化粧
いとも簡単に逃げられた、ことよりも、全く抗戦する様子がなかったことに驚いた。心なしか奴は動揺していたように感じる。まるで異界の地に足を踏み入れて慌てふためくように。
「ふむ、やっぱり鼠じゃないな。作者が鼠をモチーフにした妖怪なら、あんなに足が遅くないはず」
「はい。人間の脚力では難しいでしょうが、結界を張り巡らせて」
「袋の鼠にするんでしょ。いいと思うよ。じゃあ結界張ったら呼んでね、ここからは別行動ってことで」
獲物がいなくなって興味を失ったのか、滋賀栄助は大欠伸をして目に涙を溜めると、腕でゴシゴシしてそのまま立ち去ろうとしていた。
「ちょっと待ってください。そんな急に! 栄助さんはどうするんですか」
「え、化粧する」
★
確かにあの海狸鼠は美人を狙って動くと『百物語』には書いてあった。だからといって、あの男なんだが、女なんだか分からない中性的な顔立ちで、頭は丁髷にしている、暴力女にあの妖怪が引き付けられるとは到底思えない。この前、奉行所で寝そべっていた時に、腹筋が6つに分かれているの見ちゃったんだぞ。少なくとも、可愛らしい女の子のイメージは全くわかないよ。
って思わせておいて、あれだろ。実は可愛いって寸法だろ。絵之木実松は一人気にニヤニヤと笑っていた。もしかしたら可愛いかもしれない。本気を出したら美人なのではないか。下心が顔に思いっきり出ていた。
鼠の出現地域は目撃情報ですべて把握している。狭い通路となりえる場所に結界を張った。あとは栄助に剣を振り回してもらって、どこかに追い詰めるだけである。幸い大鼠自体も簡単に発見できる。図体が大きいのも理由なのだが。
「あれは何をやっているんだ」
百物語に書いてあった通り、奴は川を拠点としていた。が、奇妙な点がいくつも存在する。
「これは、あの妖怪が噛み千切ったのか」
川沿い周辺にある木々が、あの強力な前歯で削られている。噛み千切られた跡がはっきり残っている。そして得た木々をあの妖怪はせっせと川へ運んでいるのだ。目的はすぐに察しがついた。
「川の水を塞き止めようとしているんだ」
木々を川に横断する形で並べている。決して丁寧に並べているとは言えないが、それでも水嵩は上がっている。そして、次にあの妖怪がやっていることは、ダムの中心部分に木々を集めているのだ。
「巣作りか。あそこに人間を誘い込む気なのかな」
目を見張るスピードである。瞬く間に超大型の木で出来たドームを完成させてしまった。そして、その巣に立てこもっている。誰かに見張られていることを察知して、籠城戦でも仕掛けているのだろうか。いや、こちらの様子に気が付いている素振りはなかった。




