かかりすぎて使い物にならないというのが大方の意見であった。それに雨が降れば使えないし、更に高価でもあるので長野業正もそう考えたのだ。


 長野業正が腕組みをして判断に困っていると、家臣である上泉信綱が歩み寄って来た。上泉信綱は小田家に仕える愛洲宗通の父親である愛洲移香斎から剣を学んだが、未だ師に及ばずと己の剣の道を模索していた。上泉信綱の師である愛洲移香斎の子、愛洲宗通に会ってみたいと常々考えていた。


 愛洲宗通の武名は天下に鳴り響いていた。小田家の戦でも人を二つに切り裂いたと耳にしたし、胴を真っ二つにし、下半身だけがその場に残ったとも聞いている。更に敵の剣を斬ったというのだから驚く他は無い。師である愛洲移香斎ですらそのような事が出来たなど聞いた事が無かった。そして連合で北条と戦をすると聞いた時は陣中で会えようかと期待したものだった。だが、それは叶わず今はこうして敵対しているのである。


 「殿、軍勢の支度が整いまして御座います。ですが豊五郎の阿呆めが、戦の見物に参ると申して飛び出して行きまして、未だに戻りませぬ。放っておいても大事無いとは思われますが、如何致しましょうか?」


 長野業正はそれを聞くと目を丸くしてから快活に笑った。


 「豊五郎は若いゆえ血が騒いで仕方がないのであろう。羨ましき事よ。捨て置いても戻ってこようが、其の方は心配であろう?」


 上泉信綱は頬を指先で掻きながら答えた。


 「あれはまだまだ未熟な上に(わっぱ)で御座る。初陣こそ果たしましたが、戦場(いくさば)の恐ろしさを解して居りませぬ。血気ばかりが盛んで、某も手を焼いているので御座います」


 「ならば今少し待つと致そう。小田様の軍勢もここに来るまでに時が掛かろう。だが、戻らねば置いて行く。其の方は豊五郎への仕置を考えておく事だ」


 「やはり引かれるので御座いますか?」


 「あの軍勢とはまともにやり()うたくないのう。そもそも、上杉憲政様の悪心が引き起こした戦なのだ。何者が小田様に報せたのかは知らぬが、あの話を聞けば戦になるに決まって居る。いくら主君とはいえ、この業正はお助けする気にもなれぬ。太田資正は真っ先に狙われようから今頃は首になっているやも知れぬな」


 上泉信綱は長野業正の言葉を聞いて顔を曇らせた。味方への不意打ちに、下劣な悪口(あっこう)を長野業正から聞いた時は(はらわた)が煮えくり返った。屑共をこの手で斬り殺したい思いに駆られたが必死に我慢をしたのである。弱小ゆえに理不尽に耐えねばならないが、それは主君である長野業正も同じだろうと考えたのである。


 「小田様は上野に攻め込んで来ましょうか?管領様が討たれる事でもあれば、我らも覚悟を致さねばなりませぬ」


 「小田様は此度は大領を得られた。聞けば、獲った領土の民百姓に施しをしながら戦をしていると聞いている。驚くべき事だが、真らしい。かような振舞いをする御方だ、直ぐには来るまいよ。だがこれで連合も仕舞になり、我らは小田様と佐竹様との戦をする事になろう、頭の痛い事だ」


 「小田様がお怒りであれば管領様は滅ぼされましょう。当家も舵取りをせねばなりませぬ。小田様の為さり様は某も耳に致して居ります。まさに仁君であると思われます。どうせ仕えるなら、そのような方にお仕え致したいもので御座いますな」


 上泉信綱は遠くの戦場を見ながらそう言った。小田氏治に付けという主張は正しいと長野業正も理解はしている。


 「其の方の申す事は尤もである。だがこの老いぼれはしがらみが多過ぎて簡単に主を変えられぬのだ。いよいよとなれば決断致さねばなるまいが、今少しは時世を眺めようと思う。上杉憲政様が生きて居られれば幾つかの道はあろうからな」


