ダイバー
空に向かって落ちている。
それはこの星では月並みな表現の一つだった。
青年は冷たい風に打たれる中で目を見開いた。
光、眼前に広がる青い空、足元には白い雲。
そして上空には——草原の中に栄える赤いレンガ造りの街並みが姿を見せた。
惑星アハト。八つの浮遊大陸とその中心部にある『テラ』と呼ばれる天体で構成されたこの星はなぜかテラから外方向に向かって重力が、つまりは斥力が働いている。
故に人々が立っているのは浮遊大陸の裏側。
空に向かって落ちているというのは、大地に向かって落ちているのと同義だ。
そして、青年が今現在、こうして上空に放り出されているのには理由がある。
この惑星アハトの住人には時折、重力を無視して空を飛ぶことのできる異能力を持った人間が生まれることがあるのだ。
その名も『潜空士』
潜空士は、その希少性と、繋がらない浮遊大陸間を飛空艇なしで自由に行き来できることから国家からも有用性を認められ、多くが国家公務員としての役割を果たしている。
青年——ダンももちろんその一人だった。
地面が迫ってくる。
青年は石畳の道に向かって手を伸ばし、息をするかのごとく自身にかかる重力を反転。
落下のエネルギーを相殺し、ふわりと街に降り立った。
見慣れた、しかし少しだけ懐かしい街の風景が青年を迎える。およそ一ヶ月ぶりの故郷である。
「ダーン!」
元気な少女の鈴のような声が聞こえてきた。
青年はそちらの方を振り返る。
金色の髪を後頭部で結った、彼より一頭身分ほど背の低い少女が青年の元へと駆けつけてきていた。
「ティオか!」
「ダン! おかえりなさい!」
ダンとティオは幼なじみだった。といってもダンが潜空士として認められ、国家公務員として働き始めてからはなかなか故郷にも帰れず、こうして会うのも久しぶりだった。
「ダン、また身長伸びた?」
「いつも言ってるな。もう伸びねぇっての」
ニヒヒ、とティオが笑った。いつもの問答。しかしなかなかどうして、こう言った会話は安心感を得られる。帰って来たのだと。
そして、ねぇ。と少女が問いかければ、なんだ? と青年は返す。
「その……まだテラに潜ったりしてるの?」
「……ああ、と言ってもまだ届いたことはないがな」
ふうん。ティオは興味があるのかないのか微妙な反応をする。
「潜空士ってみんなそうなの? 昔は毎日潜ってたよね」
「どうだろうな。少なくとも俺の知り合いにはいなかったかな。みんな怖いって言ってたよ」
ダンは目線を上げる。ティオもそれにつられる。
視界に入ったのは、はるか彼方で淡く発光する摩訶不思議な球体——テラだった。
「怖い……かぁ」
「テラは一定以上の距離に入ると斥力から引力に突然切り替わるらしい。そうなったら、もしかしたら戻ってこれないかもな」
「私、ダンが飛んでるの見るの好きだよ。でも……ちゃんと、戻ってきてよね」
まっすぐな少女の金色の瞳。あまりに誠実に見つめられて、青年の心臓が少しだけ跳ね上がる。ついでに顔の熱も上がる。
「あれ? もしかして照れてる?」
「照れてない」
プイっとダンは顔をそらす。
「うっそだー、耳まで赤いよ?」
「なってない」
ててっと前に回り込んで少女は顔を覗こうとする。
もう一度青年は顔をそらす。
「ならこっち見てよー?」
「うっせ、俺はもう帰るぞ! 疲れてんだ」
「ああ待ってよー。どうせ家隣なんだから一緒に帰ろーよ」
夜。
と言っても時間的にはそうであるが、この星の夜というのはもう少し特殊である。
陽の光が差すのはテラより向こう側大陸の表面が浴びている時であるし、その隙間を縫って入って来る光だけで人々は照らされている。
というなんともめんどくさい構造をしており、光が刺さなくなった——つまりは人々の立つ大地の裏側が陽の光を浴びている現在、世界を照らしているのは星の中心で青く輝くテラだ。
要するに、惑星アハトにおける夜とは全体的に景色が仄暗く青い時間帯である。
そんな青い景色を窓辺から見つめてダンは一人嘆息をつく。
おもむろにカバンから取り出したのは一本の瓶。その中には古びた紙が丸まって入っている。
栓を抜いて瓶を逆さまに、ストンと紙はダンの左手に落ちてくる。そして、広げる。
そこに書かれている文章は手紙のような様相をしていた。
どこかの誰かが、どこかの誰かに向けた宛先のない手紙。
ただ、青年はその中のとある一文に幼少の頃より囚われていた。
『いつか、このテラの地で出会えることを祈っています』
訝しげに目を細める。
これがダンが空に潜り続ける理由だった。
子供の頃に拾ったこのボトルメールは、なんの変哲もない原っぱに落ちていた。
