第百六話 千宗易抹殺計画 その6
算盤を知らないであろう義昭殿と信長に説明する事にした。まだ一般的では無いし、使えると便利だから知っておいた方が良いとは思う。
「先程私と宗久殿が使ったのは算盤という算術を簡単に致す道具ですね。当家では重臣や家臣の多くが使えます。年貢や税の取り立てにも役に立ちますし、軍資金の調べなどもですね。いずれは民にも広めたいと考えています」
私がそう言うと信長が口を開いた。
「算術の道具とは初めて目にしました。それ程に役に立つ道具なのでしょうか?」
「私は役に立つと思います。年貢や税の数が正確に分からなければ国がどれ程の財を持っているか解りませんし、戦ならば使う兵糧なども算じてしまえばどれ程必要かも容易く分かりますよ。当家の政貞は年中算盤を弾いていますね。例えば冬に人足を雇うのに幾ら銭が掛かるのか?何日で幾ら掛かるのか?雇った人足で開墾した土地から如何程の年貢が取れるのか?と使う銭を楽に勘定出来ますし、上りの年貢の検討も楽に算じられるのです。使い方は様々ですが、使えると間違いが減るので当家では助かっていますね」
「成程、これも政なのですね?氏治殿のご領地は当家と中身がまるで違います。困りました、氏治殿がいらしてから考えねばならない事ばかりになりました」
「信長殿、腹心を育てると良いかも知れません。ですが、武家は算術を嫌いますから最初は大変だと思います。宜しければ算盤と指南書を御贈り致しますので試してみると良いかも知れません。帰蝶殿もお誘いしては如何ですか?」
「それは良いかも知れませんね。帰蝶には困っているのです。桔梗殿が鉄砲衆を率いていると聞いて自分も率いたいと言い出したのです。当家では鉄砲も少なく撃ち手も少ないですから、貴重な鉄砲を渡す訳にも行かず、女子を戦場に出す訳にも行かず頭を抱えていました。算術であれば帰蝶でも出来ましょう」
うわぁ、やっぱり企んでいたんだ。中々のやんちゃぶりである。あの年頃だと反抗期も重なっていそうだから信長も大変だね。
信長の言葉に義昭殿が続いた。
「この義昭もお願い出来ないだろうか?良い物であれば致してみたい」
う~ん。何だかこの旅で私に信長と義昭殿が影響されまくっているけどいいのだろうか?使えるに越した事は無いから知った方がいいけど、史実とは全く別人になりそうな気がする。まあいいか?
「義昭殿にもお教えしますね。当家の算盤上手を遣わしますのでお試し下さいませ」
私がそう言うと宗久殿が口を開いた。
「此度も驚く事ばかりで御座いますな。折角で御座います。氏治様の算盤の腕前を披露致しては如何で御座いますか?」
「構いませんが、本音は宗久殿が見たいのではないのですか?」
「はっはっは、見抜かれましたかな?氏治様の腕前を是非拝見致したく存じます。今井の指南書でどうで御座いましょうか?」
「当家の指南書は覚えてしまっていますから良いですね。では、宗久殿が読み上げをお願いします」
「承知致しました」
宗久殿はそう言うと控えている今井の者に指南書を取って来るように命じた。暫く待つと指南書を手にした小者が戻って来て宗久殿に手渡した。宗久殿は指南書を開く。私も算盤を用意した。算盤一級のお披露目である。とは言っても現代では普通の腕前だから自慢は出来ないし、この時代の人でも凄い人は幾らでもいるから今だけの天下だと思う。ちなみに指南書は見取り算のみで三級までしか書かれていない。実用的な範囲を問題にしているのだ。そして信長と義昭殿は何が始まるのか分からなくて私と宗久殿を交互に見ていた。
「では参ります。六桁十口で御座います。願いまして~は、六十七万五千二百三十六円なり、二十八万四千七百二十二円なり、四十四万八千三百七十五円なり、」
宗久殿、早口で意地悪してきた。私はパチパチと算盤を弾いて行く。六桁なら余裕である。私が算盤を弾く様を目を見開いて見ている信長と義昭殿を視界の端で捕らえながら算盤を弾いて行く。
「八十二万三千二百六十八円では」
「六百二十七万五千七百六十三です」
「御名答で御座います。流石で御座いますな」
宗久殿がニヤリと笑いながら言う。
「宗久殿が意地悪して早口をするとは思って居ませんでした。次は宗久殿の番ですよ?政貞、当家の指南書で読み上げお願いね」
私がそう言うと政貞は懐から指南書を取り出した。政貞は練習熱心でいつも持ち歩いているのである。そして政貞が読み上げを始めた。
「では宗久殿、参ります。六桁十口で御座います。願いましては、三十一万九千六百六十四円なり、八十三万七百九十八円なり、四十七万二千六百三円なり、六十七万三千五百五十一円なり、」
