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花占い

作者: 龍威 啓人

 不況のご時世、20代、まさかリストラはされまいと思っていたが、会社そのものが潰れてしまっては元も子もない。再就職口を探さなくてはとも思うのだが、ここはとりあえず、人生の休息とでも称して、日々、太公望(たいこうぼう)を決め込むことにした。

 俺の住むアパートのすぐ近くに、山瀬川という川幅が30メートル程もあるなかなかに大きな川がある。水量豊かで、流れ緩やか。水はさほど濁ってはなく、魚もそこそこにいた。

 初夏の晴れた空の下、俺は白いプリントティシャツに紺のジャージ、サンダルを引っかけ、手に竿を、口に煙草を吹かしつつ、川の流れを見ながら、雑草の絨毯となっている土手を足の進むままに降りていった。

 河原は石の墓場。ゴツゴツと恨めしげに俺の足を取り、時たま足を捻ってバランスを崩すが、そう簡単に捕まってなるものかと俺は巧みに歩いていく。俺を捕らえられなかった石が忘れた頃に、ゴトッ、と崩れるのが笑いの種だ。

 川岸に辿り着くと、俺はいつものポイントに腰を下ろした。ちょうど形のいい石があり、それが椅子代わりとなる。

 竿を置き、煙草の煙をくゆらす。

「はぁ、いい天気だなぁ」

 そんな年寄りめいた言葉が出てしまう程、閑散とした河原は長閑かであった。

 まず風がいい。草を掃き、水面(みなも)を跳ね、静々と漂い来ては、俺の首へ、肩へ、腰へ、温かみある柔らかな腕を回し、頬に軽い口付けをする。慈愛深き女神のような。それに俺が甘えようとして目を閉じ、身を任せると、微笑みながら去っていく。包まれた安らぎが俺を満たす。

 水の流れる音もいい。耳の奥底に滴るような独唱があると思えば、それはやがて合唱となり、体全体をもって感じようとすれば、大いなる自然の叫びとなった。だが、それはけして悲壮なものではなく、内に秘めたる雄々しき叫び。その力強さたるや。

 そしてなによりも景色がいい。街外れであるから、緑の姿が限りなく多い。連なる緑山は臥龍(がりゅう)の姿。雲なき蒼天は限りなき可能性。いつしか目を覚まし龍は大望を胸に秘め、咆哮一つ、昇天するであろう。

 俺もそうありたいものだ……。

 志高きはいいが、釣の方はまったくだった。太公望のように針を付けていない訳ではなく、本気で釣り上げようつもりなのだが……。けれど、これもまたいいではないか。この静かな間が素晴らしいのだ。

 やがて太陽が南の空山を登りきった。熱した眼で景色を楽しんでいる。

 俺は昼飯を持参してこなかったが、朝食自体が遅かったので、腹の虫もまだ眠りこけていると見えて一向に騒ごうとしない。それをいい事に、俺はもう少しこの雰囲気を味わっていたく、竿先で空に弧を描いた。

 と、さっきから俺には魚の動き以外に気になっている事が一つある。俺の左手20メートル程先に、背の高い雑草が群生している場所があるのだが、そこに女性の姿があった。草に見え隠れするには、俺と同じように座り込んで、手元で何か作業をしているらしい。何か?といえば、そこまで確認することはこの場所からでは無理であったが、釣りをしているというのではないらしい。熱心に手元を見続けている。

 果たして、いつからそこにいたのであろうか?

 距離もあり、あまり俺の視力がよくないこともあって判然とはしないのだが、その女性は実にラフな格好で、黒のノースリーブに紺のジーンズ、ウエーブがかった黒髪を腰まで伸ばし、水面に反射した太陽の光に照らし出された横顔は、白く、非常に整ったものに見えた。歳は20前後といったところだろう。

 俺はその女性の事が随分と気になった。こんな平日の昼日中、何をしているのだろうという好奇心もあったが、それよりも、なんだか彼女がとても悲しげに見えたからだ。顔をはっきり見た訳ではないからなんともいえないが、背中が、その雰囲気が、とても切なく見えた。失恋でもしたのだろうか。いつしか俺の頭の中には、数々の憶測が飛び交った。

