あの頃のような眼差しで
太い腕に腰を引かれ、ハンナは後ろから抱きしめられていた。
「フォルティス? 具合が悪いのかい? そこのベッドでよけりゃ、横になりな。今、医者を──」
振り向いたハンナの声は、フォルティスの唇に吸いとられた。
──
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──────
「──にを、するんだ、このバカが!」
「づっ……痛いぞ、ハンナ」
肘鉄を食わされたフォルティスは、脇腹をさすった。
「痛いようにしたんだから、あたりまえだろうが! 顔じゃないだけ、マシだと思いな!」
「我慢できなかった俺も悪いが、惚れている相手にさわられた上に、『ベッド』なんて言葉を聞いたら、我慢しろというほうが無理だ」
「正論を述べた顔するんじゃないよ! 合意じゃなけりゃ犯罪だからね!」
「あぁ。次はきちんと確認してからにする」
「アタシは、そういうことを言ってるんじゃないんだよ……」
何で話が通じないんだ。
今夜だけで、何度ため息をつけばいいのだろう。
……だが、この様子なら。今すぐ医者に診てもらわなければならないような傷はなさそうだ。
念のために、ハンナは確認する。
「……大きな傷は、ないのかい?」
「もう、大丈夫だ」
「てことは、あったんだね」
鋭い目で、フォルティスを見据えた。
「……ハンナは、ごまかせないな」
フォルティスは小さく息を吐いた。
「あたりまえだろ。アンタと違って、こっちは他人様の話を聞くのも、商売のうちなんだよ」
「……わかった。白状する」
フォルティスは、ひと息置いて口を開いた。
「……パーティーに、高レベルの聖職者がいたから助かった。何度か四肢が千切れかけたが、アイツの〝再生〟のおかげで、無事に帰ってこられた」
フォルティスの端的な説明を、ハンナは正確に読み取った。
だてに幼なじみをやっていた訳じゃない。
20年前は、毎日のように一緒にいたのだ。
この不器用だが真っ直ぐな男の言葉を周囲に誤解なく伝えるのが、あの頃のハンナの役目だった。
「言葉を、はしょるんじゃないよ」
久々に、この言葉が口から出た。
「その人の〝再生〟のおかげで、『死屍累々になりそうだったところを、どうにか手足がついた状態で帰ってこられた』んだろ?」
「そのとおりだが……少しくらい格好をつけてもいいだろう」
子どものようにむくれるフォルティス。
格好をつけたからといって、事実が変わるわけじゃない。
ハンナはあの頃のように諭した。
「あの最恐の竜に挑んだら即死亡ってのは、この世界の常識だ。それがこうして五体満足でいられるんだから、聖職者の人の〝再生〟の精度がよっぽど高かったんだろ」
「……まぁ、そうだが」
死線を乗り越えてきたのは同じなのに、聖職者ばかりが褒められているようでおもしろくない、という顔をするフォルティス。
「子どもみたいに拗ねるんじゃないよ。だいたい、何でそんな危険なことをしたのさ」
「SSSランクに昇格する条件だったからだ」
「は……!?」
「俺はそれが、ハンナと約束した〝一流の冒険者〟だと思った」
「いや……いやいやいや」
ハンナは首を横に振った。
「アンタ、何言ってんだい。一流の冒険者ってのは、ランクに関係なく〝人格と実績〟だろ」
この国では幼児でも知っている〝冒険者の心得〟だ。
「それじゃ、ハンナに失礼だろう」
「アタシ……?」
「俺は、この世界で最高の女を花嫁にするんだ。どれほど人の役に立とうと、Cランクじゃ意味がない。希少価値のある最高ランクを得てこそ、ハンナを唯一のパートナーにできるんだからな」
「いや、『だからな』って……」
そんな危険を犯して来いなんて、ハンナは頼んでいない。
「アタシとの結婚なんざ、命を掛けるようなことじゃないだろ」
「言葉だけでは、俺の心は伝わらない。目に見える証があってこそ、俺の愛はハンナにも見えるようになる」
フォルティスの真摯な態度に、危うく絆されそうになった。だが、ここで甘い顔をしたら一生流される気がする。
ハンナは意識して眉を寄せた。
「だからって、極端なんだよ。死んじまったら、意味ないだろ」
「死ぬつもりはなかった。俺の心の中にはいつも、〝神の恩恵〟の名を持つハンナがいたからな。だから、死ぬはずがない。ハンナの愛を得るためなのに、俺が死んだら、ハンナは別の奴のものになってしまうだろう?」
ハンナの表情を意に介さず、このマイペースな男は自分の想いを切々と訴えた。
「……アンタ、何でいつもそのくらい喋らなかったのさ」
多少の苛立ちと一途な想いの嬉しさが複雑に絡み合った心は、ハンナに悪態をつかせた。
「他の連中にもそのくらい喋れば、アタシの補足説明なんざ、いらなかっただろうに」
「そうしたら、他の奴らから『夫婦みたいだ』と言われることがなくなってしまうだろう」
「どういう意味だい?」
ハンナはきょとんとした。
