辞典
そう思ったら行動していた。栄助に向かって走っていた。
が、間に合わなかった。堤防は瓦解してそのまま栄助は滝の下へ落ちていった。大鼠に刀を奪われたまま。次の瞬間に大鼠は絵之木実松に向かって突進していた。
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「風邪ひいた」
「でしょうね」
二人して滞在している奉行所へ行き、毛布に包まって震えていた。華麗なる惨敗だ。もう目も当てられない。カウンターを喰らって押し出された挙句、何も出来なかった栄助と、それ以上に何の役にも立たなかった実松。前回の戦いに引き続き、またも愛刀を無くすとは、栄助さんには是非深く反省してほしい。
「あのクソ鼠。今度こそ叩き潰してやる!」
「そのための刀はないんですけどね」
やはり悪鬼に対して頭数二人で戦うというのは無理があるのだと思った。複数で囲み、結界で動けなくし、勝つべくして勝つ。準備し過ぎなほど準備をして挑むのが陰陽師だ。しかし、滋賀栄助は陰陽師ではない、自称剣士だ。だから、卑怯な手や姑息な手を使うという頭にはならない。
「で? 反省会しましょうよ。どういうつもりで突進して行ったんですか?」
「私ほどの美人が姿を現せば、すぐに駆け寄ってきて頭を垂れるかなって。そこをザクっと」
うん。確かに可愛いよ。でもそれは人間基準であって、あの鼠が可愛いと思ってくれるかどうかは別問題だ。江戸時代の可愛さの定義は色白で豊かで美しい黒髪、ふっくらとした丸顔の女性。また、若ければ若い方が魅了的という風潮。
「なんだよ、その顔は」
「あの鼠はどんな女性を可愛いと思うんでしょうね。実のところ、鼠による森林伐採の被害報告しか受けてなくって、美人を襲ったとか、そういう情報はまだ入っていないんですよね」
奴は人間に手を出していない。栄助や実松だって、もっと奴が真剣に戦っていれば殺されたと思う。それを初めは逃げるだけで、反撃しても命までは奪わなかった。百物語の中では人も殺しているのだが。
「あの大鼠にとっても何かしらの環境の変化が起きているんだ。って、栄助さん?」
「ん?」
栄助は武器を失ったことに動揺する様子もなく、平然としている。それどころか、自分よりも怪力の相手に遭遇したことに喜びすら感じているように思える。毛布を放り捨て両腕を伸ばして準備運動をしていた。
「呑気だなぁ。羨ましいよ」
そう言いつつも、とある本に手を伸ばす。生き物辞典だ。陰陽師としては必要のない代物だが、今回は話が別だ。伝承が伝わっていない妖怪である以上は、モチーフの元となった生物が何かを特定するしかない。日本に生息する生物で、あんな生き物はいないと思うのだが。この百物語の作者だって恐らく人間だ。人間は自分の経験からしか書物をかけない。
「妖怪も人間から生まれている。何かしらあるはずなんだ、あの動物が何なのか、それを知るヒントが」