 けれど、彼女に声をかける気までは起きなかった。

 ちょうど14時ぐらいであろうか。ようやくお目覚めになった腹の虫が騒ぎ出し、俺は引き上げることにした。相変わらず女性はその場に膝を抱え手元で何かやっていたが、俺は気になりつつも河原を去った。


 次の日、俺はまたいつもの石の上に座った。昨日の女性の事は至極心の中に残ってはいたが、よもや2日続けては来るまいと高をくくっていた。

 ところが、やはり昼を過ぎた頃か、昨日の女性は昨日と同じ場所に座り、昨日と同じように膝を抱え、熱心に手元で何かの作業を繰り返していた。はて?俺はようやく訝しんだ。

 今日も晴れてはいたがだいぶ雲が多く、時々流れ来た雲が太陽を飲み込んでは、景色をモノクロにした。

 俺は釣り糸を垂れた。けれども、どうも川の流れに浮き沈みする浮きのように気持ちは落ち着かなかった。さらには、女性が少しも余所見をしないのをいいことに、浮きの姿は流れるまま、首を左に回し、ただ女性の姿を見詰めていた。

 どうもいけない。これでは遊んでくれている魚にも悪い。俺はちょっと考え込むと、今日は引き上げることにした。

 ただ、このまま帰っては、このそわそわした気持ちは簡単に収まってくれないだろう。気になる。こうなると人間の心は興味あるものを知らずにはいられないようだ。ならば手っ取り早く本人に確認してしまうのが一番だろう。俺は帰り支度、といっても釣竿ぐらいなものだが、を整えると、まっすぐ女性の元へ歩み寄った。

 彼女は俺の膝上もある雑草、そして小さな白い花が生い茂るただ中に、ぽつねんと座りこけていた。気付いていないのか、それとも気付かない振りをしているのか、彼女は俺が近付いても期待したような反応をしてはくれなかった。ただ、手に花を持っていた。周りに咲いている小さな、数枚の白い花びらを開いた花だ。名前は知れない。けれど、珍しくもないありきたりな花だ。その花びらを彼女は1枚ずつ抜いては、小さな透き通る声で、こう言っていた。

「……帰れる……帰れない……帰れる……帰れない……」

 花占い?

 俺は積極的に女性に話しかけるのは得意ではなかったが、それ程奥手ではない。彼女の横にしゃがむと、

「こんにちは」

 と、声をかけた。

 すると彼女は、本当に俺が近付いたのに気付いていなかったらしく、驚いた顔で俺を見た。黒目勝ちな大きな瞳、筋の通った鼻、ふっくらとした膨らみのある豊潤な桜色の唇。とても綺麗。いや、とても美しい。

「あ、いや、その……何を、してるんですか?」

 年甲斐もなく、俺は彼女に見詰められてどぎまぎとしてしまった。ある程度横顔からも想像はしていたが、きりりと整った眉、白雪を思わせるきめ細やかな肌、ほつれた黒髪が顔にかかった魅惑の影。正直、俺は参ってしまった。女性の持つ美が、ここまで人の心を打つものかと。好き嫌いの問題ではなかった。それはあたかも、最高級の芸術品を前にして無差別に感動してしまうような、本能の喜び。俺はもはや、この時点で彼女の崇拝者となってしまったのかもしれない。

 彼女は――微笑んだ。何に対して微笑んだものか。初対面の人間に対する社交辞令か、そけとも、俺の様子に心の反映があって面白いことになっていたのか。それとも他に……。彼女は微笑んだ。ちょっとだけ悲しげな微笑みだった。ただ、それだけ。それだけで、再び手元の花を見ると、

