第百話 北条氏康と風魔小太郎
―小田原私邸 北条氏康―
北条氏康は自身の私邸の縁側で風魔小太郎から報告を受けていた。差し出された長い文を静かに読んでいる。風魔小太郎は相模国、足柄山地を根拠地にする乱破集団の首領である。北条家に仕え、乱破仕事で扶持を得ていた。
風魔小太郎は氏康の私邸の庭で平伏し、頭を地面に付ける様に垂れている。だが、地面を見つめるその顔色は冴えない。北条氏康から命じられ、小田家の戦の話や噂の真偽を確かめるべく配下を放ったが、戻って来たのはたったの二人。残りの者は命を落としたと思われた。
風魔小太郎の顔色が冴えないもう一つの理由は百地丹波の存在であった。小田家を探らせた配下から報された言葉に衝撃を受けたのだ。『伊賀の上忍、百地丹波が武士として、重臣として小田氏治に仕え、城まで任されている』。これを聞いた時には何かの間違いだろうと配下を疑い問い詰めたが、間違いないと配下は言う。風魔小太郎はそれを信じる事が出来ず、更に十五人の配下を小田領に放った。しかし、戻って来たのはまたしてもたったの二人。残りは百地の忍びに討たれたとしか考えられなかった。
関東で風魔に勝る乱破は居ない。そういう自負もあり、配下が討ち取られるなど考えもしていなかった。だが現実は二十一人が戻らないのである。風魔の貴重な乱破上手を半数程失ったのである。報酬を考えると全く割に合わず、長く続く戦で配下は散り散りに働いているから手持ちの配下も不足する事になった。
地面を見つめながらそれにしてもと考える。風魔小太郎自身、上方の忍び衆の事はよく知らない。ただ、伊賀と甲賀に上忍と呼ばれる忍びが居り、その技は乱破衆などでは到底及び付かないと聞いている。現に風魔の乱破が二十一人帰らないのだ。それに忍びである百地丹波が武士として重臣の列に加わっていると聞いた事は未だに疑っている。
小田家は頼朝公以来の名門の家柄、武門の名家に忍びが武士として奉公できるなど考えられなかった。しかも重臣の列に加わっていて城まで任されるなどまるで夢の中の出来事のような事である。風魔小太郎自身も乱破、透波と呼ばれ、武士からは蔑まれている。忍びも乱破も変わらない、そう考えている風魔小太郎は百地丹波に嫉妬にも似た感情を抱いた。
重臣ならば評定にも参加しているのだろうか?城を任されていると言うからには城に住んでいるのだろうか?一体如何程の報酬を貰っているのだろうか?自身は屋敷にすら上げて貰えない身の上である。野良犬が芸をして褒美を貰っているような自身と比べてしまい、悔しさも込み上げて来る。そうしていると北条氏康から声が掛かった。
「小田殿は百地丹波と申す乱破を重臣の列に加えていると記されて居るが真か?城まで与えているとも記されているが?」
「真であると存じます。某も疑い、再度手の者を走らせましたが間違いないと報じて参りました」
「ふむ、乱破を家臣にするなど聞いた事が無い。当家であれば其の方を家臣と致す事になるが、あり得ぬ事だ」
氏康の言葉を聞いて風魔小太郎は思わず落胆した。確かに、北条家の家臣になれるなどあり得ない事だが、改めて言葉にされると気落ちした。百地丹波の話を聞いてから有り得もしない事を期待する自分が居た。
「戦の仕方は江戸殿から聞いた通りのようだが、次郎丸と申す神獣とは真なのか?この氏康は信じられぬのだが?」
「真で御座います。手の者が見て居ります」
「ではこの怪力の姫であると申すのもか?」
「土地の者に聞いたそうで御座います」
「熊を打ち殺したともあるが?」
「これも土地の者がそう申したそうで御座います」
風魔小太郎は内心ではそのような事があるものかと思って居る。だが、配下が風魔小太郎を謀る理由も無く、調べ聞いた事をそのまま話して居るのだが、語る自身が愚かに思えた。
「ふむぅ」
北条氏康は考え込んだ。くだらぬ噂だと思って居た事が真実であると言うのだ。戦上手な事は裏が取れた。しかし、神獣と言われても信じる事など出来ない。吉祥天様の生まれ変わりと言われている事もそうだ。戦になれば神と戦する事になる。やはり有り得ない。民草が一方的に信仰しているのだろうと当たりを付けた。
文の内容には興味深い事が記されていた。他の土地から逃げて来る民草に食料と土地を与え、保護している事。戦では乱暴狼藉を禁じている事。民百姓に害をなす者には厳罰を与えている。これが真であれば真の仁君である。そして北条氏康が目指している政でもある。小田氏治に益々興味が湧いて来た。会って話をしてみたいと氏康は心からそう思った。
そしてもう一つ。河越の夜討ちの戦で上杉朝定を逃がしたのが小田氏治であると記されていた事である。当時の氏康もその事は耳にしていたが、小田政治が逃がしたのであろうと考えていた。だが、こうなると話は変わって来る。
