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第百二十二話 北条包囲網 その9


 ―駿河国 北条氏康―


 今川義元の軍勢と対陣してから九日が過ぎた。短期決戦を望んでいた北条氏康だが、今川義元が動く気配が無く焦りを感じていた。一撃で粉砕しないといけないと考えている北条氏康は、常になく慎重に今川勢を観察していた。


 見せ兵として集めた民百姓はそろそろ限界である。米を与えているのでなんとか留まらせているが、早く決着を付けないと見破られては折角の有利が台無しになるのである。それに消費する兵糧も馬鹿にならず、長く続いた戦のせいで北条家も軍費の心配が出て来たのである。


 小田原城に詰めている北条幻庵からは河越城が猛攻を受けている事が知らされ、早く今川の始末を付けろと文で知らせて来ている。それと合わせて、米が馬鹿みたいに値上がりしていると伝えて来た。氏治と百地が米の収穫を狙って買い占めをしていて、更に北条家が兵糧を商家から調達したので暴騰したのである。それは今川家の駿府でも同様であった。


 氏康は今川義元と決着を付ける決心をした。そして諸将を招集して軍議を開いたのだ。軍議では見せ兵を動かし、今川が陣替えをして今より備えが薄くなったところを攻撃する事を決めた。単純だが、同数の兵力なので効果が高いと思われた。


 更に二つの見せ兵を駿府に向かうように動かして敵の動揺も誘う事にした。そして諸将に酒を配り、皆で飲み干したのだ。氏康は直ぐに行動に移るように諸将に指示し、自らも兜を被り、槍を手にした。そして高台に置いた本陣から今川家の軍勢を睨むように睥睨したのだ。


 暫くすると見せ兵が動き出した。五千の見せ兵を五つに分けている。遠い丘や林にいる見せ兵が移動を始めると今川家の軍勢が動揺しているのが遠目でも見て取れた。


 更に待つと、今川勢の両脇の騎馬隊が後方に移動を始めた。氏康は今しか無いと使番(つかいばん)を次々と備えに向かわせ、総攻めを指示した。自らも本陣を出て本隊に向かい、馬に跨った。北条家の軍勢は既に今川勢に攻撃を仕掛けており、数で劣る事になった今川勢は押されているように見えた。氏康は号令し、三千の本隊に突撃を命じたのである。


 自ら馬を駆り、槍を掲げて敵中に乗り込んだ。家来や兵も遅れまいと敵陣に切り込む。半刻程乱戦が続いたが、徐々に敵兵が逃げ始めた。これを好機と見た氏康は兵を叱咤して更に前へと人馬を進めた。


 槍で突き、斬り、叩き、今川勢をこれでもかと蹴散らした。付き従う将や兵も氏康の暴れ方を見て奮い立ち、続け、続けと今川勢に向かって行った。流れは完全に北条軍に傾いていた。


 家来が「お下がり下され!」と叫ぶが、お構いなしに敵勢に馬を乗り入れた。そして槍を振り回して敵を蹴散らす。


 暴れに暴れ、更に半刻が過ぎた頃、今川勢が逃走を始めた。氏康は「追い討ち致せ!」と何度も叫ぶと、陣太鼓が激しく叩き鳴らされた。追撃戦は一方的に有利であり、敵の兵力を大きく削ぐことが出来る。氏康は一端停止し、敵勢を追い掛ける自軍を満足気に眺めた。


 戦は一瞬の出来事に思えたが、勝つときはこんなものだと呑気に考えた。暫くそうしていると軍勢が集結してきた。軍議で決めた通りに富士郡の制圧に向かう事にしたのだ。氏康は見せ兵を解散させるように家来に命じ、自らは軍勢を率いて富士城を目指して侵攻を開始した。


 富士城に到達した氏康の軍勢は、直ちに攻撃を開始した。河越城の北条綱成の安否を気にしている氏康は、猛攻を加えて二刻程で城を落とす事に成功した。富士城に入城した頃には日が暮れようとしていた。これで武田の援軍を監視出来ると安堵したのである。


 追い打ちで今川勢を追って行った軍勢は蒲原城を包囲していると伝えて来た。今川の軍勢が逃げ込んでいるとも伝えて来たのだ。氏康は包囲をしながら兵を休ませよと伝令を飛ばして自らも身体を休める事にした。あとは今川義元が和議を求めてくれば取り敢えずの目標は達成できる。余裕があれば駿河を獲れたが、時を掛け過ぎた事が残念に思えた。