「……帰れる……帰れない……」

 花占い。

 俺はその先の進め方を知らなかった。


 次の日も彼女はやってきた。俺は昨日の挽回を図ろうと様子を見ては彼女の傍らに行き、軽く挨拶をした。

「こんにちは」

 彼女はやはり花占いをしていた。足元には、もうだいぶ未来を占った白い花びらが彼女の過ごした時間を物語るように積もっていた。

 彼女は俺を見る。昨日みたいには驚かなかったが、淡く微笑むと、また同じ動作を繰り返した。

「……帰れる……帰れない……」

 それ以上、彼女はなにも語ってはくれなかった。

「いい天気だね」

「ねぇ、なにしてるの?」

「名前、なんていうの?」

「どこからきたの?」

 まるでナンパのような(事実、ナンパと言われてもおかしくないのだが)俺の問いかけにも、彼女は決して答えてはくれず、ただ、一々俺の顔を眺めては、大きな目を細めて微笑むばかりであった。そして、花占い。

 俺は元々自分の容姿に自信を持ってはおらず、女性に邪険にされることに抵抗は持っていなかったが、彼女は違った。あからさまに嫌な顔をするではなく、いっぱいの微笑みを送ってはくれるのだが、口に出しては答えてくれない。もしかしたら、それが彼女の断り方なのか。それとも、俺を馬鹿にしているのか。分からない。さらに俺の考えが進めば、もしかしたら彼女は知能に障害があるのではないか、そんな事までも考えられた。確かに花占いに熱中する彼女の姿には、それらしい節もある。

 俺は結局黙り込んで、彼女の傍らに座ったまま、空を見上げた。

 今日も雲が多い。雄大な大気の流れ、俺はそこに母なる大地、地球の息吹を感じる。太古から繰り返されてきた生命の循環。――こんな感慨に耽るのは、平穏がもたらす幻か。……もうそろそろ、世捨て人も潮時かと思う。

 俺は視線を彼女に戻した。そうすると、さっきから気になることが1つある。それは彼女の花占いが、必ず「帰れない」で終わっていることだ。その度に彼女は俯き、悲しい瞳を川に投げかける。まるで、何かを懐かしむように。

 この花占いには、何か大きな訳があるのか?

 それにしても、こう何回もやっているのに必ず「帰れない」となるのは、わざとやっているのか。しかし、彼女の落胆した姿を見ると、そうは思われない。俺はおもいきって彼女ににじり寄ってみた。

「ねぇ、帰りたいの?」

 たいした意味ではない。花占いで出たことがない「帰れる」に掛けてみて言っただけだ。ところが、これに初めて彼女は反応らしい反応を示した。目をまん丸にして俺を見ると、大きく頷いたのだ。

 ……どうやら彼女には、やはり少々の知能障害があるらしい。

 けれど、これで俺にはやりやすくなった。彼女がどういう人間か知ることができれば、こっちも接しやすかった。

 俺は改めて彼女の隣に座ると、

「帰りたい?」

 もう一度訊いた。やはり大きく頷いた。それで俺は彼女の手から一輪の花を受け取ると、自信ありげに彼女に微笑んだ。

 花を見る。丸く黄色い花粉の部分を中心に白い花びらが咲いている。花びらの数は7枚。花“占い”といえども、結果を操るのは簡単なことだ。俺は目で彼女に確かめるように合図を送ってから、1枚1枚丁寧に抜いていった。

「……帰れる……帰れない……帰れる……帰れない……帰れる」

 残りは当然二枚。俺はこんな単純なことに得意げになって、

「帰れない」

 1枚抜いた。そして彼女に渡してやる。彼女の最高の笑みが見たいがために。

 ところがだ!

「……帰れる……」

 彼女はゆっくりと1枚の花びらを抜いた。指先から離れ、はらはらと舞い落ちた瞬間、俺は愕然となった。彼女の手にしおれる花には、もう1枚の花びらが残っていたのである。そんな筈は――。俺が見間違えたのか? とにかく俺は、1人慌てた。慌てて手近にあった花を茎の半ばから折り手にすると、再び花びらを強制的に引き抜いていった。

「……帰れる……帰れない……――」

 後2枚、間違いない。けれど、なぜだ?!

