第四話
パチパチと炎の燃える音がする。気が付けば、そこは三年前の惨状そのままの光景だった。気絶する直前に見た、最後の懐かしい家の姿だ。頬の傷はなく、どこか感覚もあやふやだ。……おそらく、夢の中なのだろう。道路にしゃがみこみ、燃える家を眺めながら、湊の頬に一筋、涙が伝う。
「よぉ」
「……おっさん? なんで?」
場違いなほど気楽な声と共に、譲は湊の頭に手を乗せた。夢の中に入る魔術があるのか、と湊は瞳を潤ませた。
「なに、泣いてんだ」
「オレの、せいで。家族がバラバラになったから」
一度泣き出すと、涙はもう、おさまらない。次から次へとあふれ出してきて、止まらない。しゃくりあげながら、譲に向かって泣き叫ぶ。
「何があったのか、うまく思い出せないんだッ。でも、……確かに、オレの魔素回路は狂ってた。だって、水の魔術を使おうと思ったんだ。呪文も間違えなかった。なのに、発動したのは風の魔術。しかも、突風だ。火に酸素を含ませればどうなるかなんて、ガキでも知ってるのにッ!」
以来、湊は自分の術に自信が持てなくなった。今でも、いつ自らの手にした鎌が大切なものに牙をむくのか、それが恐ろしくて仕方が無い。弱さを隠すための笑顔を覚えても、かつてのトラウマはそう簡単には消えやしない。
「父さんも母さんも、ずっと寝たきりで。妹がどうなったかもわからない。オレは、もう、誰も失いたくないよッ。もっと、強くなりたいんだッ……!」
泣きじゃくる湊の傍らで、譲はふう、とため息をついた。そういえば、子供に泣かれるのは慣れていない、と言っていた気もする。何て言えばいいんだろうなぁ、としばらくの間頭をかきながら悩み、そして諭すように言葉を紡いだ。
「泣いてもいいさ。むしろいっぱい泣け。俺に迷惑をかけるのだって、別に構いやしねぇさ。だけどな、誰かを守りぬきたいなら、何があってもそこから逃げるな」
「……わかった」
背中を押され、体が傾ぐ。空に浮上するような感覚と共に、湊は燃え盛る家から離れて行った。
ゆらり、と体を立て直す。鎌を支えにして男に対峙すると、神哉は驚きの表情を浮かべる。先ほどまでの余裕そうな笑みが剥がれて、湊はにやりとほくそ笑む。
「なっ……僕の催眠魔術が効いてないだと」
「生憎、不眠症なもんでね」
どうやら眠りに落ちていた時間は一瞬だったらしい。皮肉っぽく鼻で笑うと、ようやく余裕そうだった相手の表情に焦りの色が見えた。しかし、湊の体はもう限界に近い。度重なる疲労と不眠が、彼の体力を蝕んでいるのは十二分に理解していた。
「まだやるのかい? 勝ち目がないってわかってるのに?」
「もういいっ、湊。俺のことはいいから、鎌を下ろせ!」
檻の中から神無が叫ぶ。泣きそうな声だったのは、きっと気のせいではないはずだ。
「何も良くないだろッ! さっきお前は言ってたよな。“まだニンゲンとして生きていたい”って!」
その願いをかなえるためなら、まだ戦える。まだ跳べる。体も、少しなら動く。出来損ないの落ちこぼれにも、出来ることはあるはずだ。
「だから、お前の未来くらいお前が決めろッ!」
空に向かって思いきり跳躍する。鳥が羽ばたくように高く、沈みゆく太陽に向かって、少年は吼えた。
「『術式解除ッ』」
精神の統一も、魔素回路の流れも、もう何もかもわからない。幼い子供の頃から叩き込まれた感覚を頼りに、湊は魔術を練り上げる。体が軽くなった感覚と、鎌を握る手に力が入ったことだけを感じながら、宙に囚われた神無に向かって思い切り鎌を振るった。
「断ち切れェえええええええええええええええええええええッ!」
神無を閉じ込める魔術の檻が、ぶつりという音と共に霧散する。地面にふわりと倒れこむ神無に駆け寄り、体を起こしてやる。うまく力が入らないようで、支えがなければ今にも倒れてしまいそうだった。ざり、とアスファルトを踏む音がして、湊は肌が粟立つのを感じた。
「まさかここまで邪魔されるとはね」
苛立ちにぎらつく赤い瞳が、湊をねめつける。
「こうなったら無理やりにでも覚醒させるしか無さそうだ――」
狂気的な表情を浮かべ、彼は神無に襲い掛かろうとする。割り入ろうと体を動かそうとするものの、寝不足の体にガタがきたのか、膝に力が入らない。神無も拘束されたままだ。このままではいけないと、右手で鎌を掴もうとあがくものの、折角掴んだそれを取り落としてしまう。冷や汗がどっと溢れる。
「おっと、そこまでよ」
