第百七話 千宗易抹殺計画 その7
本日の投稿は少し短めです。
―今井家屋敷前―
赤松凝淵斉と飯塚美濃守は次郎丸が引き起こした騒ぎを治めるべく今井家の屋敷の門前に向かっていた。小走りに向かい、門の脇戸から外に出ると仰天した。見渡す限りに人が居るのである。その様子は城攻めで兵が殺到しているようにも見えた。
「飯塚殿、これ程集まっていようとは思いませなんだ。如何致そうか?」
「まずは今井殿に御迷惑が掛からぬように致すのが良いかと存じますが」
赤松と飯塚が思案を巡らせていると群集の一部が割れるように動き、その中を小者に守られながら身なりの良い男が歩いて来た。年の頃は三十にも四十にも見えた。その男は赤松と飯塚に一礼すると口を開いた。
「手前、堺の会合衆を務めて居ります日比屋了慶と申す者で御座います」
会合衆とは堺を治める執政官である。堺には大名や領主と言った独裁する支配者が存在しない。その代りに三十六人の町の代表者が選ばれ自治組織となり、司法や行政など全ての運営を行っている。ポルトガルの宣教師ヴィレラが本国に報じた堺の執政官とは会合衆の事である。史実では一五六一年に宣教師ヴィレラが堺に訪れた際、最初にキリスト教の洗礼を受けたのが日比屋了慶であると現代では知られる。そして今井宗久も会合衆の一人である。
「某は常陸小田家家臣、赤松凝淵斉と申す」
「同じく、飯塚美濃守と申す。会合衆とは確か堺を治めている者であったな?」
「左様で御座います。此度は物の怪が出たと町衆が騒ぎまして、今井殿の屋敷に入ったと皆が申して居ります。この了慶の耳にも入りまして、今井殿に真偽をお聞きしようと参ったので御座います」
「左様であるか。了慶殿、この赤松が説明を致し、騒ぎを治めに参ったのであるが、この人の多さに如何致そうかと思案して居ったのだ。我らが御屋形様は騒ぎを治めよと申されたのだが、何処か広い場所は無かろうか?話を聞きたいものを集め、この赤松が説明致したい。了慶殿が会合衆であれば皆は言う事を聞くのであろうか?」
「左様で御座いましたか。領主様が今井殿の屋敷に居られるならば立ち入るは無礼で御座いますな?ではこの了慶が案内いたしますゆえ、付いて来られると宜しいかと?」
「承知した。了慶殿、忝い」
了慶は小者を使い、群衆に広場に集まるよう呼び掛けさせた。暫くすると人々が移動を始めた。その様子を見た赤松と飯塚はとりあえず今井の屋敷を喧騒から守れたと安堵した。人々が歩くその様を見ながら飯塚が口を開いた。
「会合衆とは大したものですな。かように容易く町衆を動かそうとは思いませなんだ」
「飯塚殿、感心してばかりも居れまい。我らも向かうと致そう。了慶殿、案内を御頼み申す」
了慶が先導するように赤松と飯塚を案内した。花街と呼ばれる区画を抜けると広場が目に入ったが、そこには大勢の人々が屯していた。了慶に導かれ、群衆の前に立った赤松と飯塚であったが、このままでは声が聞こえまいと了慶が人々を座らせ、そして小者に命じて荷を入れる大箱を持ってこさせた。
「赤松様、これで宜しゅう御座いますか?」
「これは忝い、ではこの赤松が皆に説明致そう」
赤松が大箱に登ると人々の視線が集まった。高くなった視界から大きくよく通る声で話し始めた。その様子を飯塚が腕を組み見守っている。
「皆の者!今から皆が知りたがっている事を説明致す!良く聞くように!」
「皆が見た白く大きな獣は名を次郎丸と申す!我が主、小田氏治様に仕える神獣である!」
赤松がそう言うと群集がざわざわと騒いだ。飯塚が声を張り上げ群集に静かにせよと命じる。群集の騒めきが収まると赤松は言葉を続ける。
「我が主、小田氏治様は吉祥天様の生まれ変わりである。小田氏治様は呪いに苦しむ佐竹家の民を救い、近隣の大名の圧政に苦しむ人々を御領内に匿い、これを助け、多くの民を安んじて居られる。小田氏治様の兵は乱暴狼藉の一切を許さず、慈悲を持って民を安んじ、此度は大領を切り取り、多くの民をお救い申した。その小田氏治様に侍るが神獣次郎丸である。大きな身体に白銀の毛を纏い、人語を解し、更に二本の長い尾を持つ真の神獣である。この次郎丸と申す神獣は、小田氏治様に侍り、小田氏治様と共に厄災を払っているのである。この赤松の言葉が信じられぬ者はこの場から去るが良い。だが、不信人者は吉祥天様の加護を失うであろう。此度は小田氏治様は今井宗久殿を遥々尋ねに参ったのだ。だが、神獣次郎丸を見た者達が恐れ騒ぐので、今井殿に迷惑が掛かってはいけないとこの赤松と飯塚に民に説明をし、騒ぎを治めよと命じられ、今ここで皆に話をしたのである。聞きたい事があるならばこの赤松に聞くが良い。だが、ひとりずつ手を上げて質問せよ。こちらに会合衆の了慶殿がおわす。了慶殿に指名された者が質問をせよ!」
