十話 『なら、ニフネくん』
とくん……とくん……とくん……とくん。
大して激しくはないが、大きくゆっくりと、俺の心臓が脈動していた。
スーッと、何か大切で、暖かいものが、冷えていくそんな気持ちが、心の表層でざわめいているようだった。
「スッゲーっ! 何だこれっっ! お姫さまの手っ!! もっちもっちっ! すっべすっべっ!! 触ってるだけで興奮して来るぜっ!」
「……ふふ」
「もう一生。手を洗わないぞ!」
「いえ。それは洗ってください。また、何時でも握手は出来ますので」
初めてお姫サマと握手をしたニフネくんが飛び跳ねて悦んでいる。
その余りのはしゃぎ具合にさしものお姫サマも苦笑いだ。
「ほんとっ。エルメテルさまの肌。凄い。しっとりしてて柔らかい……羨ましい」
続けて、握手をした前髪ちゃんもニフネくん程ではないにせよ、表情がどこからとろんとしている。
「何だ? 何だ?」
「遂にエルメテル様と握手が出来るんだって」
「おっ、マジか! ハジメばっかズルイと思ってたんだ」
「これで奴のアイデンティティーは崩壊したな」
「エルメテル様~~っ。つ、つぎ、僕と握手をお願いしまーす」
「って! おい、何抜け駆けしてんだ」
「あ、私、その次で」
「じゃ、その次の次に、俺としてください」
がやがや……
「み、皆様。焦らずに。私もお友達の全員と肌を合わせる所存ですから」
遠目で見ていたクラスメートたちが高波の如く押し寄せてきて、
腕相撲大会だった筈が、いつの間にか、握手会に変わっていた。
アイドルか!
でも、本当にアイドルと握手をしたファンの様に、お姫さまと握手をしたクラスメートたちは、揃って御満悦だ。
「にゃははっ。ハジメにゃんのお姫にゃん取られちゃったにゃんね」
「取るとか取らないとか、そういう話じゃないだろ……そもそも前提がちげぇ」
「そうなのにゃん?」
「俺のだったら、誰にも触らせねぇし。こんなびっちエロフなんて本気で要らない」
「じゃ、にゃ~は?」
「もっといらねぇな」
「にゃーん!!」
今まで我慢していた皆の好奇心が、ダムの関をあげたかのように流れだし、次から次へと握手が進んでいく。
最初の方は額に汗を流し、微笑も辛そうだったが、今はムリをしている様には見えない。
本当に、たった独りで種族の壁を乗り越えてしまった。
……手がかからないから、余計に可愛くないお姫サマだ。
「しっかし。ずりーな。ハジメは」
「何が?」
「こんな気持ちい、お姫さまを、今まで独占してたんだろ?」
「……ああ、そうだったな」
遠慮のないニフネくんに言われて気付いた。
……そろそろ頃合いだろう。
「なら、ニフネくん」
「ん?」
「代わってくれ」
「……あ?」
言うが早いか、俺はニフネくんを肩を引いて、席を代わった。
当然、肩が離れ、マナ循環も途切れたお姫サマが握手会を中断し、
「は、ハジメさまっ!? いきなり何をっ」
訳が分からなそうに俺を見てくる。
ニフネくんは持ち芸なのか、再び、直立不動になっているが……
「握手が出来たんだ。マナだって吸えますよね?」
「……っ!」
それでもまあ、充電バッテリー役には不足はないだろう。
「それは……っ。出来ると思いますが……でも、マナは……あなたが居てくださればそれで――」
「人間に例えるのなら『マナ』は生命力。生きていれば誰でも持っているエネルギー。ですよね?」
「は、はい……。そうですが……」
「なら、俺じゃなくても良いはずだ」
「それは……そう、ですけれど……」
ようやく。ようやくこの時が来た。
お姫サマの俺への依存を克服させる時が。
……大丈夫。お姫サマなら、出来るだろう。
「種の垣根を越えねばならないのです。ですよね?」
「……はい」
「もしかして、ニフネくんじゃダメな理由でも、ありますか?」
「いえ……ダメな理由は……ありません……ね」
「なら」
ならば、もう問答は無用だ。
さっき誰かがアイデンティティーの喪失とか言っていたが、コレさえ出来てしまえば、本当に俺の役目はなくなる。
初代サポート役としての最後の仕事だ。
「……」
コクり。
暫く、心細そうに俺とニフネくんで視線を揺らしていたお姫サマが、喉仏を動かして、徐に頷く。
「そうですね……」
流石は独りで進めるお姫サマ。
物分かりが良い。
「でも、一つだけ。聞いてもよろしいでしょうか?」
「なんですか?」
「あなたは……これで構いませんか?」
「……は? 俺?」
蒼い瞳に射ぬかれるが、問いの意味が解らない。
いや、問いになっていない。
なぜなら、答に迷う理由がないからだ。
「当然でしょう? 俺が奨めているんですから」
「そう……ですよね」
耳を垂らして俯くお姫サマの感情が解らない。
本当に何だと言うのか。
一つだけ言えるのは、惚れた腫れたの話ではないことだ。
そういう感情をお姫サマは俺に抱いていない。向けていない。
それが嫌いだからこそ、俺には解る。
その前提で、何をお姫サマは言いたいのか?
