江戸
この江戸時代に滋賀栄助という名前を持って生まれてきた。そこそこ名門の武家の家系で、そこそこの身分と地位を有し、何不自由なく育った。だが周りには不自由な思いをして生きている人間ばかりだった。
戦国時代が終わった今とて、身分の違いは明確にある。道を歩くだけで自分より汚い服を着た連中に頭を下げられる。数年生きてきたが意味が全く分からない。また自分の子供を捨てる親の気持ちも分からなかった。川の辺で死んでいる子供の姿を見て、目を細める日々である。
だが、私は時代の変革期に生まれてきたのかもしれないと思う。この世に『殺傷を慎め』という御布令が出回っているのだ。今まで身近であった死の概念が遠のいていくのを、少しずつ感じ始めていた。
今回はそんな過去のお話。
悪鬼羅刹。そんな言葉がある。類義語として、異類異形、怨霊怪異、怪力乱神、牛頭馬頭、狐狸妖怪、山精木魅、魑魅魍魎、妖怪変化なんてものもある。
江戸には化け物が住み着いている。今の時代からではない。いつの時代にも存在した。『化け物』というのは比喩表現ではなく、本物の怪物のことである。足が早く、力が強く、人を騙し、悪事を働き、人を喰らう化け物。悪鬼と呼ばれる存在だ。この江戸は戦国時代にはただの平野であった。故に妖怪はさほど寄り付かなかったのだが、人が移り住むことによって多くの妖怪が此処を訪れるようになった。
妖怪は人がいなければ生きられない。人に噂されてこそ妖怪である。悪鬼にしたって人を喰らうから悪鬼である。つまり、民衆が動けば、奴らも住処を変えるのだ。薄暗い夜道、騒ぐ虫の音。月明かりを隠す建物の裏。奴らにとっては格好の餌場であっただろう。
これらを撃退する『陰陽師』なる存在もいるのだが、如何せん腰が重い連中だ。使命感よりも地位や名誉を優先し、京よりお出でなさろうとはしない。悪鬼の数に対して陰陽師の数は圧倒的に少ない。
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「俺は猫は好きだけど犬は嫌いなんだよ」
髪結所。江戸中から情報が集まる場所だ。江戸っ子が世間話に花を咲かせる格好の場。滋賀栄助はそこにいた。女性ならばもっと由緒正しいお店に入るべきなのだろうが、髪型になど興味はないので古びた一銭剃の店に入っている。江戸の女性には髪結いは至極楽しいお洒落なのだろうが、どうも興味がわかない。
「どうして? 犬は主に忠実よ。躾ければちゃんと言うことをきくお利口さん」
「だから嫌いなんだよ。人の下につくことで強かに生きているコイツらが。ドブネズミと何も変わらねーよ、コイツらの生き方」
「相変わらずのヒネクレ者ね」
生類憐れみの令だったか。自分の食う分の食料を、今まで謙っていた相手に差し出すなど、言語道断としか言い様がない。将軍様が丙戌年生まれだから? はぁ? 馬鹿じゃないの?
滋賀栄助は中性的な顔立ち。外見だけ見れば性別が判別できない。いや、生物学上から言うと女性なのだが、その男勝りな口調と、侍らしい格好と、縛り上げた髪を立て、次第に縛った髪を折り畳んで頭頂部に乗せているので、いまいち女性な気がしない。両親から武士として育てられたとか、跡取りとしての宿命を背負っているとか、そんな深い理由はなくただ髪を曲げている。髷だけに。
「女の子らしく結ってあげるのに……」
「駄目だ。男らしく結ってくれ」
「女の子は可愛らしくしなきゃ駄目よ。本当は女の子なんだから!」
「お前はもっと男らしい口調をしやがれ! 男なんだから! あと、素性をそのへんの奴に話すなよ」
江戸時代初期、武士の多かった江戸の町では圧倒的に男性が多く、男と女の比率は2:1。女性は引く手あまたの貴重な存在。 江戸の女性は気高く、風流や雅を理解し、人の機微に敏感で、男性の誘いを無下に断らず、恋愛の趣や情事を楽しむ。そんな時代。
「つけ文とか頂かないの? お見合い話とかは?」
「あぁ。あるけど、結婚とか俺にはむり。1回だけ世話人に連れられて家に行ったけど、刀を素振りしていたら興冷めされた」
「なんで女が刀を振り回すのよ……。じゃあお祭りとか」
江戸時代には快楽が増えたものだ。芝居小屋や歌舞伎が栄えた時代である。
「お尻触られると切り殺したくなる」
「銭湯は……」
「混浴とか死んでもいや」
「相変わらずね…………」
実際は武家の娘なので自由恋愛は出来ない。例え本人達がどんなに愛し合っても、家の為にならないとなれば結ばれる事はない。結婚するにも幕府からの許可が必要だ。
「祭りかぁ。そんな時期か……。夏はもうすぐか……」
この時期は本当に恐ろしい。お天道様が沈むのが早くなる季節だ。闇が覆う時間帯が増える。
「早いとこ結ってもらえないかな。お勤めに向かわなきゃ」
「また武士に混じって仕事をするの……いい加減にしなさいよね」
「別に犬に餌をあげない農民を罰する仕事をしにいくわけじゃないよ。むしろ連中を守りにいくのさ」
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