 長野業正は上杉憲政が本陣を置く龍源寺に目を移した。ああは言ったが、上杉憲政が捕らわれればどうなるか分からない。自分であれば決して許さず斬るであろうと考えた。

 

 「信綱、軍勢を箕輪に引かせい。騎馬のみを残し、豊五郎を待つついでに戦の様子を見る事に致す。正木殿は小田様の本陣に陣替え致すと申していた。ならば身の心配はあるまい」

 

 長野業正は引き連れて来た軍勢を帰還させた。自らが残ったのは、少しでも戦の様子を知りたかったからである。戦場を眺め見ながら長野業正は上杉家の碌でもないだろう未来に嘆息した。


 小田氏治の陣に腰を落ち着けていた正木時茂は、小田家の軍勢が出陣すると共に捕らわれの身となった。縄を打たれたわけでは無いが、小田氏治から借りた陣内に留め置かれているのである。正木時茂は説明を求めたが、小田家の家来は「今しばらく」と言うのみで状況が掴めなかった。だが、軍勢の鬨の声と、鉄砲と思われる多くの射撃音で小田勢が上杉勢に戦を仕掛けている事だけは理解出来た。


 上杉憲政の酒宴に参加していなかった正木時茂は、彼らの企みを知る事が無かったので、なぜ小田氏治が裏切ったのか理解が出来ないでいた。太田資正が上杉憲政の名代として小田氏治の元に出向き、関東管領として戦に参加する事を命じ、その際に諍いがあった事は聞いている。もしやそれが理由かと考えていると、陣幕を潜って小田氏治がやって来たのだ。


 正木時茂は急ぎ挨拶をしてから、事情の説明を氏治に求めたのだ。氏治は穏やかな様子で戦になった経緯を語ってくれた。そしてそれを聞いた正木時茂は怒りに震えたのである。


 「かような事が御座いましたか。小田様の御怒りは御尤もだと存じます。当家は領地を失いましたが、某はせめてこの連合の目的を達しようと力を尽くしたつもりで御座います。ですが、かような結果になり残念で御座います」


 氏治はうな垂れてしまった正木時茂を見て胸が痛くなった。里見家の謀略ではあったが、正木時茂は御家の為に尽くしたのである。何かしてあげられる事は無いかと考えたが、正木時茂の望みは里見家の領地の回復だろう。だが、肝心の里見義堯が非を認めないし、小田家は里見家に討ち入って領地を取り上げてしまっている。家臣達の手前もあり、主君である氏治でも簡単に許す事が出来ないのである。


 「正木殿、お気持ちは察します。ご不便をかけて申し訳ありませぬが、今少しご辛抱下さい」


 氏治がそう言うと正木時茂は、ハタと気付いたように顔を上げた。


 「もしや、某共に陣替えを求めたのはこの為で御座いましたか。某共が巻き込まれぬよう御計らい下さいましたか?」


 「そうですね。此度の戦は様々に思わぬ出来事ばかりが起きましたが、正木殿が懸命に励んでいるのは承知しています。正木殿をお救い出来て、私は安堵しています。失礼な申しようですが、正木殿が不運続きで心を痛めていたのです。当家は大領を得ましたし、今のこの戦も勝つでしょう。諍いもありましたが、当家だけが得をしている形ですからせめて正木殿のお命を守ろうと考えたのです」


 正木時茂は氏治の言葉を聞いて、周りからはそう見えるのかと自分を笑った。


 「恥ずかしい限りでは御座いますが、お心遣い感謝致します。小田様、戦を仕掛けられた事は納得致しました。某がお聞きしてよい事なのか判りませぬが、小田様の軍勢は一万だと聞いて居ります。不意打ちであれば上杉勢も容易く崩せましょう。上杉様はどう致すので御座いますか?討ち取るなり捕らえるなり致すとは思いますが?」


 「家臣には捕らえるように申し伝えていますが、皆が怒っているので無事では済まないと思います。捕らえた後は上杉に引き渡しますが、条件を付けての話になると思います。当家と佐竹家はすでに武蔵の主な城と、下野の城を獲っていますから、支城の明け渡しが条件になるでしょうね」


