前髪
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食事と水だけは与えられた。叫ぼうとするだけで腹部を蹴られたので抵抗はやめた。雑な仕事である。まあ誘拐に手馴れている人間など、この世界に何人いるのか知らないが。少なくとも書籍で読んだような用意周到な作戦ではないのだろう。
焦りが垣間見える。奴は何かを手に入れようと血眼になっている。何やら騒いでいた時の言葉を思い出した。不老不死だの世界征服だの宇宙覇者だの、そんな言葉を連呼していた気がする。怒声と喚き声と愉悦を体現した高笑い。病院で狂った患者を診続けていたから分かる。狂った人間だ。
奴の怒声は徐々に勢いを増していた。身体が真っ赤になるほど蹴飛ばされた。その度に反撃せず、反論せず、溜息を零す。どうやら予定通りに事が運んでいないらしい。私に世界を変える力など無かったのか。それとも……。
程なくして政治家は殺された。死体が目の前に転がる。先ほどは血眼と表現したが、今度はその目から血涙が流れ出していた。横取り、漁夫の利、裏切り行為。笑えるほどあっさりとコイツは私を失った。殺したのはヒーローではない。コイツは……新たな誘拐犯だ。
「ここに監禁されていたのか。探したよ」
「いや、何日経ったとか知らないし」
俳優だ。特撮ドラマの主人公を演じていた大物演者。随分と手際よく人を殺すものだ。呆れて声も出ない。死体は程なくして世界から消えた。まるで透明になるように、爪先から薄くなった。飛び散った鮮血も、折れた歯も消えた。
「君のお爺様は僕の願いを叶えてくれなかった。君が叶えてくれるのかな」
「お前の願いってなんだよ」
「本物の正義の味方になりたいんだ。弱い人々を助けて、強い奴らをぶん殴りたいんだ」
コイツも三歳児だ。あの小説家もそうだったが、大物政治家も本当に三歳児としか表現できないくらい、自分の欲望に忠実で一直線で迷いがない。それでいて、他人の不利益など一切気にしていない。人間なんてあらゆる柵から解き放たれれば全員こんなものか。
「やればいいじゃん。私は止めないよ」
「お前にも協力して貰うぞ」
「小学校低学年かつ誘拐されて衰弱している全身傷だらけの女の子に何を求めているの?」
「革命だ。お前は世界を変えられる」
革命、あぁコイツもジャンヌダルクの生まれ変わりなんて、面白くない冗談を言うのか。これで何度目の溜息だろう。どうやら両手に痛いくらい巻き付けられている紐は、解いてくれないらしい。大物俳優が少女誘拐とは恐れ入る。強く前髪を引っ張られて倉庫を後にした。
「俺は世界を救う英雄になる。これで我が悲願がかなうぞ」
「恥ずかしくないのかよ。今の絵をよく見てみろよ」
「俺は誘拐された女の子を救ったのだが?」
「なら、この腕に巻き付いているのを取ってくれよ。病院に送り届けてくれよ」
「今から生贄になるお前にそんな処置は必要ない」
「ほら、ほら。英雄じゃないって」




