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王冠

 鮎川小次郎はとても華奢な男だった。非力で脆弱で生まれつき身体が弱かった。戦後の高度経済成長期の真っ只中。誰もが社会の未来に不安を感じていなかった。だが、彼は時代の流れになど無関係だった。あくまでも自分が好きなことをトコトン追究していたまで。


 「君は神様の声が聞こえるのかい?」


 「そんなものは聞こえないよ。私は……その……見えてはいけないものが見えるんだ」


 女の子は苦しそうだった。悩まし気な表情とでも表現すべきか。首を傾けて項垂れる。


 「凄いなぁ。霊感って言うのかな。僕はこんな仕事をしているのに、ちっともそういう経験をしたことがないんだ」


 いや、この男が阿保みたいに鈍感なだけである。周囲の人間が怪奇現象を感じ取れるほど、こいつは末期症状だ。自分のことにしか興味がないのだ。この小説にもそれが表れている。読者が喜ぶものとか、読みたいものとか、そういう配慮が一切ない。ただ自分の自己満足だけに、湯水の如く時間を費やしている。正気の沙汰じゃない。プロ根性がまるでない。


 「お寺とか……その、お祓いをして貰った方がいいんじゃないかな……」


 「僕なんかどうでもいいんだ! それよりも君はどんな物が見えるんだい?」


 いや、自分にも興味がないのか。今から自分が筆を落とす、その紙面にしか興味がない。自分の妄想を物語にすることに全身全霊を込めている。それ以外が何も見えていない。


 「そんなこと言えない。私は……別に何もしてないから」


 「うーん。じゃあ今は何が見えている? この世ならざる物って意味で」


 「……騎士。骸骨の姿をしている。白馬に乗って、手に弓を持っている。頭には王冠が見えるぞ」


 その言葉を聞いた瞬間に鮎川は飛び上がるように喜んだ。年甲斐もなく手を叩いて、三歳児が如く喜んだ。椅子から立ち上がって、無意味にその場を三回転くらいする。


 「僕の小説通りだ! 僕の小説が現実になっているんだ!」


 確かに小学生の少女がヨハネの黙示録の一説を答え切ったことは、偶然ではない。目の前にいた悪霊が姿を変えたのだ。変身などお手の物。わずか数秒でその姿を変形したのだ。鮎川には見えていない、薬袋的には見えている。


 「僕に何か伝えていることはないかな……」


 「お前に会いたいってさ」


 「そりゃあ僕だって会いたいよ!」


 「おい。冗談でもそういう事を言うもんじゃないぜ」


 薬袋的は唖然とした。悪霊とは無関係な一般人を気まぐれで助けてやろうと声をかけたのに、その男は全く助かろうとしていないどころか、自分から死に向かって全力疾走しているのだから。俗に言う救いようがない状態。


 「もう二度とお前の前に現れないように言っておいたから……」


 薬袋的の前から悪霊は消えていく。言うことに従ったかのように。諦めたように……。

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