そのことを周囲の大人に話せば、必然、一笑に付して悪戯だろうと誰も相手にはしなかった。
少年は違った。
その手段を持っていた少年は挑むことにした。
潜る。深く、冷たい、空の底。
青く、淡く、輝く——テラ。
そこに手を伸ばし、伸ばし続けて、そして、一〇年が経った。
結果は出ていない。潜る深度は徐々に深くなっているのは実感しているが、近づけば近づくほどに強くなるテラの斥力に阻まれ、元いる場所に戻される。
その繰り返し。
再び嘆息。無謀な挑戦だという事実だけが青年の胸には残り、がくりと肩を落とす。
しばらく窓から目を逸らしていると少女の声が外から聞こえてくることが分かった。
おもむろに窓を開けて身を乗り出す。
玄関先でこちらに向かって手を振るティオの姿が見えた。
「ティオ、こんな時間にどうした?」
「ダン! 街が大変なことになってるの!」
は? と返しながらダンは二階の窓を飛び降りる。ふわりと地面を滑空してすぐにティオの前に立つ。
「何があった?」
「なんか変なぁ〜〜! とにかく来て!」
少女は踵を返して走り出した。
「ちょ、ちょっと待てよ!」
青年も出遅れ走り出した。
——惨憺たる光景だった。
赤いレンガ造りの街並みは鮮血色のペンキで塗りたくられ、石畳の道にはどこかしら欠損し、だらしなく内容物を放出している人のものと思しき肉塊。
テラから届く青い光はその凄惨さを強調することも覆い隠すこともなく、ただただ醜く気味の悪いものへと変容させる。
誰かの悲鳴が聞こえる。何か硬いものを砕いたような音がした。びちゃびちゃと何かが滴る音がした。悲鳴が——断末魔に変わったのを知った。
「な、なんだよ……これ」
「そんな……もうここまで……!」
街の入り口まで駆けつけたダンとティオ。目の前の光景に二人は絶句する。
ダンはティオの両肩を掴んで問いただす。
「ティオ! 何があった答えてくれ! 一体何がどうしたっていうんだ!?」
「あ……そ、空から瓶が落ちてきたの……」
「瓶……?」
「瓶の中には黒いモヤモヤがあって、落ちて割れると、突然黒いのが飛び出してきて近くの人を襲ったの!」
「黒い……瓶」
はっと気付いて視線を高く上げる。
真上、天上、テラ。
そして青い光とともに降り注ぐ——黒い流れ星。
数は星の数。とでも言えばいいだろうか。
「まさか……あれ全部のことじゃねぇだろうな?」
「……うそ」
ダンとティオは呆気に取られたまま動かなくなる。
深い絶望感が、足に枷をしていた。
ガラガラガラ! 街の建物が崩れ落ちた。
バラバラになった赤いレンガ。それを踏み倒しながら、黒いソレは姿を現わす。
一部分だけ、それも頭のほんの一部だけが見えて、
「————ッ!!!!」
二人は枷を引きちぎる勢いで逆方向へと走った。
挑んではいけない、目を合わせてはいけない、気取られてはいけない、有る限りの警鐘が脳内で鳴り響いた。
本能の全てを持って、無理だ。逃げろ。と判断した。
体力の消耗など些細なことは忘れて、ダンとティオは十数分間は走り続けた。
「はぁ……はぁ……は、けほっけほっ」
嗚咽混じりにティオが呼吸した。
「だ、大丈夫か……?」
「大丈夫……これでも体力には自信があるよ」
「へ、そうかよ」
安堵。今一度、深呼吸をして頭を落ち着かせる。
「……なんだあれは?」
「分かんない……」
「だろうな……だが、その黒い瓶とやらがテラから大量に降って来ているというなら、あの化け物は大陸中にばら撒かれていると見るべきか」
「これからどうするの?」
「お前も何となく感じたとは思うが、あの化け物には勝てない。なら逃げるしかない」
「逃げる?」
ティオはおうむ返しに聞く。
こくりと頷いて、ダンは少女と正面に向き合う。
「ティオ、この街のもの全部捨てて、俺と別大陸へ行こう」
「え?」
「別大陸ならあの化け物はいないかも知れない。飛空艇はないが、潜空士の俺ならお前一人くらいは抱えて飛べる」
「ちょ、ちょっと待って! 別大陸? 本気で言ってるの?」
自らの手で顔を覆い隠しながら、指の隙間からチラリとティオはダンを見る。
見慣れたその灰色の瞳はまっすぐで何の迷いも感じさせなかった。
「その……私でいいの? もっと別の人がいいとか……」
「馬鹿を言うな!」
青年が歩み寄り少女の手を取る。
「お前しかいない! お前だからこそ、俺はこんな提案をしたんだ! お前さえいてくれれば……それでいいんだ」
ボッと顔が熱くなるのを感じる。
「あはは……そこまで言われると、ちょっと照れるね」
「顔に出やすいのは、お互い様だな」
