脱走
落ち着いてる。怒りの感情は感じない。夜の闇のなかに蝋燭の明かりだけが照っている。猪飼慈雲は目を瞑り、何かを悟るような顔をして、座布団の上に胡座をかいていた。着物は名家の任官の代物とは思えない安い寝間着である。お休みになる予定だったのだろうか。
「茶でも飲むか」
「あっ、ご用意します!」
「せんでいい」
脈略が読めない面持ちに、絵之木実松もどういった顔をすればいいのか分からなくなっていた。取り敢えず、殺意は感じられない。でも、別の勘定も読み取れない。
「はよ、座れ。そこの座布団に。話があると言うておろう」
実松はそそくさと正座をした。猪飼慈雲がご機嫌伺いのような仕草を嫌がっているのを、何と無く感じ取れた。
「奴は逃げたか」
「女房ですか」
お前は打ち首だ、腹を切れ。その言葉が来るとばかり思っていた。目を力一杯つぶって歯を噛みしめる。涙を堪えて全身で震える。
しかし、猪飼慈雲はそんな姿を見ても、態度を変えなかった。
「申し訳ありません。私は……」
「滋賀栄助の脱走か。構わん、百鬼討伐に動いてくれておるのだろう。面をあげよ」
許された、いや、神経質になって勝手にふるえていただけだ。猪飼慈雲は何とも思っていなかったんだ。絵之木実松は栄助の顔が思い出されて泣きそうになった。
「奴がいないのは好都合かもしれないな」
「といいますと」
「貴様を呼んだのは、他でもない。滋賀栄助に関して一番身近にいる貴様の意見が聞きたかったからでごわす」
猪飼慈雲はため息をついた。そして、天を仰ぐようにして話し始めた。
「滋賀栄助。わけの分からぬ奴よ。貴様、あいつが何者なのか知っておるのか」
自分の知っている情報なら調査書に全て書いてあるはずである。慈雲様がそれを一読されていない訳がない。なぜそんな質問をするのか、実松には分からなかった。
あ性格は男勝りで好戦的、そのくせ少食。出会った時に暴神立と百鬼閻魔帳を所持していた。実家は剣術の名家で貴族の娘である。自身は剣の腕はない。唯一百鬼を倒せる人間であり、だから百鬼から露骨に狙われている。
報告書はちゃんと情報を網羅しているはずた。ある一点の内容だけ除いて。
「報告書に書いてあることが全てなのですが、一点のみお伝え出来てないことが」
「なんじゃ」
「彼女は幽霊です」
正直に話した後に後悔した。これを聞いた慈雲は栄助のことをどう思うだろうか。既に栄助のことを百鬼の潜入員として疑っている、そんな仮説が絵之木実松の中で生まれた。
栄助を守らなくては。
「………にわかには信じられんな。陰陽師であれば、人間と死体と魂の区別くらい付くはずだ。まして、誰にも気付かれないとは」
「私は彼女が嘘をついていると思います。彼女が死んでいるなんて」
「ふん。貴様の顔はそう言っていない」
嘘は言っていない。彼女が幽霊である証拠など、何もないのだから。だが、彼女が自分を幽霊なんだと嘯く理由がどこにもないのも事実だ。
「あの、彼女を疑っていますか?」
「違う。そうじゃない。ワシは彼女の後ろで糸を引いている人間がいると思っている」