――凛とした声が響いた。見えない障壁が二人の間を阻む。キィン、と硬質な音がして、神哉は後方へと吹き飛ばされる。右手をかざしてその透明な障壁を作り出したのは、湊と神無が先ほど出会った女性だった。
「さっきの、ウェイトレスさん!?」
「残念。私はウェイトレスじゃなくて店主よ」
ぱちりとウィンクする姿に、湊も神無もぽかんと口を開く。
「その目……その髪……、まさか白銀の魔女!?」
しかし、一番動揺を見せたのはたった今対峙していた男だった。夢魔はその女性を認識した瞬間、怒りから恐怖へと表情を変化させる。
「あら、知ってて私の店をぶちやぶったのかと思ってたわ」
驚愕に目を見開く神哉を、アイスブルーの冴え冴えとした瞳が射抜く。にこりと薄桃の唇はカーブを描いているというのに、何故だか湊の背筋をぞくりと寒いものがはしる。それは神無も同じだったようで、寒そうに自分の体を抱き寄せていた。五月には相応しくない凍てつく冬の寒さと、北風の匂いがする。恐らくは、魔女と呼ばれた女性の魔力の匂いなのだろう。
「言ったわよね? 玉響神哉。次に私の前で暴れたら、あなたの力を封印するって」
「くっ……」
神哉と呼ばれた神無の兄は、何も言い返せず女性の言葉を浴び続けている。そうか、本名にしろ偽名にしろ、力を持つものに名前を握られるのは苦痛なのか。湊が感心する中、魔女は淡々と話を続けた。
「でも私は慈悲深いから、力の封印はあなたの弟が覚醒するまでにしてあげる。そうそう、魔力が使えなくとも、私が要請したときにはきびきび働いてもらうわよ」
にこにこと笑いながら条件を付け加えて行く魔女と、その場から身動きできずに固まる神哉。最早抵抗する気力も無いようで、夢魔は仕方ないと諦めたようにうなだれた。魔女は両手を神哉にかざし、その瞳を銀色に輝かせながら唇を開いた。
「『白銀の魔女の名において命ず――汝の力を封印する』」
歌うように紡がれたのは束縛のための魔法だろう。滅多に見られないものだと湊は目を輝かせた。魔女は魔術師よりもはるかに複雑な技術を得ているためだ。
やわらかな銀色の光がくるくると舞い、神哉の翼やつややかな尻尾に付着すると、次々にそれは銀の鎖へと変化する。鎖の巻きついた部分は霧散し、神哉の見た目はニンゲンらしいものになった。がくり、地面に足を付いた神哉の首筋周りに、うっすらと赤いあざが浮かび上がる。さながら犬につける首輪のようだ、と湊は魔女の魔法に見蕩れていた。悔しそうに顔を歪める神哉に、恐る恐る神無は近づいた。
玉響神哉は眉間にしわを寄せていた。が、狂気的な雰囲気はなくなっていた。兄の表情だ、とそれを眺めていた湊はしみじみと思った。
「仕方ないなぁ。しばらく待ってあげるよ」
さも不服である、という風に唇をすぼめながら神哉はそう言った。しかし、その表情は少しだけ晴れやかで、先ほどまでの冷たい光の消えた、暖かな眼差しだった。ただ、神無のそばで暮らすからね、とにこやかに笑う神哉に、湊も神無も少し不安を覚えたが。そんな二人の肩を魔女がぽんと叩く。
「大丈夫よ。少なくとも、コイツにはもう、神無君を無理やり魔族にするような力は残ってないから」
「あ、あの、助かりました。ありがとうございます……!」
わたわたとあわてて礼を言う湊に向かって、魔女は優雅に振り向く。釣られて神無も頭を下げた。
「お礼はいらないわ。……そうね、また会いましょう、湊君。その時は、貴方に返さなきゃいけないものがあるからね」
「え、返すもの……?」
「まだ、秘密」
魔女は蠱惑的な仕草でそっと唇に人差し指を当て、妖しく微笑んだ。どぎまぎする湊は、そういえば、とかねてからの不満を呟く。
「しっかし、オレに酷い悪夢見せたことはきっちり反省してもらうからな」
神哉にむかって思い切り顔をしかめると、夢魔はきょとんとした表情で湊を見つめ返す。
「あれ、おかしいな。魔術師には効かないように調節してたんだけどねぇ?」
「……は? え、ちょっとまてよ。じゃあ、オレに火事の悪夢を見せたの、お前じゃねえの!?」
「火事? 知らないなぁ。いや、本当に本当だよ。だって僕は神無のこと意外どうでもいいもの。君だけ特別扱いの夢を見せたりなんてしないよぉ」
夢魔は肩をすくめながら、さらりと言ってのける。新たな疑念に、湊と神無は顔を見合わせた。
「あーあ、もっと精神的にぐずぐずにしてやりたかったんだけどな」
少女は長い黒髪を風に靡かせながら、木の上から彼らの様子を眺めていた。残念そうに口をへの字に曲げているのは、湊のクラスの級長だった――。