「奴らが俺とハンナを『夫婦みたいだ』と言う。他の連中も、俺とハンナを夫婦みたいだと思うようになる。これで、ハンナに手を出す奴はいなくなるからな」
「……意外と策士だったんだね、アンタ」
そんな意図があったなんて、全然知らなかった。ただ、喋るのが──
「まぁ、他の連中とは喋るのが面倒ということもあったんだが」
「やっぱりか!」
ハンナは思わず突っ込みを入れた。
フォルティスを少しだけ見直した自分にも、単純かと突っ込みを入れたい。
今ので、この20年の間に少しずつ蓄積された鬱憤ゲージが上がった。何か返さねば、ハンナの気は収まりそうにない。
「……アンタ、この状況でアタシが亭主持ちだって言ったら、どうするのさ」
「その男と刺し違えてでも、ハンナを取り戻す」
思ったよりもフォルティスの目が鋭くなったことに、ハンナは内心戦慄した。
ちょっとしたやり取りで、溜飲を下げるつもりだったのに。
「……で? いるのか?」
……これ、もしもいたら、
『逃げな! 即逃げな!』
のパターンだ。
「ハンナ? 相手の男は?」
「そ、その目つきは、SSSを名乗ったらダメなやつだろ」
「ハンナ?」
静かな声が逆に怖い。
間近で見つめられると、さらに怖い。
「いない! いないから、その凶悪犯みたいな面をやめな!」
「そうか。なら良かった」
「……くっ」
なぜハンナがやり込められなければならないのか。
目の前の男は、
「ヘルフレイムドラゴンに比べたら、人間など一溜まりもないからな」
などと、宙を見ながら涼しい顔で恐ろしいことを口にした。
この街から〝SSSランクの犯罪者〟を出すわけにはいかない。
腹をくくるべきかと、ハンナは考えた。
気がそれていたハンナは、いつの間にか詰められていた距離に気づくのが遅れた。
フォルティスの上着が視界に入ったかと思うと、ふたたび腰に腕を回されていた。
「……離しな」
「いやだ」
「即答するんじゃないよ」
「恋い焦がれた相手が愁いのある顔をしていたら、抱き寄せるしかないだろう」
「その自信満々な意見は、どこから来るのさ」
「合意がなければ、キスはできない。だから抱き寄せる以外にできない」
「何が『だから』なのか、さっぱりわからないけどね」
愁いの原因が、何を──
「俺の抱擁で、ハンナを安心させたい。俺はハンナを抱きしめたい。一石二鳥だな」
「……それ、得をしてるのはアンタだけだろ」
不覚にも、ときめきかけた自分を叱咤しつつ、フォルティスに言葉をぶつけた。
フォルティスはショックを受けるどころか、恥ずかしそうに笑った。
「そうかもしれない。やっとハンナに逢えた嬉しさで、テンションがおかしくなっているからな」
この素直さは、ハンナがかつて羨ましく思ったものだった。
マイペースだが、裏表のないフォルティスの傍は居心地が良かった。
子どもの頃、
『いつか冒険者になる』
と言ったフォルティス。
そのいつかの時に引き留めたくなかった。だから、繰り返される幼いプロポーズを、
これはフォルティス式の挨拶だ
とハンナは自分に言い聞かせていた。
「……ハンナ」
今まで聞いたことのないような、甘ったるい声。その瞳も、甘さを含んだ真剣な色をしている。
ハンナはどうしていいかわからない。
他の冒険者なら、女将としてさらりと受け流せるのに。
フォルティスのこの瞳は、ハンナの心をざわめかせる。
「……ハンナ」
「……なんだい」
乞うような呼びかけに、ハンナは戸惑いながら答えた。
フォルティスは、首元からチェーンを取り出した。その先端には、最高ランクの証である、プラチナの小さなドッグタグ。
「このタグと、俺自身と。それから、神の恩恵の名のもとに誓う」
あの頃のような眼差しで。
あの頃よりも〝男〟の表情で。
「一生……ハンナを一生守る。だから、ハンナの人生を、俺にくれ」
不器用な男の、ストレートなプロポーズ。
──今まで、何人もの男たちに求婚された。
吟遊詩人のような言葉で。
美辞麗句を並べた言葉で。
だが残念ながら、何一つハンナの心には響かなかった。
──こんなに、胸が高鳴ることはなかった。
ハンナは一度目を閉じ、射ぬくような眼差しでフォルティスを見返した。
「……仕方ないから、アンタに〝神の恩恵〟をやるよ」
「ああ」
「手放したら、二度と手に入らない恩恵だからね」
「ああ」
「アタシの知らないトコで、勝手に死んだら承知しないから」
「ああ」
「それから──」
「ハンナ」
この男は、たった一言。
その低くて甘い声で、ハンナの言葉を止めた。
優しくハンナを抱きしめるその腕の中が──
「もう、待たせない」
──安心するだなんて、当分言ってやらない。
「愛してる。ハンナ」
フォルティスの想いをすべて詰め込んだような声。
ハンナは、赤くなりそうな顔を目の前の厚い胸板で隠そうとした。
「……ハンナ」
大きな手はそれを許さず、頬をそっと包みこんできた。
「誓いのキスを、させてくれ」
──その後は、夜の灯りだけが知っている──
これにて完結です。最後までお読みいただき、ありがとうございました。