4 傀儡の魔王
夜だからか、人気は少ない。何人かとすれ違ったがジルクは顔を伏せる。皆二メートルは超えていて、立派な牙を生やしていた。真っ白なものから、赤く汚れたものまで。大小も様々で、今のところはメルの牙が一番小さい。
しばらくして二人に追いついたジルクは、一つの疑問を口にする。
「なあメル、俺はどうすればいいんだ?」
振り返ったメルの黒い髪がふわっと宙を舞う。
「ジルクさえ構わなければ、今日はボクの家に泊まってもらおうと思ってたんだけど、父さんはそれでも大丈夫?」
「ああ。賑やかになるのは大歓迎だぞ」
「ジルクもそれでいいかな?」
これにはジルクも少し考える必要があった。
メルは、この町の住民は間違いなくヴァンパイアだ。だとすると、俺は今餌として誘導されているのではないのか? いや、彼女の見せた笑顔はどれも本物だった。それにテイスさんもいる。彼を人間だと仮定すると、メルはヴァンパイアと人間のハーフだということになる。つまりハーフヴァンパイアだ。そんな彼女はきっと人間の血を飲んだりはしないだろう。
イナーシャを怒らせてしまった理由もきっとこれだ。人を疑い信用しない。それ故にあの店員さんを見捨ててしまった。
なら、イナーシャと仲直りするためにも、自分自身の成長のためにも、周りの人のためにもみんなを信じるべきだ。
二秒で結論を導き出したジルクは、首を縦に振った。
「うん、助かるよメル」
満面に笑みを浮かべたメルを少しでも疑った自分を殴りたくなったジルクは、その悔しさを笑みに変えてメルに返した。
一体こんな優しい世界の何処に負の感情が溢れているのだろうか。
ジルクの疑問に反応したかの様に右隣を歩くメルの表情が曇る。テイスの歩く方へと顔を向けたメルは、ゆっくりと声を絞り出した。
「それで、父さん、新しい魔王には会えた?」
その言葉を聞き、テイスの顔も曇る。
「ああ。だが、今回のはタチが悪い」
二人の言葉がジルクの頭に響き渡った。
ーー魔王。そいつだ、そいつさえ居なくなれば、アテナはきっと……
厳しい表情のまま、テイスは続ける。
「全力で戦ったが、私には彼女に能力を発動させるのがやっとだった。なんとか《絶対逃走》エスケイプで逃げては来たものの……」
絶望を通り越えたメルは、軽く笑いながら呟く。
「な、なんだよそれ……世界最強の勇者である父さんが勝てない相手なんているはずがーー」
「そう焦るなよメル。私には勝てない。だが……」
疑問を浮かべるメルに対し、テイスはジルクを見つめる。
「一目見て確信した。ジルク、君なら、君の中に宿るその力なら、必ず彼女に勝てる」
さすがのジルクも驚きを隠せず口が半開きになってしまう。
ジルクの中に宿る力。それは、女神アテナに取り付こうとしている邪神から強制的に授けられた禍々しい力のことだ。力を使っても、それ以前に使える技術すら持っていないジルクを一目見ただけで、テイスはそのことを見抜いてしまったのだ。
「ちょ、ちょっと待ってよ父さん、ジルクはゴブリン一匹すら倒せないんだよ? そんな彼に、父さんを上回る力なんて有るはずないよ」
「前から言っているだろ、メル。お前には観る能力が足りないんだよ」
言えば敵視されてしまうと思い口にはしなかったが、相手から言ってきたのなら隠す必要など何処にもない。そう思い、ジルクは半開きの口を一度閉じ、再び開いた。
「どうしてわかったんですか?」
「これでも、世界最強の勇者なんでね」
驚くメルを置いて、二人は会話を弾ませて行く。
「でも俺、力を貰っただけで使い方は全く分からないんです。仮に使えたとしても、周りの人間を殺してしまうかもしれないですし」
ジルクの不安を受け止め、テイスはニシリと口を吊り上げる。
「要するに、だ。使い方を学んで、制御出来ればいいのだろう?」
「まあ、そうなりますね」
「なら、私がお前を鍛えてやる。嫌とは言わせないぞ。何せ、魔王を倒せるのはお前しかいないからな」
落ち着きを取り戻したメルが、口を挟む。
「でもジルク、君にも帰らなきゃいけない家があるだろう? 本気で魔王を倒すとなると、ずっとここで父さんと修行しないとだけど……いいのかい?」
地球にいた時の記憶が一部ジルクの視界を埋めた。楽しい思い出にたどり着く前に、どうしてもイナーシャの死と情けない自分の姿が浮かぶ。
ジルクは涙を隠す様に手で拭い、吐き出す息に溶けてしまうほど小さな声を出した。
「ああ。俺の帰る場所は、この世界にはないからな」
松明の光が、メルの俯いた顔をそっと照らす。
「ごめんジルク、そうとは知らずに……」
「いや、気にするな! そんな顔してたら、美人が台無しだぞ」
メルは可愛げに照れてから、
「うぅぅ」
と息を漏らす。
「じゃ、これからはここがお前の帰る場所だ」
顔を上げると、そこにはコンクリートで出来た一軒の家があった。中から漂う美味しそうな香りがジルクの空腹を刺激する。
見ず知らずの人間をこんなに快く迎えてくれたメルとテイス。その恩を返し、みんなを守るためにジルクは魔王を倒すと心に決めた。
「ちなみにその魔王の名はなんと言うのですか?」
この世界の常識を訪ねるジルクの質問に、メルは困惑する。
新たに魔王の座に降臨してから僅か一週間で魔物の大軍を率いて王都を火の海に変え、向かった討伐隊から帰ってきた物はそれぞれの生首のみ。そんな厄災の名前を知らない人間がいるなど、彼女には考えられなかった。
「ジルク知らないの!? まさか、記憶喪失ってやつ?」
本気で心配そうな顔をするメルに、ジルクは首を横に振る。
「いや、違うと思う……」
ドアを開く甲高い音が三人を襲う。
「まあいいではないかメル。厄災とは無縁の人間も少しはいるからな」
湿った空気を腹一杯に吸い込むと、彼はその名を口にした。
「焼かれる子ども達を無表情で眺める凍てついた心。そしてその人形の様な美貌から、人々は彼女の事をこう呼んだ。『《傀儡の魔王》イナーシャ』と」
何度も頭の中に反響し、邪神への深い憎しみがジルクの心に芽生えた。
善にしろ悪にしろ、女神アテナはイナーシャがこの世界へ行く事を望んだと言っていた。
それでもイナーシャが自ら魔王になることなど望むはずがない。心を落ち着かせるため、ジルクは自分にそう言い聞かせた。
「……くっ」
合わせた歯の隙間から怒りが漏れる。
最愛の人の名前。ジルクが探し求める人の名前。それでも、今だけは聞きたくなかった名前に、彼は音が鳴るほど強く奥歯を噛み締めた。