 だが、潤井川と富士川を渡れたのは僥倖である。今川勢がこの川を堀として踏み止まっていればこうも一方的に侵攻は出来なかっただろうと考えた。


 翌日になると北条氏康は放置していた間門城に軍勢を差し向けた。この城は氏康の父である氏綱が河東侵攻時に築城した城である。この城からは吉原一帯の平野部、更に駿河湾や駿河に続く街道も見渡せる城である。


 そうしている間にも今川家からは停戦の使者が何度かやって来た。だが、簡単に和睦に応じる訳には行かないと突っ張ねている。今少し焦らしてからでないと信用が出来ないと氏康は考えているのだ。


 五十年の付き合いを反故にした今川義元である。信用できないし、今少し痛めつけてやらねば腹の虫も収まらない。まずは河東を完全制圧する事が必要と、氏康は諸将に次々と指示を出して行った。


 一方、今川義元は今川館の私室でぐったりと身体を横たえていた。北条氏康の猛攻を受け、何とか押し返そうと軍勢を指揮し、叱咤したが、北条勢の猛攻に耐え切れずに軍勢が瓦解してしまったのだ。このままでは危ないと、護衛の家来と共に馬を駆り、走らせ続けてようやく今川館に辿り着いたのである。


 物見が伝える所によると北条勢は蒲原城を包囲しているという。氏康の戦の仕方は無茶苦茶だと義元は考えた。連合軍が迫って来ているのに自分だけを標的にして来たのも気に入らない。甲斐にいる太原雪斎からは対陣中にも和睦をし軍勢を引くべきだと文で伝えて来たが、自分だけが軍勢を引いては連合した諸国に侮られると無視をしたのがいけなかった。


 兎も角、蒲原城が持ち堪えるている間に和議をしないといけない。太原雪斎には急いで戻るように伝えているから、軍勢を集めて蒲原城を支援しないと抜かれる事があれば駿河まで獲られる事になりかねない。義元はそう考えて疲れた体を起こした。


 義元が今川館の広間に戻ると、朝比奈泰能、岡部親綱、鵜殿長持、飯尾連龍などの重臣が集まっていた。蒲原城では蒲原氏徳、岡部元信が籠もり、北条家の軍勢と対峙していると伝えられた。一度は散った今川の兵も戻って来ているという。義元は蒲原城を救出する事を諸将に伝え、出陣の命を下したのだった。


 その頃、太原雪斎は駿河に戻る途上であった。馬に揺られながら頭が痛いと嘆息する。伝令が次々と雪斎の元を訪れたが、どれも手前勝手な事ばかり言う。北条軍と対陣している内に和睦をしなかった義元に怒りも覚えたが、致し方無いと頭を切り替えた。


 思えば氏康の親である北条氏綱も今川家が武田家と縁組した事に大いに怒り、今と同じように蒲原城まで攻め込まれたのだ。あの時は武田晴信の仲介もあり、河東の支配を認める事で矛を収めて貰ったのだが、今回はどうなるか分からない。


 諸国の連合に参加するのは雪斎も賛成であった。だが、北条氏康が全軍を挙げて駿河に攻め入り、戦況が悪くなったのにも関わらず、見栄の為に和議をしなかったのは頂けない。義元のそういう所は若い頃からまるで変わらないと呆れたのだ。和睦をするように文を送ったにも拘わらず、それを無視しての敗戦である。


 武田にも援軍を頼んではみたが、婚姻が途切れている事を理由に断られてしまった。武田晴信の嫡子である武田義信との婚姻は未だ成立していない。縁談の約束は出来たが、肝心の姫がまだ輿入れしていないからだ。それに武田家も信濃の戦で疲弊しており、兵を出す余裕が無いのだろうと思われた。


 兎も角、北条家と和睦をしなければならない。太原雪斎は肩を落としながら今川義元の元に急ぐのだった。

 

 ―武蔵国 河越城 ―


 河越城を守る北条綱成は焦りを感じていた。山内、扇谷の上杉家そして佐竹家に城が包囲されている。敵の軍勢は約二万、対して河越城には二千の兵が詰めている。以前の戦では、数を頼んだ連合軍は包囲はするものの、積極的な攻撃を仕掛けてはこなかった。それ故に三月もの間耐える事が出来たのである。


 だが今回は様子が違う。昼夜問わずに城門を破らんと攻撃を仕掛けて来るのである。お陰で兵は碌に休むことも出来ず、更に以前より兵が千も少ないので交代して休ませる事も難儀しているのだ。そして度々射込まれる矢文には降伏せよと記されていた。


 籠城し始めてまだ十一日、綱成はこれ程早く追い込まれるとは予想していなかった。主である北条氏康からは後方の城に引きながら時間を稼げばよいと命じられている。だが、この様子では攻囲を破るのは容易ではないだろう。出来ないとは思わないが、相応の損害を覚悟しなければならない。