宗久殿が算盤を弾いて行く。流石は堺の豪商である、才能の違いを感じる。
「十八万四千百六十一では」
「五百五十万四千四百二十九で御座います」
「御名答で御座います。宗久殿、お見事!某も精進致さねばなりませぬな」
算盤もこのスピードだと知らない人には別世界の出来事に見えると思う。いきなり心が折れてはいけないと思ったので、その後は政貞や百地、桔梗に赤松と飯塚にも算盤を披露してもらった。信長と義昭殿は感心して見ているけど一言も口を開いていない。ちなみに赤松と飯塚は指が太いので特注サイズの算盤である。そうして終わると宗久殿が言った。
「氏治様の御家中は算盤上手に御座いますな。今井の番頭にも見習わせたく存じますな。真に見事で御座います」
「赤松と飯塚も随分上達したね」
私がそう言うと赤松が答えた。
「御屋形様がお命じになられた時はどうなるかと冷や汗ばかり掻いて居りましたが、今では算盤が無いとお役目を果たすのに不便になり申した。今は飯塚殿と腕を競って居ります」
信じられないと言ったような目で晴朝や前田利家や小田野殿が赤松達を見ていた。剛の者で知られる二人が算盤を使ったのが意外だったのだと思う。
「晴朝もそろそろ手習いをした方がいいね。これが出来ないと当家では笑われてしまうかも知れないよ?」
私が悪戯っぽく笑って言うと晴朝が答えた。
「この晴朝に出来るでしょうか?凄まじき技で御座いました」
「晴朝殿、この政貞がご指南致しましょう。初めは簡単なものから始めます故、御心配には及びませぬ」
また政貞の過保護が始まったと思っていたら、信長が口を開いた。
「氏治殿、真に驚きました。赤松殿に飯塚殿、百地殿、桔梗殿まで算盤を使えるのですね?この信長もあのように出来るのか心配になって来ました」
信長がそう言うと義昭殿も続いた。
「氏治殿も宗久も真に見事な技で御座った。御家中も見事で御座った。当家もご指南頂ければあの様に扱えるのだろうか?」
「御心配なさらないで下さい。初めは簡単なものから致しますので慣れれば直ぐに出来るようになりますよ?当家から算盤上手を遣わしますので安心です。御家中の方もご一緒されるといいと思います」
私がそう言うと義昭殿が腕組みをして言う。
「この義昭も信長殿にお会いし、氏治殿のご指南を受け目が開かれた思いであったが、まだまだ考えねばなりませぬ。こうなると戦どころではありませんな?氏治殿が戦を嫌うのも解り申す」
そう言って信長と義昭殿は話を始めた。出会ったばかりだというのに随分と気が合っているように見える。信長も義昭殿も生真面目だからだろうか?取り敢えず新しい茶の湯のプロデュースも頼めたし、後は宗久殿に任せれば茶の湯のもう一つの勢力として紅茶が流行ると思う。二大勢力になって対立してくれるのが理想である。千宗易がガラクタに値打ちを付けてぼろ儲けするくらいなら職人にカップを作って貰って民間に銭が流れる方が余程世の中の為になるし。こう考えると千宗易ってロクデナシに見えるから不思議だ。
私は船でお留守番をしている次郎丸を思い出して宗久殿に連れて来ていいか聞いてみた。
「ほう、犬をお連れで御座いましたか。気が合いますな、この宗久も犬を飼って居ります。子がいない故、寂しさを紛らわそうと飼ったので御座いますが、これが可愛くて仕方が御座いませぬ。尾が白いので白尾と名付けて居ります」
白尾とかネーミングセンスが抜群である。宗久殿の中二力の迸りを感じるのである。うちなんて赤松が勝手に付けたから少し羨ましい。
「そうでしたか、安心しました。私の犬は次郎丸と言うのですよ?白尾と友になれると良いですね。では連れてきますので、信長殿と義昭殿をお願いしますね?」
「承知致しました。白尾も連れて参りましょう」
思わぬ所で次郎丸の公園デビューが決まった。まさか宗久殿が犬を飼っていると思って居なかったけど、どんな犬か楽しみである。次郎丸と遊んでくれたらいいな。私は百地と赤松と飯塚を連れて船に戻った。船には前面に幕が張られて中は見えないようになっている。次郎丸を見られてパニックになるのを防ぐ為である。
私は次郎丸を船から降ろし、ゴメンねと抱きしめてお詫びをした。次郎丸はキュンキュンと鳴いて私に甘えて来た。寂しかったのだろう。
波止場に降りた次郎丸を見て早速悲鳴が上がったけど無視である。荷担ぎの人達が我先に逃げ出したけど無視である。女の人が腰を抜かしてへたり込んでるけど無視である。通り掛かった子供が固まったまま漏らしているけど無視である。どうしよう?
