第百十八話 北条包囲網 その5
翌日になると国府台城から各地に分散侵攻していた軍勢が次々に戻って来た。勝貞からは香取神宮と大崎城、長岡城、前林城を攻略し、豊島家から奪った長沼城と補給線が繋がったと連絡があった。長沼城にも物資を運び込んでいるので下総の西側での活動には問題が無くなると思う。
勝貞の率いる軍勢は腰兵糧三日分のみで出陣して行ったのだけど、補給の重要性と補給線の概念は『私と孫子』でしっかり学んでいるにも拘わらず、これで十分と出陣してしまったのだ。この時代でもジェネレーションギャップがあって、勝貞は若手の将と違って結構無茶をするのである。ちなみに岡見も無茶派である。けれど、これで補給の心配が無くなって私は胸を撫で下ろしたのだ。
政貞の指示で臼井城に五千の軍勢が出陣した。開城を拒否したようで、力攻めで落とす事になるそうだ。もしかして伝説の白井胤治がいるかもしれないと、私は高城胤吉に聞いてみたらそう言う人はいないと言われた。白井胤治は上杉謙信を敗退させた軍師として現代に伝わっている。実在した人物なのかあやふやな人だけど、いないならいないで問題無いのである。
私としては軍略家の白井胤治が家臣になるより、民政家と思われる高城胤吉の方が余程価値のある人材なのだ。軍師的な人も欲しいけど、天秤に掛けると民政家の方に傾くのである。これは小田家の鉄砲保有数が九百丁を超えていて、正面決戦なら負けない自信が付いて来たからでもある。ただし、お天気の日に限るけど。
そもそも日本には明確な軍師は存在しない。軍師と言えば諸葛孔明が有名だけど、彼は政治家であり戦略を練るのが仕事だと思われる。つまりは文官なのだけど、武官として前線も熟したからそう言われるのである。とは言っても大昔の話だし、歴史の半分以上は『よく解らない』なのである。ネットとかで研究資料がこうだから正しいんだと主張している人は大勢いるけど、その資料ですら『よく解らない』が大半なのである。
現代では竹中半兵衛や黒田官兵衛などが有名だけど、武士の形態で言えば彼等は武官であり、文官でもあったから戦略を練り、自らも槍を持って部隊を指揮して戦術も熟すという具合なのだ。よくドラマなどで武田信玄が軍配を振ると軍勢が陣形を変えるシーンがあるけど、現実はそんな事は無いのである。軍勢の殆どは民百姓なのだから出来る筈がないのだ。
武田信玄や上杉謙信が強いのは、しっかり兵を集めて、有利な戦場を選び、備えを率いる武将のチョイスが良く、攻撃のタイミングや予備兵力の投入タイミングなどを高レベルで行うからだと思う。兎も角、白井胤治がいないならそれでいいのだ。優秀な人がいて損害が増える事が無ければ問題は無いのである。
夕方になると臼井城が落城したと伝令が伝えて来た。これで下総の西は制圧したので本格的に物資の配給を行う事になる。そして翌日、勝貞の軍勢が国府台城に到着したのである。
―山内上杉軍 正木時茂―
平井城から出陣した上杉憲政の一万六千の軍勢は上杉朝定の軍勢と合流すべく、松山城に向かっていた。早馬の報せでは佐竹義昭の軍勢四千が既に到着しており、上杉憲政の軍勢を待つ形である。上杉朝定も五千の軍勢を集めており、合流すれば総勢二万五千の大軍勢になる。
正木時茂は僅かな家臣と共に上杉憲政の軍勢に参加し、共に松山城に向かっていた。ようやく連合軍が動き出した事に安堵したが、里見家の危機は変わらないので何とも言えない気分であった。馬首を並べて馬を歩かせる長野業正は正木時茂の様子を見て、少しでも気を紛らわせようと言葉を掛けた。
「上杉朝定様の軍勢は五千だと聞いたが、よくも掻き集めたものだ。失地を回復せんと意気込むのは解るが、民百姓は堪ったものではあるまい。余程無理な軍役を課したのであろう」