「……帰れない……」

 と言って1枚の花びらを抜いてみると――花びらは、2枚残っていた。

 俺は、呆然と花を見詰めた。そして、彼女を。すると彼女は優しく目を細め、俺の手から花を取って、

「……帰れる……帰れない……」

 悲しみの天使がそこにはいた。哀愁漂う、なんとも物悲しげな姿。目を伏し、諦めの笑みが、見詰める俺の心を空虚とした。

 世の中には不思議なことがあるものだ。その後も俺は何度か挑戦してみたが、どうしても「帰れ」なかった。彼女もまた、続けたが、やはり「帰れ」なかった。

 やがて夕暮れ。俺はその夜、どうしても行かねばならぬ用事があった。彼女の事は心配であったが、どうやら俺は力になってやれないらしい。俺は「帰った」


 次の日は朝から雨だった。俺は明け方近くに帰ってきたせいもあって、目を覚ました時にはすでに13時になっていた。二日酔いのせいで頭が少し痛む。

 ボー、としながらテレビを見ていたが、どうも落ち着かない。それで窓を開けてサッシに腰掛け、煙草の煙をくゆらせつつ雨落とす灰色の空を眺めていた。

 まさかな。

 いる訳ないよな。

 こんな雨だもの。

 彼女――

 俺はビニール傘を手にアパートを後にした。

 降り続く雨は冷たき理性。乱れる水鏡は抑えられぬ心。俺は情熱の盾持ちて、靄る辿り道を駆け抜けた。

 土手に駆け上がる。ここのところ運動不足だったせいか、かなり苦しかった。二日酔いもそれに大いに手を貸しているだろう。が、とにかく、雨にけぶる河原を俺は探した。まさかいないだろうとは思いつつ、いや、必ずいるという2つの矛盾した考えが俺を魅了する。

 彼女は――いた。黒のノースリーブに紺のジーンズ。ウエーブがかった黒髪を腰まで伸ばし、傘も差さずに雨に打たれるに任せたその姿は、まるで麗しきマーメイドの様。

 俺は呼吸を整えると、ゆっくり土手を滑らぬように気を付けながら降りた。滴を多く蓄えた草々を分けて、彼女の後ろに立った。

「こんにちは」

 彼女が振り向き、俺を見上げる。

「風邪引くよ」

 俺は彼女の頭上に傘をかざしてやった。彼女は――微笑んだ。

 俺と彼女は小さなビニール傘の下に寄り添った。それでも雨を防げるのは頭ぐらいなもので、肩から下は濡れるに任せたままであった。けど、今はそれでもいいだろうと思う。

 彼女は相変わらず花占いを繰り返し、やはり「帰れ」なかったが、俺はもう口出しすることはなく、彼女を雨から守れていると思うだけで満足していた。もし、彼女が「帰れ」なければ、ずっとこうしていられるのだろうか。一体彼女がどこに帰ろうとしているのかは分からないが、できることならば……

 雨は止みそうになかった。

 2人の時間が続いた。

 どのぐらい時間が経ったであろうか、雨に冷えて少し肌寒くなってきた頃、突然として彼女が立ち上がった。俺は半テンポ遅れて、それに合わせる。

「どうしたの?」

 と、覗き込んだ彼女の顔は――泣いていた。今まではどれ程悲しい顔をしようと、どれ程憂いの様子を見せようと涙だけは見せなかった彼女が――泣いていた。俺の胸は、ぐっ、と熱くなった。

「お花が、お花が……」

「え、花? 花が……」

 ない。見渡す限りの緑の中に、あの白い花がなくなってしまっていた。全て彼女が花占いにもちいてしまったのか? 

 彼女は、もう花占いができなくなってしまったことを悲しんでいるのだ。

「ちょっと待ってて、探してくるから」

 俺は彼女に傘を押し付けると、辺りを這うようにして白き花を探した。彼女に涙は似合わない。物凄くキザな言い方かもしれないが、彼女の笑顔にはそれだけの価値があった。

 周りには雨に打たれ、沈んだような雑草ばかり。まだ残っているとすれば、例え一輪だけであろうと白光している花を見落とす筈がない。だが――ない。本当にもう全ての花が彼女の未来を決定付けてしまったのか。もう彼女は「帰れ」ないのか。

 もうこれは花“占い”なんかではない。花占いは、彼女が「帰れる」か「帰れない」かという未来を、しいては彼女の人生をも決める大事な“儀式”なのだ。もしこれが滞りなく行われなければ、彼女は一生「帰る」ことができない。俺にはそう思えてならなかった。