氏康は金子の入った袋を風魔小太郎に投げた。風魔小太郎は気落ちしながらそれを拾う。今までは当たり前だった事が百地丹波の話を聞いてから惨めな事に思えた。氏康の私邸を後にしながら小田氏治に仕えれば武士になれるのであろうか?と夢想しながら帰宅の途に就いた。
翌日、北条氏康は重臣を再び私室に集め、風魔からの報告を検討する事にした。氏康に呼ばれた四人は風魔からの報せの文を回し読んでいる。やがて全員が読み終わると北条幻庵が口火を切った。
「信じられぬ、戦上手なのは判った。じゃが、神獣が居るなど聞いた事も無いわい。風魔は気が触れたのではあるまいな?」
幻庵がそう言うと北条綱成が続いた。
「乱破を家臣に、しかも重臣とは驚き申した。城を与えている事もで御座る。真なので御座いましょうか?」
「少なくとも風魔が気が触れている様子は無かった。この氏康も疑っている。だが、戦の話は江戸殿の申す通りであった。百地と申す乱破も真らしい」
一同は腕を組み考え込んだ。噂の殆どが真実である事を風魔が報じて来ているのだ。
「益々判らなくなりましたな。何れも信じられぬ事ばかり、我等は騙されているのでは?と思うてしまいますな」
遠山綱景がそう言うと清水康英も同意した。あれこれと話し始めた重臣達に氏康は口を開いた。
「小田殿の政が真であれば、この北条氏康、心底尊敬致す。神獣などどうでもよい。この御仁の為さり様は真の君主の振舞いでは無いか。だとすれば乱破を家臣に重臣に致して居るというのは考えられぬ事でも無くなる。小田殿が仁者であれば、武士も民も乱破にも別は付けまい。武家の名門故、我等が計れぬのかも知れぬ」
氏康がそう言うと答えるように北条綱成が言った。
「益々殿に似て居りますな。ですが、感心してばかりも居られますまい。六十二万石の大国が里見や上杉に合力致せば、抗するだけで手一杯になりまする。叶うのなら手を結びたい所で御座います」
北条綱成がそう言うと幻庵が髭を撫でながら言う。
「我等は坂東では余所者じゃからな。小田殿が我等と盟を結べば上杉が黙っては居るまい。厄介なのは佐竹殿じゃ。小田殿と佐竹殿、合わせて八十一万石になるかのう。力は我等と変わらぬ事になる」
「厄介な事はもう一つ御座いますな。この綱成が見るに小田殿は背後と脇を佐竹殿に守られて居るので、軍勢を前に繰り出すのみで戦がし易く御座います。六十二万石の兵は一万五千、里見と上杉への防衛に兵を割いている千葉殿では瞬く間に蹂躙されましょう」
北条綱成がそう言うと氏康が答える。
「そう言うても今は打つ手が無い。小田殿とて領土を獲ったばかりでは直ぐには動けぬであろう。まずは里見を何とかせねば始まらぬ」
氏康がそう言うと清水康英が苦虫を嚙み潰したような顔をした。相模は里見水軍に度々荒らされ、北条家も水軍を繰り出すが、里見義堯の巧みな戦術で損害ばかりが増えていた。その様子を見て幻庵が口を開いた。
「安房からは当家の領土が丸見えだと聞く。伊豆の水軍衆が動いても直ぐに気取られ待ち伏せされる。近頃はこればかりじゃ。千葉殿も国境を守るので手一杯の様子、武田を動かそうにも信濃で手一杯と来て居る。軍費も嵩むばかり、義元殿と盟を結ぶしかあるまい」
「それが出来ればこの氏康も苦労は無い。義元殿はこちらの弱みを判って居るから容易く盟を結ばぬのだ。この氏康は当家に討ち入る隙を伺っていると見ている。義元殿に太原雪斎、里見義堯に上杉朝定、そして小田殿。こうも敵が多いと手が打てぬ。思えば河越の夜討ちで上杉の首を獲れなんだのが此度の遠因に思える。小田殿の調べを致したからかも知れぬが」
氏康は腕を組んで考え込んだ。その様子を見ながら北条綱成は疑問を投げ掛けた。
「殿は随分と小田殿を気になさいます。風魔の調べでも河越の夜戦の事が記されて居りますな。河越の戦は六年前、そうなりますと小田殿は十二になり申すか。十二の娘が殿の軍略を見抜くとは思えませぬ」
「小田殿を気にしても始まるまい。この幻庵も長う生きて居るが、他国の調べを致して益々解らなくなるなど初めてじゃ。此度はこれで仕舞にするしかあるまいが、里見は放置が出来ぬ。兵を送るしかあるまい。その上で清水殿には水軍衆にて隙を伺って貰う」
幻庵の提案に氏康と諸将は頷いた。
「里見とて戦続きで苦しい筈で御座います。ここは我慢のしどころですな?」
北条綱成がそう言うと氏康が口を開いた。
「ではそう致す。里見を切り崩せば勝機もあろう」
氏治のチート能力や次郎丸の存在が北条家の首脳陣を混乱させていた。河越夜戦からの氏治の行動が北条家が本来辿るべき道を違えさせ、窮地に陥らせていた。そして里見家への攻勢を強める事を決断した北条氏康によって里見家は窮地に陥って行く。