 氏治の言葉を聞いて正木時茂は眉を顰めた。上杉家の城を獲った話など聞いていないし、氏治の軍勢はここに居るのである。正木時茂はどういう事なのか説明を求めた。氏治は策を弄した事を説明すると正木時茂は絶句した。


 「正木殿、仕方がなかったのです。上杉様は敵になりましたから力を残すわけには参りません。私も出来れば穏便に済ませたかったのですが、この方法が一番早かったので仕方なしなのです。本当に仕方なかったのですよ?」


 氏治は仕方ない、仕方ないと弁明じみた発言をしているが、古今でも聞いた事も無い軍略に正木時茂は呆れ、そして恐れた。まるで騙り(詐欺師)のようなやり方ではあるが、確かに巧く行くだろう。この御仁は労せずして武蔵を切り取ってしまったのだ。そして、同盟者である佐竹義昭も同じである。この可愛らしい娘から悪鬼のやり口とも言える策が飛び出そうとは思いもよらなかった。賢いとは思っていた。自分達の策を見破ったのも氏治だった。もしかしたら氏治に関わらなかったら里見家は今頃は上総を平らげていたのでは無いかと思えた。


 「さ、左様で御座いますか。かような策は聞いた事が御座いませぬ。参りました、真に参りました」


 「此度は当家も領地を獲り過ぎました。これ以上は統治に支障が出るので、上杉様はお返しして戦を終わらせたいと考えています。ですが、佐竹殿は上野を切り取ると申されましたので、当家は合力する事になると思います」


 「関東管領家を滅ぼすおつもりで御座いますか?」


 「そうですね、この坂東の争いが治まらないのは管領家の諍いが絶えないからだと考えています。古河公方様も力が無く、管領家を抑えることは出来ません。先々を考えますと再び争うのでは無いかと私は考えたのです。なのでその芽を摘んでしまおうとも考えての戦です」

 

 「ですが……。いや、この戦で小田様が勝利なされば、関東管領の名など意味が御座いませぬな。それにしても領地を獲り過ぎたとは羨ましく思えてしまいます」


 「武士は土地の為に命をかけるもの。正木殿のお気持ちは察しますが、安房をお返しする事は叶わないと考えています。当家の家臣が血を流して獲ったのですから」


 「承知して居ります。今の某は里見義堯様とご家族の命を第一と考えて居ります」


 「それであればご安心下さい。里見殿やご家中に害をなす事はありません。ですが、その後の暮らしが心配ですね。当家に仕えて頂ければ俸禄で召し抱えますが、里見殿の様子を聞きますと、叶わないのではないのかと思ってしまいます。せめてご家中の皆様だけでも当家に仕えるように正木殿からもお話しください。もちろん正木殿も私で良ければ仕えて欲しいと考えています」


 「勿体ないお言葉で御座います。どのような結末を辿るか判りませぬが、当家の家中の者共も今後を案じていると思われます。その際には御恩情に御すがり致したく存じます」


 「正木殿は如何致すのですか?当家に仕官下さったら重臣の列に加わって貰うつもりです」


 「某は義堯様に付いて行こうと考えて居ります。ですが、一門の者は小田様の御恩情に甘えさせたく存じます。某が家を潰すわけにも参りませぬゆえ」


 その後、氏治は幾つかの確認をすると正木時茂の前から去って行った。これで戦も終わりかと正木時茂は独り言ちた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 長野業正や正木時茂が小田氏治の家臣になればいいのになぁ。 長野業正と箕輪衆や正木時茂の正木家は実に惜しい。 長野業正や正木時茂から目が離せないですね。
[良い点] 切口が面白くて、一気に読めました 次は、どんな時代が来るのでしょうね ヒロインの口が達者なことには、驚いています 正論をブチかますから、誰も論破できません ムチャクチャ、楽しんでいます…
[一言] ついに剣聖・上泉信綱が登場しましたね。豊五郎は信綱の甥で高弟の疋田景兼ですか。でも今はまだ15歳の童なので血気盛んのようですね。 一方、長野業正や正木時茂は忠義の臣なので簡単には主君を替えら…
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