 だから俺は、雨に濡れることが気にならなかった。泥にまみれることを厭わなかった。彼女の未来を切り開く手助けをしてあげたかった。

 そして――

「あった!」

 一輪、高く伸びた雑草の奥底に、短くも力強く咲いた希望の花が。俺は両手でその花を抱き締めたい衝動に駆られた。もし花に宿る精霊がいるならば、無邪気に戯れたい想いに駆られた。それらの感動を抑えるのに、どれ程の力が必要だったか知れない。

 俺はやっとの思いで興奮を鎮めると、丁寧に茎を折り、彼女の元に歩み寄った。

 彼女は俺を、喜びの笑顔で迎えてくれた。花を差し出すと、彼女は傘を放り投げて、俺の右手共々花を柔らかな絹のように滑らかな両手で優しく包んだ。

 俺も笑った。彼女はもっと笑った。そして彼女は、左手を俺の右手に添えたまま、右手の指でゆっくりと花占いの儀式を始めた。

「……帰れる……帰れない……帰れる……帰れない……帰れる……帰れない……」

 ゆっくりと彼女の手から花びらが舞い落ちた。花びらは――1枚だけ残っていた。

 その途端、彼女は俺に勢いよく抱き付いてきた。俺は突然の事に1、2歩よろけたがしっかりと彼女を受け止め、俺も彼女の背に回した左手と、花を持ったまま彼女の流れる髪に回した右手に力をこめて、彼女を抱いた。「帰れる」ことがまるで他人事ではなく、自分の事のように嬉しかった。

 離れた時、彼女の瞳には喜びの涙があり、その美しい顔に真珠の輝きを加えた。

 俺はほとほと参った。もう彼女を離したくない。想いを打ち明けるには、この時を置いて他ある筈がない。俺は――!

 彼女は軽く首を傾げる。と、俺の右手から花びら1枚の花を抜き取り、2、3歩踏み締めるように下がると、雨に濡れた自分の黒髪にかんざしのように挿した。とても美しい。美し過ぎ、なんだか彼女が人間であることを捨ててしまったように思えた。

 一瞬の間があった。

 と、突然、1枚の白き花びらが七色の色彩を帯び、輝き出したかと思うと、時計回りに花びらが再生して虹の花となり、その輝きは彼女にまで移って、彼女の一切は虹色の輝きに包まれてしまった。神々しいまでの発光。温もりのある光線。雨は去り、音も止み、時間さえ止まってしまったような。俺は彼女の発する光に包まれていた。

 一体何が起こったのか、俺には一切を理解することができなかった。ただただ呆然と立ち尽くしては、目の前の出来事に、視線、奪われるばかりであった。

「ありがとう」

 彼女の声で、そう聞こえたような気がした。と、瞬間、光が弾けた。弾けた本体は凄まじい勢いで飛び上がると、川の中に飛沫を立ち上げ没した。するとその場所だけ、雨のせいで泥水のように濁っていた川の水が虹色に輝いていた。

 彼女の姿は消えていた。今の今まで目の前にいた彼女が。彼女は――川の中にいた。俺に向かって手を振っている。鮮やかな緑色の髪。緑色の瞳。ひときわ透き通る、まるで水晶のような白き肌。なんともいわれぬ満面の笑顔。そして――彼女は跳ね上がった。美しき背中が見え、腰から下は、ガラス細工のように滑らかな輝きを放つ緑色の魚体であった。

 彼女が泳ぐ所は全て虹色に輝き、その筋は、始め水に帰れたことを喜ぶように無意味な線を描き出していたが、やがてもう一度だけ彼女が俺に手を振ると、はっきりと分かる意思を持った直線を描き、下流へ、下流へと去って行った。

 彼女は「帰って」しまった。

 俺は雨に打たれていた。

 やがて、川面に浮かんだ虹も消えた。

 周りを見れば、白き花々が咲き誇っていた。


 翌日、俺は世捨て人を止め、就職活動に出た。

 彼女の温もりが、今は懐かしい。


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