第百二十七話 北条包囲網 その14
―武蔵国 龍源寺 上杉憲政本陣―
龍源寺に置かれた上杉憲政の本陣では今日も酒宴が催されていた。陣中の労をねぎらうとして始まった酒宴だが、包囲の退屈凌ぎにと毎日ダラダラと続けていた。山内上杉家当主である上杉憲政は女を侍らせて酒を注がせている。列席するのは扇谷上杉家当主の上杉朝定を始めとする連合軍に参加した両上杉家の重臣達である。
かつては大敗を喫した河越城での戦であったが、今回の連合軍は敗戦の教訓を踏まえ、昼夜問わずの攻撃を北条綱成が守る河越城に仕掛けた。兵も少なく、援軍の当てもない北条綱成は連合軍からの攻撃にしばらくは耐えていたが、頃合いをみて真夜中に軍勢ごとの脱出をし、主君である北条氏康から指示された言葉に従い、滝山城に入り籠城したのである。
河越城を落とし、雪辱を果たした両上杉家はこの勝利に沸きに沸いたのである。昼夜問わずの城攻めを提案したのは太田資正であった。扇谷上杉家中では軍略に優れると評される武将で、かの太田道灌を曽祖父として持ち、その名声も手助けして、諸将から一目置かれていた。河越城攻略の功労者と認められた太田資正は、急作りの連合軍内で存在感を示していた。主君である上杉朝定は無論の事、関東管領である上杉憲政からも評されて太刀を贈られている。
河越城を落とした連合軍は勢いを増し、北条家の支城を次々と攻略し、過去に奪われた領地を回復して行った。常陸の佐竹義昭が離脱して小田氏治の軍勢と合流するという出来事はあったが、全体の兵力が減ったわけでは無しと不問となった。
両上杉勢は勢いそのままに北条綱成が籠る滝山城に殺到した。だが、複雑な形をした丘陵に築かれたこの山城の攻略に手子摺っていた。大軍で一度に攻め掛かるのが難しく、掛けられた細い橋を渡っての攻撃は思ったような成果が得られなかった。そこで河越城同様に昼夜問わずの攻撃を再度試みたのである。
軍勢を交代で休ませながらの攻撃は北条綱成の頭を悩ませた。碌に休息が取れない北条家の将兵の疲労は溜るばかりであった。曲輪のひとつが攻略され、上杉の軍勢が詰めて来ると流石の北条綱成も覚悟を決めた。今は決死の決意で上杉勢を食い止めていた。
上杉憲政は遊兵が多くなった現状を見て、どうせ勝ち戦だからと商人や遊女を呼んで兵の士気を高めよと寛がせる事を許した。そうなると兵共はたちまち博打や酒を楽しむようになった。付近に乱取りに出かける者が大勢出て、滝山城の城下を荒らしに荒らした。
そんな中で滝山城に小田氏治の軍勢が到着した事が告げられた。下総と上総で戦をしている小田氏治を見て、両上杉家の首脳は苦い思いをしていた。小田氏治は自らの領土を増やすばかりで連合軍に協力しない事を批判する者が多かった。そして訴えもあり、上杉憲政も業を煮やしていた事も手伝って、太田資正を名代に関東管領として軍勢を合流させるように命じたのだ。命じた効果が出たのだろうか、小田氏治が着陣したと報を受けると上杉憲政は憎々し気に言い放った。
「小田の姫君はようやっと御着陣らしい。気分が優れぬと代理の者が挨拶に参ったが、我に合わせる顔が無いのであろう」
酒で火照った顔を扇子で仰ぎながら言う上杉憲政に太田資正が調子を取るように続いた。
「某が管領様の口上を伝え申した時は随分と強気で御座ったが、此度はどのような顔をして参るか楽しみで御座います。小田の家臣共も威勢がよう御座いましたが、今頃は肝を冷やして居りましよう。管領様への無礼を咎めて腹を切らせてもよう御座いますな?」
上杉憲政は酒杯を傾け一気に呷ってから意地の悪い顔で続ける。
「はっはっは、太田よ、あまり小娘を虐めるでない。将軍家の血を引くと強がったそうだが、此度もその強がりが聞けるか楽しみであるな?のう?朝定殿?」
「左様で御座いますな。ですが、江戸城に世田谷城を落としたと耳にして居りますれば、手柄として許しても良いかとも考えます」
「朝定殿の領地を取り戻した褒美を取らすと申すか?お優しい事よ」
そして皆で盛大に笑った。太田資正は更に言う。
「小田家も領地を増やし、今後は侮れぬ勢力となりましよう。今のうちに策を講じ、手を打っておいた方がよう御座いますな。佐竹の兵は姿を晦ましたと聞いて居ります。大方国に帰ったので御座いましょうが、ならば今は当軍勢が多くあり、有利に御座います。隙を突いてひと合戦致し、領地を取り上げるのも一興かと?今やらねば力を付け歯向かうやも知れませぬ」
