泡影
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柵野栄助は彼の元を去った。自分はこれから周防へ向かう必要があるが、彼はついてこなかった。あの気弱で無力で貧弱な人間に愛されていると思っていた。夫婦だと思っていた。だから彼を命がけで守り続けた。彼もずっと応援してくれた。ずっと傍にいてくれると約束してくれた。
それなのに、姿かたちが変形したくらいで捨てられた。それはもう拒絶された。忌み嫌われた。まるで化け物を指さすような眼差しで、苦い物を口に入れるような顔をされた。抵抗も虚しく彼は私を置いて逃げ去った。後を追おうと少し歩いたが、そんな気持ちも何処かへ飛んでしまった。
彼は結局は私のことを愛していなかったのだろう。そして私も動揺だ。私も彼のことを愛してなどいなかった。誰かを愛する自分が好き、それだけだった。夢幻泡影とでも表現しようか。
絶望が……足らない。もっと…もっと…。世界は崩壊する寸前だ。
両目から涙が漏れる。嗚咽、眩暈、錯乱して発狂。下唇をへの字に曲げて、頭を掻きむしる。気持ちが落ち着かない。胸が痛くないのに、まるで鉄球でも忍ばせているように思い。いつの間にか着ている服が、真っ黒な着物から白い服に変わった。涙が血に変わる。
「私は偶像、私は架空、私は空想、私は夢想、私は想像、私は妄想、私は幻想、私はマヤカシ、私は在りもしない存在、私は物語の世界の住人、私は……悪霊だ」
理解不能、意味不明にして寡二少双。唯一無二にして天空海濶。柵野栄助という悪霊はこうして生まれた。この瞬間に人類を絶望に叩き落すレベル3の悪霊は誕生したのだ。
ここから先の物語は全て……ただの敗戦処理のようなものだが、取り合えず記しておく。
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「で? 何でこの世界って1年間がずっとループしているんですか?」
「よくあるだろ。長寿番組にありがちな設定だよ。アニメの世界で季節感や登場人物の年齢がループする……みたいな? いつまでも小学校を卒業しなかったり、登場人物の誰も死ななかったり」
「じゃあ、この世界の全てが……物語の世界だったってこと? 江戸時代も、滋賀栄助も、百鬼の存在も嘘っぱちだったってこと?」
「いいや。そうじゃない。誰かがこの世界を『物語の世界』に変えたのさ。元の時間軸から脱出させて、世界そのものを空想に入れ替えたんだよ。言っただろ? 端末箱庭ってさ」
「誰がそんなことを……この機械人形も誰が運んで来たんでしょうか」
「さぁ。まあ、この世界に親方様がいないのも問題だよね」
大阪城の天守閣に残った水上几帳と土御門芥。何もかもを知っていた彼らは、柵野栄助を戦地へ送り出した後に、そんな間の抜けた会話をしていた。自分たちの真上には空気中から妖力を吸い上げる怪鳥が存在する。自分たちの死期を悟っている。