 そして不可解な事もあった。包囲軍の一角である佐竹義昭の軍勢である。山内、扇谷の上杉家が積極的に攻撃を仕掛けて来るのに対して、佐竹義昭の軍勢は動く素振りすら見せないのである。


 矢倉から動きの無い佐竹家の軍勢を眺めていた北条綱成に、共に様子を見ていた富永直勝が話し掛けて来た。


 「佐竹殿は何を考えているのか見当が付きませぬな。上杉の動きと真逆と来ている」


 綱成は腕を組んだまま口を開いた。


 「佐竹家の陣からは毎日決まった時間に鉄砲の音がすると家臣が申して居りました。何やら企んでいる気がしてなりませぬ。かの小田氏治殿の盟友で御座いますからな」


 「ふむ、しかもまだ若いと聞いている。しかし、鉄砲を持っているとは思わなんだ。当家でも僅かしか持たないと言うに」


 「侮れませぬな。動きが無いのが不気味で御座います。全く動かずに我等をこうも惑わせまする。下野を切り取った手腕と言い、若さに似合わぬ戦上手と来ています」


 北条綱成と富永直勝は共に北条家の五色備えの一人である。北条綱成は黄備え、富永直勝は青備えを率いている。両者とも歴戦の猛将であり、氏康からの信頼も厚い。その二人が動かぬ佐竹義昭を警戒しているのである。だが、有能故に北条綱成と富永直勝は誤解していた。


 佐竹義昭は特に連合軍に協力するつもりは無いのである。領土を得る事が出来ないのは佐竹家だけである。それもあって、両上杉家は佐竹家の行動に文句を言う事も出来ずにいるのである。包囲の一角を担っているのでそれで良しとするしかなかったのだ。


 城攻めは長期になると考えた義昭は、毎日を充実させるために朝は家臣と算盤の稽古をし、剣術の稽古や、鉄砲の稽古と自らを鍛えていた。なにせ暇である。それに攻城戦で軍勢を使うつもりも無いし、囲んでいるだけで敵方には圧力を掛けられるから問題無いと考えている。もし上杉家から非難でもされようものならさっさと帰国するつもりなのである。


 鉄砲で仕留めた鳥や猪を捌いて、氏治から贈られた七輪で焼き肉を楽しんだり、小田野義正や一門の佐竹義廉と佐竹義堅と領内の政の打ち合わせをして国に指令を飛ばしたり、友になった信長や今井宗久に文を書いたり、皆で算盤勝負をしたりと割と充実した生活を送っていた。


 陣中に正木時茂と長野業正が訪ねて来た時は、氏治から贈られたティーセットで紅茶を振舞い、二人を驚愕させていた。生真面目な正木時茂は義昭の振舞いに驚きながらも眉をひそめたが、長野業正は義昭のやりようが可笑しくて好感を持っていた。


 このような状態なので、包囲軍の中で佐竹勢だけが別の世界に居たのである。だが、義昭は鷹丸からの報せを油断なく分析していて、いつでも軍勢を動かせるように心配りをしている。北条氏康が今川勢を打ち破った事は義昭を驚かせた。大規模な包囲を受けながら大胆な行動をする氏康を当然警戒したのである。


 前回の河越でも氏康は夜襲を仕掛けて来た。今回も同じ手を使う可能性があるので、氏康に動きがあれば氏治と合流するつもりである。別に上杉の指揮に従う必要も無いのである。この戦に参加していれば義理は果たせるのだ。拘らない柔軟な物の考え方をする義昭は非凡な将に成長していた。義昭は鷹丸に氏康の軍勢の動きを引き続き見張るように命じて、今日も修練に勤しむのである。


 このような佐竹義昭の考えを知らない北条綱成と富永直勝は無駄な警戒と心配をする事になった。城外と連絡が取れず、状況を把握することが出来ない北条綱成は脱出戦の検討をすべきかと考え始めた。


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― 新着の感想 ―
[一言] 駿府城の築城主は徳川家康の為、城はまだ存在しない。 話数が進んでいて今更感があるけど、 義元の拠点は今川館のはずだよ。
[一言] 駿河国の土壌は富士山の火山灰が多く含まれた黒ボク土で痩せているため 成る程! 静岡東部のあちこちに土壌改良記念碑があるのは、しなきゃ駄目な土地だったんですね! 静岡に来てからの疑問が解消し…
[一言] しばけんさん >この時代では河東富士地域に人は住んでなかったのかな? 沼津から富士川にかけて東海道新幹線は富士山の裾野を通っていますが、それは江戸時代前は海岸沿いは広大な沼地が広がっていたた…
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