太田資正の提案を聞いた上杉憲政は顎をさすりながら思案する。
「小田家は百二十万石になったと聞く。今潰さねば機会は無いか……。悪くはない。不意打ち致せば容易く討てよう。領地は当家と朝定殿で分かつという事か?」
「左様で御座います。関東管領家に物申す輩に慈悲は不要かと?後の憂いを断つならば今が好機だと存じます。滝山城を落とした後に戸倉城の城攻めを命じ、背後から討ちかかれば抗する事も出来ますまい」
「小田の領地は豊かと聞く、朝定殿は如何か?」
上杉朝定は返答に困った。領地が少ない扇谷上杉家は兵力を他家である山内上杉家に頼っている状態である。家臣である太田資正にも何かと頼っている事もあり、主君であるにも関わらず上杉朝定はあまり物を言えないでいた。小田氏治には河越で命を救われた事もあり、松山城に落ち延びる道中で勇気づけられた事が上杉朝定の内面を少しは成長させていた。それもあって上杉憲政や太田資正のように小田氏治を憎めないでいる。だが、力の差は如何ともしがたく、言葉に乗せられてつい言ってしまった。
「領地を取り上げましたら命だけは見逃してやるといいでしょう。女子の身で大領の主は務まりますまい」
「ほう、朝定殿はお優しい事よ。小田の小娘は未婚と聞く、戦で捕らえる事があれば何処ぞに嫁がせても良いかも知れぬ。見目が良ければこの憲政が具合を試してやっても良いがな」
そう言って再び大笑いした。太田資正は上杉憲政を焚きつける事が出来た事に満足した。小田家が大領を得た事に危機感を持っていた太田資正は、どうにか小田家を弱体化出来ないかと策を巡らせていたのである。これが巧くいけば小田家の力を弱め、更に己の所領も増やすことが出来るとほくそ笑んだ。
「小田の軍勢を蹴散らせば、領地は切り取り放題で御座います」
「うむ、管領家を侮りし罰にもなろう。それに小田は大きくなり過ぎた、この機会を逃す手はない。皆の者!聞いた通りである!小田の領地を切り取り分け合おうでは無いか!」
上杉憲政がそう言い放つと、上杉家の重臣たちは歓声を上げた。小田家を嘲る上杉諸将の中で長野業正は内心で怒り狂っていた。一刻も早くこの場から立ち去りたい気持ちを堪えてただ酒杯を口に運んでいた。武士にあるまじき言葉の数々を聞いて出来るならこの場の者共を斬り殺してやりたい気持であった。
そして上杉家中が酒宴をしている屋根裏では様子を探ろうと忍び入っていた百地丹波が怒り狂っていた。今すぐにでも踊り出て、上杉憲政の首を掻き切ってやろうかと思ったが、それをすれば氏治の策が台無しになると必死に気を治めていた。そして、上杉家の企みを主に伝えねばと氏治のいる本陣に向かった。
♢ ♢ ♢
私と桔梗が夕日を見ながら歓談していると百地がやって来た。物凄い怖い顔をしていて様子がおかしい。私と桔梗は何事だろうと顔を見合わせると、百地は私の前に跪いて報告があるから本陣へ戻るように促されたのである。私と桔梗は百地と共に本陣に戻った。陣幕を潜ると政貞達がいて、百地の様子を見て戸惑っていた。そして百地の報告を聞いて皆が絶句したのだ。
勢力が大きくなった小田家を今のうちに潰そうと奇襲を計画していたと言うのである。それだけなら良かったけれど、私に無礼を働こうとしている話を聞いて驚いたのだ。百地の怒り方が凄くて、皆は百地が話している最中に口を挟む人がいなかった。
私も関東管領は害悪になると考えて裏切りの奇襲を計画していたけど、まさか管領家が私を潰そうと画策するとは思っていなかった。太田資正の提案のようだけど、確かに彼らからすれば北条家に代わる大国が出来たから目障りだろう。ただ、私に乱暴する話はお酒に酔って冗談で言ったとしても非常にまずい。皆の統制が利かなくなるかもしれない。そして案の定、皆が怒り狂った。私は皆を必死で宥める事になったけど、なかなか怒りが収まらなくて難儀したのだ。そして苦労しながらも皆を落ち着かせると、ようやく話が出来る状態になった。
「御屋形様はお怒りでは無いので御座いますか!」
野中が私にそう言ったけど。私はあまり気にしていなかった。武家と言うのは簡単に言うとお行儀のいい暴力団のようなものだ。品性の無い人間が集まれば上杉憲政のような発言をする人もいるだろう。でも、この時代でも一般的では無いだろうけど、山内上杉家も勢力を拡大したから気が大きくなったのだと思う。