陽気に語る長野業正が自分に気を遣っているのを感じた正木時茂は情けない姿を晒していると自分を戒め、そして長野業正に感謝した。そして陰気を打ち払うように頭を振った。
「左様で御座いますな。ですが、兵は多ければ多い程よう御座います。上杉憲政様も一万六千の軍勢を集められました」
「それよ。上杉憲政様の此度の戦への力の入れようは相当なものだ。国人からも容赦なく兵を集められ、城はもぬけの殻。守りの兵すら置く事を許されなんだ。それ故これ程の大軍になったのだ。尤も、周りには攻めて来る敵もおらんから城を獲られる事はあるまいが」
「問題は戦の仕方で御座いますが、長野殿には何かお考えは御座いますか?」
正木時茂がそう言うとニヤリと笑って答える。
「一気呵成に討ち入るのみ。城攻めで包囲を致しても相手が降らぬのなら時を無駄にするのみならず、兵糧も無駄になろう。だが、問題は各々が兵を出し渋る事であるな。河越を獲れば上杉朝定様のものになるのならば、利の無い者は軍勢を温存致すであろう。かく言う我も他者の戦に箕輪衆を使いとうないわい」
「では、上杉朝定様の軍勢に先陣を切って頂き、果敢に攻めさせよという事で御座いますか?」
「そうなるが、あそこには太田資正と申す犬が居る。小賢しい戯言を主に進言致すだろう」
長野業正がそう言うと、正木時茂は辺りを伺うようにして「お声が大き過ぎます」と窘めた。
「心配御座らん。ここには正木殿と箕輪衆しか居らぬ。貴殿も心のままに語るといい。だが、正直申せば武蔵など獲らずとも北条は領土を減じるのだからゆるりと磨り潰せば良いのだ。小田殿が下総と上総を獲れば、如何な北条でも抗するには難儀致すであろう。尤も、そう何度も合力致して頂けるとも思えぬが」
「ですが、武蔵を獲らねば北条は力を残しまする。再び策を弄し、関東が荒れると考えまする。武田と組めば尚厄介になるかと?」
「此度の戦で当家と朝定様で武蔵を切り取っても関東は治まらぬと見て居る。元々が山内と扇谷の争いであった。そこへ北条が便乗致し、今の有様よ。当家も旧領を取り戻せば七十八万石にはなろう。力を得れば更に土地をと欲が出ると思うて居る。我等国人にはいい迷惑だが」
「何ともやりきれぬ思いで御座います。当家もこの先どうなる事か、それを考えると頭が痛う御座います」
「進退窮まればこの業正を頼られよ。尤も、里見殿が承知するかは判らぬが。少なくともこの老いぼれの命がある限りはお助け致そう」
正木時茂は長野業正の心遣いに心を震わせた。諸国の連合という絵を描いたのは自分だが、当の本人がこの戦の結末に不安を抱いていた。一刻も早く戦を終わらせ故郷に帰りたいと心から願った。
―武蔵国 松山城 佐竹義昭―
佐竹義昭は連合軍に合流すべく四千の軍勢を率いて松山城に到着した。上杉朝定の家臣太田資正から出迎えを受け、軍勢を松山城下に休ませている。上杉朝定に着陣の挨拶をし、持て成しを受けると部屋に通され身を休めた。陽が中天より西に傾いた頃に上杉憲政の軍勢が到着したと報せがあった。上杉憲政の着陣により軍勢が集結したので軍議が開かれた。包囲の持ち場が決められ直ちに出陣となったのだ。
軍議では義昭が口を開く事は無かった。その分という訳では無いが、上杉朝定の家臣、太田資正が多弁を弄していた。よく喋る奴よと黙って聞いていたが、此度の戦の主導権を握りたいのではないか?と義昭は感じた。元より佐竹家に利の無い戦である。義昭としては武蔵などどうでも良かったが、先手にされるようなら帰国しようと決めていたのだ。自らの領土を獲り返すのに他者の血を流させる輩であれば関東管領でも従う義理は無いのである。