赤松が語り終えると大勢の人が手を挙げた。了慶はそれを制するように両手を人々に向けた。そして赤松に了慶自身が問うた。
「赤松様、まずはこの了慶がお尋ね致します。小田氏治様は真に吉祥天様の生まれ変わりなので御座いましょうか?この了慶、神仏を敬うに誰にも引けも取らぬ自負が御座います。ですが、神の生まれ変わりなどは聞いた事が御座いませぬ。真であればこの日比屋了慶、小田氏治様に全てを投げ出す覚悟が御座います。如何で御座いますか?」
「了慶殿が申される事は仕方なき事だと存ずる。一目小田氏治様にお会いすれば判るはずである。だが、お目通りが叶うか判らぬのでこの赤松が氏治様の御力を説明致そう」
赤松は了慶に小田氏治の様々なエピソードを語った。戦場で兵を叱咤する赤松の声はよく通り、人々も耳を傾け、その内容に驚き興奮した。了慶も瞠目してそれを聞き、真であれば是非お会いしたいと赤松に懇願した。最後に赤松はこう言った。
「この赤松は世の坊主共に恨みなど欠片も御座らん。だが、坊主が人助けをしたなど耳にした事が無い。我が主、小田氏治様は多くの民の命を救い、そして今も苦しむ民草に御心を痛め為されている。常陸小田家の領地には日々助けを求める民草が参るのだ。この赤松とここに居られる飯塚殿が民の世話をせよと仰せつかっている。もしもこの堺の民が常陸に来るならば必ずやこの赤松と飯塚殿に相まみえよう。そしてその者には土地と仕事と食料を与えよう。これほどの慈悲がこの戦国の世の何処にあろうか?常陸では民は喰うに困らず、民草は衣服を整え、近頃では百姓が読み書きを覚える事が出来る。無論無償である。かような国が他にあるならこの赤松に申し伝えよ。この目で確かめに参ろう。坊主が酒や女や肉を食らうこの戦国の世で、真の救いを致して居られる小田氏治様が神の生まれ変わりで無いと言うなら、この世は闇しか残らぬであろうな」
赤松が語り終えたが人々は静まり返ったままだった。赤松の演説は人々の心を捉え、伝えられた事実は感心と感動を生んだ。日比屋了慶は誰よりも速く赤松に平伏し、小田氏治との面会を懇願したのだった。赤松はこの演説で一言も嘘は付いていなかった。赤松の口から出た言葉はこの戦国の世ではありえない事ばかりである。だがそれが真であると赤松は言い、常陸に参って嘘であるならば路銀を保証するとまで言い切った。人々はこれが真実であろうと思ったのだ。
赤松は人々を静める事に協力してくれた日比屋了慶に対して礼として氏治との謁見を執り成してみようと約束をした。日比屋了慶は人々にこの目で確かめて来ると宣言し、そして人々には解散するように申し伝えた。赤松と飯塚は日比屋了慶と共に今井の屋敷に向かったのである。
日比屋了慶は己の身なりを気にしたが、赤松や飯塚からはそのままで良いと言われ、二人に続き歩きながらまだ見ぬ小田氏治を夢想した。史実の日比屋了慶は信心深く、宣教師ヴィレラからキリストの教えを聞き、その慈悲の深さに共感し、そして入信したのである。
赤松から語られた氏治の行いは、日比屋了慶の心を激しく打ち叩いた。戦国の世ではあり得ない事ばかりである。幕府は力を失い、力を保持していた各国の武士が血で血を洗う闘争を繰り広げ、民は兵に取られ殺されて、町は焼かれて民は路頭に迷う。そんな世の中を憂いていたのである。
今井家の門を潜った赤松と飯塚は、日比屋了慶にしばし待たれよと姿を消した。僅かばかりの時を待った日比屋了慶は戻った赤松に連れられて今井の屋敷の中庭に足を踏み入れた。そこには話に聞いた大きな山犬がいて、白銀の毛を光が照らし、二本の長い尾を天高く掲げゆらゆらと揺らしていた。そして知性を感じさせるその瞳が日比屋了慶を見つめていた。その山犬は身なりの良い娘に侍るように寄り添っていた。
これは夢では無いかと思いながらも赤松に促されるままに日比屋了慶が歩を勧め、微笑をたたえるその娘の美しさに目を奪われた。次郎丸を侍らしたその神々しい姿に日比屋了慶は真の神を見出したと確信した。気が付けば日比屋了慶は涙を流し、ゆっくりと膝を付き、地に手と頭を付け平伏していた。




