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熱を帯びる。

作者: 霧乃鵜

短くものですので、合間に読んでいただけると幸いです。




「行ってきます」

 いつものように発した言葉は、リビングで飛び交う怒声にかき消されてしまった。私は逃げるように家をあとにした。

 今日は友達と夏祭りに行く約束をしている。受験生である私にとって、唯一といっていい夏の楽しみだった。焦げたソースの匂いや煙の熱気を思い出すだけで、心が弾んだ。

 慣れない下駄を鳴らしながら、待ち合わせ場所へと向かう。

 道すがら、転ばないよう慎重に歩く私を、小学生の兄妹が追い越していった。先走る妹をなだめる小さな兄貴の姿を微笑ましく見ていた。

 ふと私の頭に、母と喧嘩をしていた兄の姿がよぎる。

 内気である私と違って、双子の兄は活発で真面目な性格をしていた。五年前に父が事故死するまでは。

 父の死をきっかけに兄は様変わりしてしまった。野球部をやめたのを皮切りに、中学をさぼるようになった。

 高校に入学すれば──なんて母は思っていたそうだが、兄の行動はむしろエスカレートしていった。平日の昼間から友人と遊び歩いているようで、お金がなくなると母の財布から抜き取とっているのを見たことがある。私にせがんでくることも少なくなかった。

 さっきの口論は進路のことで揉めていたに違いない。私たちはもう高三だ。普段兄の行動を放っていた母も、ようやく重い腰を上げる気になったのだろう。最近になって兄と真剣に向き合おうとしていた。

 今でこそ、こんなになってしまっているが、私は兄を嫌っているわけではない。最近はむかつくことも多いけれど、それはきっと不器用なだけだと思う。彼の奥底にある芯の部分は、昔とままだと信じているのだ。


    * * *


 小学校三年生の夏、私は兄と一緒に夏祭りに行った。このとき初めて下駄を履いた。案の定、足が擦り剝け、帰る頃には踏み出すたびに足が痛んだ。そんな状態だったから、徐々に兄から歩き遅れていった。

 そんな私を見て兄は、

「おんぶしてやるよ。」

 そういって、背中を向けてきた。

「だいじょうぶだよ。ひとりで歩けるから」

 負ぶってもらうのがなんとなく恥ずかしかった私は、一度は断ったのだ。しかし兄は、私とさして変わらない、小さな背中を頑として向け続けるのだった。

「いいから掴まれ」

 しばらく悩んだ末に、私は彼の気遣いを素直に受け入れることにした。

 兄の肩に手を置く。いつの日か触れた父のものとは程遠かったけれど、どこか頼もしく思えた。

 ふらつきながらも一歩一歩踏み出す彼を、通りすぎる人たちが不安そうに見つめていた。対して、背に乗る私は、初めの気恥ずかしさはどこかに消えていた。代わりに兄を誇らしく思う態度が、表情にまであらわれていたと思う。

 家まではさすがに無理があるだろう。そう思っていたが、兄は私を背負ったまま家にたどり着いたのだ。

 ずいぶん無理をしていたのだろう。私を下ろすなり、兄は玄関に大の字で倒れこんだ。

「ありがとう」

 その言葉は、驚くほど自然に出てきた。兄は暑さで火照った頬を手で仰ぎ、

「ああ」

 とだけ返した。大変だったでしょ? そう訊く隙も与えず、

「それにしても暑いな」

 そう言って、話題と顔を一緒にそらすのだった。

 

 夏祭りから帰ってしばらくして、兄は母に何かを訴えていた。そのことが受け入れられなかったのか、やがて泣き出してしまった。

 兄が部屋に駆けていくを見て、私はこっそり母に訊いた。

「どうかしたの?」

母はあきれた様子で言う。

「手水舎っていうのかな。お寺に手を洗うところがあるでしょう? そこにヒキガエルがいたんだって。そのヒキガエルにカナブンを食べさせて面白がってる上級生がいたんだってさ」

「それで?」

「カナブンがかわいそうだって。命があるんだー、って」

 私は口を開け、ぽかーんとしてしまった。

    

    * * *


 どうして兄が泣く必要があるのか、当時は不思議に思ったものだ。

 十八年の付き合いとなった今では、何となくわかる。兄はよくも悪くも、物事に対して感情を向けすぎてしまう、というのが私の解釈だ。つまり、繊細で正直者ということだ。だからこそ、理不尽を目の当たりにして心が耐えられなかったのだろう。

 

 気がつくと、私は電話をかけていた。数回のコールを経て、つながった。

「なんだよ急に」

「あのさ。小学生の時、一緒に夏祭り行ったことあったよね」

「ああ? ああ、そんなこともあったな」

「祭りから帰ったあと、家で泣いてたよね、どうしてなの?」

 当然、私は知っているのだが、本人がどう思っていたのか知りたかったのだ。

「はあ? そんな昔のこと覚えてる訳ないだろ」

 相変わらずわかりやすいな、と思う。

「ふーん」

「なんなんだよ突然」

 特に意味はないよ、と私ははぐらかした。

「──そういえば今日、夏祭りだったな。からから音がするから、下駄はいてるんだろ。気を付けろよ」

 やっぱりそうだ。

「わかってるよ」

 ちらほら屋台が見え始めた。ぼやけた熱気に包まれていくのを感じる。

 ──大丈夫。わかってる。

 輪郭を帯びた熱が、全身に広がるのを感じる。頬を撫でる柔らな風が心地よかった。

「そんなことより、何か食べたいものある? 焼きそばとかなら買って帰れるよ」

「そうだなー」

 しばらく考え込んだのち、出した答えは

「かき氷」

 わざとだ。私を困らせようとして言ったのだろう。天邪鬼なところも昔と変わっていない。しかし今日の私に、それは通用しなかった。

「それでほとぼりが冷めるのなら、考えてもいいよ」

 沈黙が流れた。電話の向こうで押し黙る兄を想像して、私は満足感を覚える。

「それじゃ、またあとでね」

 そういって電話を切った。たまには勝ち逃げるのも悪くないと思う。

 

 人混みの向こうで、友達が手を振ってくれていた。手を振り返しつつ歩みよる私は、下駄を履いていることを忘れている。今ならスキップだって出来そうなくらい、足取りが軽く感じられた。

 

 

 

 



 

 

 

 


 




 

 

お時間頂き、ありがとうございました。

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