「……仲直り……してはいただけませんか?」
「……っ!」
……ああ。愛情じゃなくて……友情か。
なるほど、俺と同じく、心の機微に敏感なお姫サマは気づいていたのだろう。
俺が、お姫サマを許していないことを。
「質問は……一つだったのでは?」
「……そう。ですね」
その時。お姫サマは小さく……諦めた様な溜息を付いた気がした。
だが、それもほんの一瞬のことで、すぐに見間違いだったと疑う程、完璧な微笑みをニフネくんへ向けた。
「では、ニフネさまも、よろしいですか?」
「は、はいぃっ! 感服です」
「……ふぅっ。行きます」
高潔・潔癖なエルフは、生命力そのものたるマナの吸引は、心を許した者にしかしない。
絶対の安心と信頼があって初めて行うことなのだ。
波長があったと、お姫サマが前に言っていたのはそういうこと。
動かないニフネくんに代わり、お姫サマから距離を詰める。
五センチ。三センチ。一センチ。五ミリ。三ミリ。一ミリ……そして、ゼロ。
「ふわぁああ~~っ! しゅしゅごい~~おれぇい~~ひゃほぅ」
「……出来……ました」
おおおお~~っ。
最初は詰め寄られただけで嫌がっていた、お姫サマの進歩に、周りが湧く。
「……コレはあまり大勢の方と出来るものではありませんので……どうか、ご容赦ください」
精霊族の生態関係故、そう言われたら、基本、心の優しいクラスメート達はでしゃばる事はしなかった。
そんな様子を俺は見てから、そっと息を吐いた。
ようやく役目が終わった。と。
……肩の荷が、おりたと。
しかし、そのはずなのに……心臓がやけに脈動する。
搾られる様な痛みを放つ。
……この感覚はなんなのか?
「ハジメさまっ」
「……はい?」
「やはり……あなたとが一番、……相性が良いようです。効率も良いので……コレからも」
この動悸に身体を委ねてしまえば、今すぐ、ニフネくんをお姫サマから引きはがし、もう一度、
「あなたがしてくれませんか?」
……マナ循環を買って出るだろう。
大嫌いな筈なのに……。
この気持ちは、感情はなんなのだ?
息も浅くしか吸えないし、思考の深さもどんどん浅くなっている。
もしかして、コレが『好き』という感情なのか?
だとしたら……
「ハジメさま……」
「……」
「仲直りしてくれませんか?」
だとしたら……俺は、
どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。どくん……
「(ありえない……騙されるか)」
「……」
そう、だとしたら、俺は俺が俺を一番嫌いになってしまう。
だから、ありえない。
この気持ちは、俺の求めてやまず、憧れる、『好き』ではない。
比べるのが失礼な程、醜い何かだ。
そんなものに俺は騙されない。
……騙せない。
「えっと……仲直り? でしたね。良いですよ。なんせ俺は『最初の友達』ですから」
「……」
今の俺は、今まで俺に告白してきた女の子達と同じ、お姫サマの事など見てはいない。
ただ、お姫サマの綺麗な顔と上っ面が好きなだけ。
……それだけ。
「でも、お友達が多い、お姫サマを独り占めする訳にも行きません。……というか、出来ません」
「……お友達」
「はい。俺はもうお友達なので。お姫サマは色んな人と、交流して、次々お友達を作ってください」
「それは……」
「それがお姫サマの目標なのでしょう? こんなゴミ屑みたいなモブキャラに、お姫様に触れただけの一般人に何時までも固執していたらダメですよ」
「……」
何も答えなくなったお姫サマを最後に、お姫サマの問答は終わった。
だからゆっくりと、そして、堂々と、
「と、言うことで、前髪ちゃん。俺と席、代わってくれ」
「え? 何で、私っ? って、だからゆいだよっ! 覚えてよっ!」
「理由? 前にお姫サマのせいで席、コネコちゃんに奪われてたからだけど……それはもうコネコのせいか」
「え? ハジメくんっ。私のことなのに覚えててくれたんだ♪ えへへ……ちょっと嬉しい」
「じゃ、そういうことで」
お姫サマから距離をとった。
これで本当に、お姫サマのサポート役から解放されたのだ。
「え? でも、良く考えたら……ハジメくんとの距離、今とかわらな――」
「にゃ~っ! ハジメにゃん。酷いにゃ~っ。にゃ~はハジメにゃんの近くが良いにゃ~」
「うっとしい。じゃあ、コネコちゃんも誰かと代われば良いだろ。なんせ皆のお友達。お姫サマの近くの席だ。引く手数多だと思うぞ?」
「ん? って事は、にゃ~が隣でも良いにゃん?」
「……俺がどうこう言うことじゃないからな」
「にゃ~ん♪」
こうして、また、二年一組は、勝手に席替えをする。
……まあ、担任が、担任だ。
学級委員長の権限を使えば、問題はないだろう。
高根さんも、握手会になった当たりから、いつの間にか姿を消していたし。
うん。何の問題もありはしない。
完璧だ。
……僅かな痛みだけが心にそっと残ったことを除いたら。