「そうだね」
顔が自然と近づいていたことに二人が気づく頃にはすでに後数センチというところだった。
あ——と呼吸が漏れる。
もう互いの体温が分かるような、交わるような距離にまで接近する。
そのまま、そのまま混ざり合うようにして二人は、唇を重ねた。
初めての経験に頭が真っ白になる。二人の心が溶け合うような感覚がとても喜ばしいと思う。その深い喜びに夢中になる。
だから——。
二人は足元に落ちた黒い瓶に気がつけなかった。
「!?」
黒いモヤから巨大な口が現れる。
口はティオを捕らえると煙のごとく上昇していき、いともたやすく二人を引き裂いた。
「なっ!?」
ダンは咄嗟に急上昇する。大口の化け物が伸びるより速く速く速く速く。
ビクンッ、化け物の先端が蠢いた気がした。
「おい? ……まさか?」
上でこちらを見つめているティオの体が揺らされている。
「やめ……」
化け物の口が少女の体を——噛みちぎった。
「やめろぉぉぉぉぉおおおおおおお!!!!!!」
ティオの体が跳ねて、化け物の口から解放されて落ちてくる。
無論、ダンはそれをキャッチする。
そして抱えたままその場を飛び去った。
「ダン……ゴメンね」
「……」
「私、行けそうにないよ」
「……」
飛行中。それは会話とは言えない会話だった。
下半身を噛み切られ、上半身だけになって抱えられている今の少女は、もはや意識があるだけでも奇跡的、否、悲劇的とも言えた。
青年は黙ってそれを大事そうに抱えているだけ。
「あ、綺麗……」
不意に出たそんな言葉が気になって、ダンは少女の見る視線に合わせて世界を見た。
眼下に広がるのは青い草原。火の手に包まれたレンガ造りの崩れた街並み。そしてそこらを跋扈する黒い化け物たち。
「潜空士っていつもこんな景色を見てたんだね。
空に潜りたいってダンの気持ちも分かった気がする」
「……」
「うん、ダンと一緒に飛べてよかっ…………」
言い終えるを前に事切れる。
上半身のみでなんとかしがみついていた少女の力は消えて、同時に青年の力も失せて。
ホロリとこぼれ落ちるように少女の上半身は、大陸の土へと還っていった。
「何が……」
眼下に広がる世界をもう一度見た。
「何が綺麗だよ! もっと! もっとあるんだ! 青い空だって、緑色の草原だって、白い雲の中だって、普段見れない屋根の上がどうなってるのかだって、もっと……もっと綺麗なものが……!」
血が滲み出るほどに青年は拳を握る。
「許さない……」
怒りが灯る。その矛先は、天上——テラ。
テラから届いた瓶の手紙。そして、空から降り注ぐ黒い瓶。
無関係とは思えなかった。
「許さない!!!!」
怒号とともにダンはより深く空へと潜っていく。
深く深く、誰も到達したことのないテラの地へ。
重力を振り切り、斥力を跳ね除けて、ダンは自己記録を大幅に更新したことも分からず潜っていく。
「あああああああああああああ!!!!」
テラが目前にまで迫り、猛烈な斥力が行く手を阻んだ。
抵抗する。身も心も全てを投げ打って、潜る。潜る潜る潜る潜る潜る————そして、突然の浮遊感。
「……え?」
世界が一転する。目の前に広がったのは草原だ。殺風景と言ってもいい。
どこまでも続く緑の大地。
だが、一軒だけポツンと家があった。
二階建てのなんて変哲も無い家。
強いて言うなら屋根に天窓があることが分かった。遠目から覗き込むとベッドで横になりながらもこちらに視線を送る少女の姿が見えた。
ダンは無意識のうちに手を伸ばしていた。
そして、そこでようやく気がついた。
自らの身体が燃えていることに。
伸ばした左手はすでに焼け朽ちていた。それから徐々に——本来の時間であれば一瞬の出来事なのだろう——全身が燃える。
それに反抗する意思はなかった。
断末魔もなく、髪の毛一本残ることもなく、この時、一人の青年が消えた。
「ねぇねぇお父さん! また流れ星だよ!」
「ああそうだな。今日はたくさん星が降るんだ」
父親と娘は一緒に部屋の天窓から外の様子を伺っていた。
「それじゃお父さんは用事があるから、いい子にしてるんだよ?」
「はーい」
すっかり夜空に夢中になっている娘の生返事を聞いて、父親は一階下の自室へと戻った。
パタンと扉を閉めてから明かりをつける。
埃っぽい空気の中で棚がひしめき合っている。
棚の上では瓶がこすれ合っている。
「そう、今日はたくさん降るんだ。お父さんが君のために用意したんだよ」
父親は空き瓶の一つにドロリとした黒い粘液を入れ、次に青い溶液を注いだ。
「私の娘のために儚く散ってくれ潜空士」
瓶の底で黒い何かが蠢いた。