「私は怒っていないよ。むしろ、これで心置きなく戦が出来ると安心したよ。上杉家が裏切ると言うのなら大義名分が出来たしね」
私がそう言うと政貞が顔色を青くしながら言った。
「しかし許せませぬ。出来る事なら直ちに討ち入り、上杉めのそっ首刎ねて晒しとう御座います!」
政貞がそう言うとまた皆が騒ぎ始めた。私はまた皆を宥める事になった。皆が私を大切に思ってくれているのは理解しているけど、上杉憲政の暴言で怒りの沸点が低くなっている。桔梗も柳眉を上げて怒りを抑えているように見えるし、百地も怖いままだ。みんな忠誠度が一〇〇だと思われるから抑えるのが大変である。新参の村上と高城も怒っているし。それと勝貞が黙ってしまっているのも気になる。しばらくして皆が再度落ち着くと私は口を開いた。
「皆が私の為に怒るのは解るし、その気持ちは私も嬉しい。だけど、我を忘れて戦をしても碌な結果にならないよ。兎に角、冷静になろう。城を獲りに行っている皆もいるのだから、明日の奇襲は失敗が出来ないよ?」
「承知致しました。ですが、少々陣替えを致します。この真壁が上杉めをひっ捕らえて参ります。一息に殺すのが惜しくなりました。捕らえてこの世に生を受けた事を後悔させてやります」
「わかった、殺さないのは私も賛成だよ。此度の戦では上杉憲政を滅ぼすつもりはないからね?私達は此度の戦で領地を獲り過ぎたから、なるべく早く戦を終わらせて土地を治めないといけない。上野は義昭殿が獲るから私は援軍を送る事になる。皆が暴れる機会はちゃんとあるから安心するといいよ。それに北条とも和睦していないからここで皆が我を忘れると不意を突かれるかも知れない。だから策が巧く行くように皆には励んで貰いたい。私達の軍勢は一万いるけど、これ以上領地を広げる戦をする事は限界だという事を理解して欲しい」
「真壁殿が上杉ならば、この勝貞は太田めをひっ捕らえて参ろう。もはや武士としては扱わぬ。罪人として罰を与えねば気が済まぬ」
勝貞がそう言うと皆が口々に賛同の言葉を勝貞に投げかけた。私の話が伝わっているのか疑問である。これ以上の領地の拡張は統治に支障が出るのだ。まさか、領地を獲り過ぎて困る事態になるとは思わなかった。でも、勝貞の気持ちは解る。私は勝貞の孫娘のようなものである。その孫娘が謗られて、乱暴してやろうなんて言われたら切れると思う。
「勝貞!わかったよ!でも、一番の目的は上杉勢を追い散らす事だからね?大将が冷静さを欠いていい事なんてひとつも無いからね?百地、『情報操作』にはこの事も追加して欲しい。諸国への体面は気にしなくていいよ、上杉家の評判を地に落とした方が私は助かるからね?」
「しかし、それでは御屋形様の体面に傷が付きます。この百地は致すのが嫌で御座います、どうかお許し下さい」
そう言って百地は平伏してしまった。
「百地の気持ちは嬉しいけど、これは軍略だよ?それに私は何もされていないのだから皆が私を守ればいい話、関東管領の評判を地に落として、越後の長尾家や信濃の村上家、甲斐の武田家から支援を受けられないようにしたい。仮に上杉憲政様が落ち延びて他家に庇護を求めても相手にされないようにしたいんだよ。その為には今から仕込んだ方がいい」
私がそう言うと百地は頭を上げて私を見た。そして苦悩していた。私と百地は主従ではあるけど、どちらかと言えば友人に近い。それに百地からすれば私は若い娘で守ってやらなければならない存在だと考えていると思う。彼の怒りは私への愛情と比例しているのだ。
「承知致しました。仰るように致します。ですが、此度はこの百地も怒りを抑えられませぬ。我が手の者を真壁殿の備えにお加え下され。某も参りたいところで御座いますがお役目も御座いますので代りに行かせとう御座います」
「わかった、久幹もそれでいい?」
「よう御座います。百地殿、共に参れぬのは残念で御座いますが、某にお任せあれ。必ずや成し遂げて見せましょう」
久幹も当然怒っている。私は幼少の頃から真壁城に通っていて可愛がられていたのだ。勝貞や百地同様に上杉を許せないと考えていると思う。
その後は政貞も出陣すると言い始めてまた諫める事になった。この調子で明日は大丈夫なのだろうか?それに義昭殿が聞いたら激怒しそうな気がする。だけど、義昭殿の今の兵力では上野の平定は無理だし、無難な所で矛を収めないと統治に支障が出るのだ。北条氏康が健在なので皆には冷静になって欲しいものである。