持ち場が決まると義昭は内心で舌打ちした。先手に回されようものなら無言で帰るつもりだったのだ。国造りが面白くなって来た所での他人の戦である。引き連れて来た兵の一人も無駄に死なせる訳には行かないのだ。軍議では上杉憲政が正木時茂に対して「里見家を救うてやる」と明言していた。
鷹丸から小田氏治と里見家の戦況を知らされている義昭は出来もしない事を言うと思ったが、鷹丸からの報せを聞いた範囲では氏治は上総を制すると思われた。一万五千の大軍である。瞬く間に切り取るだろうと義昭は考えている。これでまた氏治との国力に差が付いてしまうが、国を育て奥羽に勢力を伸ばすつもりでいる。出来るならば下野の残りの領地を切り取りたいが、国人は上杉憲政に付いているので手が出せない状態である。
それにしてもと義昭は思う。この場の誰もが下総や上総、そして北条の状況を知らないのである。唯一判っている事は、河越城に北条綱成が二千の兵で籠もっている事だけである。太田資正が北条氏康が駆け付けて来たらと話をしていたが、当の氏康は今川との決戦に向かうべく兵を集めていると鷹丸から聞いている。氏治が自慢気に百地を義昭に紹介した事があったが、忍びの技がこれ程とは義昭は思っていなかったのだ。しかも、百地は小田家では重臣の列に並び、城まで与えられているという。これには義昭も驚いたのである。
何も指示しないのに報せが次々届いて来るのである。鷹丸達は十名程しかいないので、義昭は手が足りるのかと聞いてみれば、地場の乱破を使い操ると言っていた。鷹丸がもたらす報により、義昭は頭の中の地図上で戦の様子を知ることが出来るのである。そして氏治が自慢をする訳だと納得し、信長から聞いた『情報』の大切さを考えれば佐竹家も忍び衆を抱えるべきだと考えた。現に氏治だけではなく、北条家も風魔衆を抱えているのである。
義昭は百地の衆が氏治に忠誠を尽くすのは、武士として身分を与え、氏治自身が大切に扱うからだと見ている。武士の目線では乱破は犬にも等しい存在である。だが氏治が百地に接する様子を見ていると、家臣と言うより友として接しているように義昭には見えたのである。身分を気にしない氏治らしいとも思ったが、百地の立場からすればあり得ない栄誉だろうと思われた。義昭も氏治も武家の名門であり、関東八屋形の一人である。その立場の人間から大切に扱われれば忠義に厚くなるのは当然とも思われた。義昭は馬に揺られながら腹心である小田野義正に近くに寄るように命じ、忍びに対する自身の考えを述べてみた。
「実は某も思うて居りました。先程の軍議では一言申し上げたい気持ちになり申した。我等はただ居るだけで敵方の様子が知れるので御座います。当家でも忍びを抱えたいと考えましたが、諸将が受け入れるかと考えますと二の足を踏みまする」
「うむ、この義昭もそう考えていた。だが、現に敵方の様子を苦も無く知る事が出来ている。何れ奥州を攻める事になるが、抱える事が出来れば戦も楽になろう。此度は鷹丸が報せてくれるが、一度これを知ると地場で乱破を雇うのが馬鹿馬鹿しくなる」
「何れ落ち着きましたら、氏治様に御相談されては如何で御座いましょうか?」
小田野義正の言葉に義昭は渋面を作った。
「それも考えたのだが、これ以上氏治殿に借りを作るのもどうかと思うてな。何ぞ礼をしてからでないとこの義昭の立場が無くなる」
義昭の様子を見て苦笑しながら小田野義正は言った。
「奥州攻めまでは時が御座います。それまでに何かしらかの礼を致せばよう御座います。何れにせよ、此度の戦がどうなるか知れませぬが、早うに帰りたいもので御座いますな」
義昭主従は上杉家の武蔵取りの事など塵とも気にせずに河越城への道中を語り合ったのである。河越城の攻略に全く協力する気が無い義昭主従であった。
 