「御屋形様、思っていたより騒ぎになりそうで御座いますな。急ぎ今井の屋敷に向かわれた方が宜しいかと?」
「分かった。百地、赤松、飯塚、菅谷の衆と周りを固めてくれる?」
私と次郎丸を囲うように百地達が配置に付き、今井の屋敷に向かった。行く先々で悲鳴が上がり、パニック映画のようになっているけど無視である。無視でいいよね?今井の屋敷に到着すると今井の使用人が腰を抜かしていた。戦の時に使者が次郎丸を見たけど、ここまで驚かなかったよね?なのでそんなに驚く事かとも思いつつ、宗久殿の待つ中庭に移動した。信長と義昭殿は話をしている様で、その近くで宗久殿が小さい犬の頭を撫でていた。多分あれが白尾だと思う。
私が次郎丸を連れて近付くと私達に気付いた宗久殿がこちらを振り向いて固まった。そして『うわっ!』と声を上げ、白尾を守るように拾い抱きしめて後ろに下がった。私はその様子を見て落ち着かせようと口を開いた。
「宗久殿、驚かれたと思いますが大事ありませぬよ。落ち着いて下さいね?この子は大人しい子ですから」
私がそう言うと宗久殿が引き攣った顔で口を開いた。
「う、氏治様、それが犬で御座いますか?そっ、宗久には物の怪にしか見えませぬ!」
「犬ですよ?ちょっとだけ大きいかも知れませんが大人しい子ですよ?ほら」
私は次郎丸の首を抱きしめた。次郎丸は甘えるようにキュンと鳴いた。
「おっ、尾が二本もありまする。かような犬は見た事が御座いません!」
バリバリ警戒している宗久殿を皆で宥める事になった。宗久殿も他の皆が落ち着いている事に気が付いてようやくまともに会話が出来るようになったのである。私が驚かせたことを詫びると宗久殿が口を開いた。
「いや、参りました。真に驚きました。こんなに驚いた事は御座いません。この宗久は滅多な事では驚きませぬが、此度は心底驚きました」
そう言いながらも顔が引き攣っている。そんなに怖いのだろうか?それに滅多に驚かないとか言っているけど、今日も一日中驚いたとか言ってたじゃん。今も三回も驚いたって言ってるし?
「その子が白尾ですね?とても可愛いですね」
宗久殿は白尾を抱きしめたまま降ろす様子が無く、守るように身構えている。次郎丸の公園デビューである。挨拶をさせなければならない。白尾は狆≪ちん≫だった。流石は堺の豪商のペットである。
「宗久殿、白尾に挨拶をさせて下さいな。次郎丸、白尾に挨拶するんだよ?」
私がそう言うと宗久殿は慌てた様に口を開いた。なんか顔が汗でびっしょりである。
「いや、氏治様。この宗久、疑う訳では御座いませんが、真に大事ありませぬか?」
「この子は賢くて大人しい子なのです。次郎丸、口を開けて御覧」
私がそう言うと次郎丸はがばっと口を開いた。その瞬間に宗久殿はバックステップを決めた。怖がらなくてもいいのにと思いながら私は言った。
「この通り、とてもお利口なのです。試しに次郎丸の口に白尾を入れてみて下さい。噛みませんから」
私の言葉に宗久殿の顔色が真っ青になった。そして子犬を小脇に抱えたまま平伏した。
「氏治様、お許し下さい。それだけはご勘弁を!この宗久は何でも致しまする。この子の命だけはどうか!どうか!」
そして皆でまた宗久殿を宥める事になった。政貞が『御屋形様、少しはお考え下さい』とか皆に色々言われたけど、私は安全をアピールしただけなので問題は無い筈である。
暫くは疑っていた宗久殿だったけど恐る恐る白尾から手を離した。白尾が次郎丸に駆け寄ると宗久殿が『あっ!』と声を上げたけども、白尾と次郎丸はお互いの臭いを嗅ぎ合って挨拶が出来たようである。白尾はちゃんと分かっていたようである。お利口な子だ。そして次郎丸の公園デビューも完了である。
暫くは警戒しまくっていた宗久殿だったけど、今は次郎丸にじゃれ付いている白尾を見て落ち着いたようだ。狆も可愛いなと思って眺めていたら宗久殿が口を開いた。
「一時はどうなる事かと思いましたが、ようやく安堵して参りました。お恥ずかしい所をお見せ致しました」
私は次郎丸との出会いを宗久殿に話して聞かせた。宗久殿は感心しながら私の言葉を聞いていた。
「氏治様、こうして落ち着いて見ると次郎丸は不思議で御座いますな。あの長い二本の尾といい、大きさも。あの輝く毛並みも。そして賢さが異常で御座います。まるで神獣の様で御座いますな」
「皆そう言いますけど、ただの犬ですよ?」
私と宗久殿が話をしていると今井の使用人が走り寄って来て宗久殿に耳打ちをした。それを聞いた宗久殿が口を開いた。
「どうも、屋敷の前に人が集まっている様子で御座います。恐らく次郎丸の噂を聞きつけて参ったので御座いましょう。さて、どう説明致しましょうか?」
宗久殿がそう言うと赤松が口を開いた。
「御屋形様、この赤松が静めて参ります。騒ぎになるのは御屋形様も本意では御座いますまい」
「この飯塚も参りましょう。今井殿に御迷惑が掛かっては宜しく御座いませぬ」
「分かった、二人に任せるよ。宗久殿、ご安心下さいね」
私がそう言うと赤松と飯塚が『では行って参ります』と小走りに去って行った。私は宗久殿に詫びて二人を待つ事にしたけど、尾張では人々が付いて来たくらいだったから、ここまで騒ぎになると思って居なかったのである。




