9 災厄
テイスの声が山頂の辺りから降り注ぎ、メルは反射的に視線を向けた。
すぐ近くの滝は収まることを知らないでメルの耳を五年間も打ち付けていた。その聞き慣れた音とは別の、異質な音がテイスの声に続いて降り注ぐ。視界に入ったのは残酷なまでに黒いオーラ。次第に膨れ上がり、そして主人の元へと帰っていく。
「あれが……ジルクの………」
オーラの異様な質感に全身が強張ってしまい、簡単には動けそうにない。しかしメルは世界最強の勇者の娘だ。深呼吸の一つで筋肉をほぐし、すぐに体を落ち着かせる。
「父さん、頑張って」
そう呟き、風が言葉を運んでくれることを祈る。片手を山奥に翳すと、一筋の突風がメルの髪を靡かせた。
冬風とは別の、心を凍てつかせる冷たさを含んだ風。形を変えて押し寄せてくるプレッシャーは瞬く間にメルを包み込んだ。
山頂から届く木々の倒れる轟音とは違い、完全なる無音。その無音さ故に、凍てつくような怒りと悲しみが直接メルの全身に襲いかかってくる。テイスの暑苦しいプレッシャーとは真逆の、冷酷なプレッシャー。
「「頼む、やめてくれ、やめ……うわあああ!」」
その絶叫は漣のように次々と放たれるが、どれもメルに届いた直後に消滅してしまう。
「何が起きてーー」
メルの問いに答えようと、一秒でも早く助けを求めようと彼女の元へやってきたのは、極微かな匂いだった。息がつまり、体中の酸素が奪われたかのようにぐったりとする匂いが白い靄とともに山を登ってきている。
「煙ッ!?」
その言葉を置き去りに、メルは全速力で駆け下りていた。
ーー冷酷なプレッシャー、煙。まさかあいつが、いやでもこんな辺境の小さな村に来るはずなんて!
冬の寒さとプレッシャーが相まって、手足が痺れ始めている。段々息が荒くなり、自分の息と煙の区別がつかなくなった時、メルの張り上げた両目はついに村を捉えた。
「見えた……ッ!」
元々活気溢れる村とは決して言えないような落ち着いた村は、怖気付いた男達の悲鳴と勇敢な男達の雄叫びで溢れかえっていた。血と炎の赤。勇敢な男たちの持つ銀色の武器。その矛先は二百を超える緑に向けられていた。
有り余る筋肉から飛び出そうとする血管。革の防具に軽く纏われた緑の肌。高く構えられた大剣は次第に回転を始め、勢いを増していく。
「ゴブリン!? あんな数、一体どこから」
さらにスピードを上げるメルは、視界の端に微かな光を捉えた。
真っ白に輝く銀色の光。全身がビリっと痺れて地面に顔を打ち付けるが、すぐさま立ち上がる。
「くそっ、翼があれば一瞬で届くのに……!」
ヴァンパイアの中でも翼が生えるのは女性だけだ。生まれた時からある訳ではなく、十六歳になった日に突然生えてくる。なぜかはわからないが、今考えても仕方のないことだ。
これほどまでにメルが自分の十五という年齢を恨んだことはなかった。
「速く、速く、速く速く」
祈り気味に言葉を放ちながら、光の方向を見つめる。それは希望の光か、それともーー
光源となっていたのは、ゴブリンから数メートル離れたところに佇む一人の女性の輝くような銀髪だった。肩まで伸びたそれは、黒い髪留めのおかげでより輝いて見える。黄金の右目と深海の左目は一切の感情を持たず、ただ焼かれる村人を眺めていた。人形のような美貌と、鎧の上からでもわかるほどの美しい体。厄災として浸透しつつあるその姿は、しかし見惚れるほど美しい。
「《傀儡の魔王》………なんでこんな……こんなの……ボク達が何したって言うんだよぉっ!?」
渾身の叫びは山奥に響き渡って、直ぐに上から悲鳴が被さる。
「「「ウラアアアアア」」」
互いに発破を掛け合うような雄叫びの直後、二百を超えるゴブリンの手から大剣が勢いよく飛んだ。風を切る轟音が悲鳴を上回った直後、三十ほどしか残っていないヴァンパイアの体を銀色に輝く大剣が串刺しにした。
果物屋のおじさんが、仲のいい友達が、雰囲気の悪かった青年が、一瞬で肉塊へとその姿を変える。
「……やめて、いやぁ、もう、ダメだよ……こんな無慈悲で、残酷な……っ」
転げながらもメルは村の土に足を入れた。
腕だけとなった村人の手から短刀を奪い、それを勢いよく自分の左腕に突き立てる。
「うああああっ!」
大量の鮮血が漏れ出して、赤い地面を更に赤く染めた。
《傀儡の魔王》は肉塊となった村人から目を離すと、表情一つ変えずにメルを眺める。
男たちが残ったということは、村の女性や子どもたちは逃げ出したのだ。炎の広がり具合からして、今頃は山を下りきっているだろう。
世界最強の勇者であるテイスが勝てないような相手だ。そのテイスを相手に手も足も出ないメルが勝てる可能性など万に一つすら無い。
それでも、生き延びた村人達が安全なところまでたどり着くにはまだ時間が足りない。最低でも五分、いや三分は時間を稼がなければパレロの村の住人は一人残らず殺される。もちろんメルとテイスを含めて。
二百のゴブリン達がメルに視線を移すまでの一瞬で考えた事を脳裏に焼き付ける。身体中を締め付けてくるゴブリンの欲望を血まみれの短剣で斬り殺す。座り込んだまま下から上へと移動させた短剣を両手で握りしめ、地面へと突き立てる。
「『オーバーフローーーッ!』」
左腕の痛々しい傷の存在を感じさせないメルの叫び声に反応したのか、短剣を中心として、蜘蛛の巣のように伸びる複雑な亀裂が走った。次第に地の底から純白の光が噴き出す。大地が敵を囲むように裂けて、次々と光が上がる。
その光を欲望の対象に値すると判断したのか、十体のゴブリンが踊りながら光の中へと飛び込んでいった。
瞬間、十個の命が儚く風に飛ばされた。
メルの殺意が元となって出来た光は、彼女の意を全うすべく、即死の力を手に入れたのだ。
もしもメルがみんなの傷を治したいという善意を込めて『オーバーフロー』を発動させていたら、触れたものの傷を一瞬にして完治させただろう。
そんなメルのスキルでも、死者蘇生は不可能だ。それは神だけに許された禁忌であり、最強の力でもある。今この世界でそれを使えるのは、神の力を手にした男ただ一人。
消えた同胞の命に驚く暇もなく、残りのゴブリン達も光に包まれた。
世界が純白に染まり、十、二十、三十と、一瞬にして命が消えていく。
その罪の重さには見合わないほど楽に死んでいくゴブリン。煌めく粒子がちらつかせる命の光を、メルはただ睨み続けた。
ーーせめて死後の世界で苦しんでよ。
最後のゴブリンを呑み込んだ光は、メルの前方に集まり、一メートルほどの槍へと形を変えた。光が強まるにつれて、刃の鋭さも増していく。限界まで凝縮された槍の刃先はテイスさえ殺せてしまうほどの威力を秘めているだろう。
有らん限りの殺気を光の槍へ流し込む。男達が残した殺気まで吸収した槍はついに限界を超え、漆黒の槍へと変わる。
グングニルとでも呼ぶべきその槍の矛先は、当然、残る最後の敵、《傀儡の魔王》イナーシャに向けられていた。
ブクマ感想評価レビューお願いします