第三話
美しい庭園。アゲハ蝶が舞い、白い薔薇が咲き乱れるテラスの中、湊は眼前の女性から陶器のティーカップを突然渡された。陶器のティーポットから、薄茶色の液体がとぽとぽと注がれる。
「はい、あったかいもの。どうぞ」
「は、はぁ。あったかいもの、どうも」
鮮やかな色をした温かいミルクティーの香りは、疲弊した湊の心に安らぎを与える。こくり、と一口飲むと、滑らかな液体が喉を潤す。
「お味はいかが?」
ウェイトレスの女性はにこりと笑いかける。美しい白銀の髪に、アイスブルーの瞳がよく似合う美女だった。
「と、とても美味しいです」
「ふふ、よかった。お代は譲からもらっているから、ゆっくりしていって構わないわ。そうだ、伝言があるの。“仲直りしてこい”、ですって」
外国人だろうと思っていたが、かけられた言葉は流暢な日本語だった。その美しさにどぎまぎとして挙動不審になる湊に、くすくすと女性は笑い出す。どうやら譲の知り合いのようだが、湊には彼女との面識はなかった。ティーポットを持って女性が喫茶店の室内へと戻ると、冷ややかな声が湊の耳に飛び込んでくる。
「女の前でたじろぐとか、随分とウブなんだな」
赤いテーブルクロスの上に置かれた皿に、山積みにされたカラフルなマカロンを齧りながら、神無は意地悪そうな笑みを浮かべてそう言った。
「なんでオレがお前と茶を飲み交わしてるんだ」
「知るかよ」
気まずい空気が二人の間に流れる。それもそのはず、つい先ほどまで死闘を繰り広げていた相手が、山盛りになっているマカロンを食べているのだ。こんなに奇妙な状態も無いだろう。もくもくと菓子の山を崩す神無の様子をしばらくながめて、湊は観念したように口火を切った。
「さっきは、悪かった。お前の事情も聞かずに、いきなり鎌振りかぶるとか、オレも正気じゃなかったな」
なおも沈黙を続ける神無に、湊は小さくため息をついた。そして、力なく笑いながら、自らをあざけるように続ける。
「妹を、守れなかったんだよ」
「……は?」
怪訝そうな顔をしながら、神無は眉間にしわを寄せた。彼のマカロンを食べる手が止まった。構わず、湊はへらへらと笑いながら話を続ける。
「オレはさ、魔術師の家に生まれたんだ。オレより妹の方がずっと優秀で、正直嫉妬とかもしてた。でも三年前に事件があってな……以来、妹とは離れ離れで暮らしてる。オレ、今は別の魔術師の家の養子になって暮らしてるんだ。それがなんつーか情けなくて、つい異常事態があるとほっとけねーっていうか」
「なんで、俺にそんな話を」
「ほら、信頼してもらうためにはまず自分のことを知ってもらうのが一番だろ? それに、お前もなんか思いつめた顔してたし。暗い顔したヤツには、暗い話っていうの? ……ごめん、ぺちゃくちゃうるさいよな」
「いや……別に」
唇を尖らせて、視線を泳がせる。そんな神無を見ながら、湊は紫色のマカロンをくちにぽいと放り込む。一口大の大きさの菓子は食べやすいが、どこか胸焼けのしそうな甘さだった。さっきから神無はぽいぽいとこれを口に詰め込んでいるが、甘党なんだろうか。
「っていうか、それ、笑いながらする話かよ」
所作をじっと観察する湊の視線に耐えかねたのか、神無はふいとそっぽを向く。心なしか頬が赤くなっているような気もする。
「あんまりにもショックだから笑い話にしたくなることってあるだろ?」
「前向きなのか後ろ向きなのかよくわかんねぇな、それ」
「おっさん――オレの養父にも言われる」
「だろうな」
情けなそうな湊の表情を見て、初めて神無が“笑った”。冷ややかなものでも、人を小ばかにする笑みでもない笑いだった。湊もそれに釣られて、自嘲的ではない笑みを浮かべる。
神無は紅茶のカップを手に取り、それに口付けて喉を鳴らす。カチャリとティーカップをソーサーに戻し、意を決したように口を開いた。
「……悪夢がどうとか言ってたな」
「お、おう」
「それは、本当に、俺のせいじゃない。確かに俺はニンゲンじゃねえ、けど、まだ力を自在に操ることはできねぇよ」
「やっぱり、魔族なんだな?」
湊の真剣な眼差しを受け、神無は首を縦に振った。
「俺は夢魔なんだ」
夢魔。魔族の中でも、夢を自由自在に操ることができる種族だ。ぐるりと巻かれた羊のような角が特徴だが、翼や尻尾は一般的な魔族と大差がない。
「覚醒してない魔族は、ほぼニンゲンと同じなんだよ。完璧に夢魔の血に侵食されるまでは、普通に生きていられる。……でも、兄貴はそれを良しとしてはくれなかったんだ」
「そう、なのか」
「お前も魔術師の端くれなら解るだろ? 魔族は血のつながりを重視するって」
「ああ、聞いたことはあるぜ」
「兄貴は俺に覚醒してほしいんだ。自分の力も強くなるし、何より俺が逃げられなくなるから。でも俺は兄貴が怖い。それに、俺に流れるこの忌まわしい血も怖い。だから逃げまわってるんだ」
神無は安堵の表情を見せた。五月に転校してきた理由と、普通に暮らしたいと言っていた理由が腑に落ちて、鞘走った判断をしたことが申し訳なくなった。
では、学園の生徒に悪夢を見せたのは一体誰なのだろう? 少しだけ質問するのがためらわれ、湊はぬるくなったミルクティーを啜る。
「わかったよ。もうオレはお前を追わない。……ほんと、すまなかった」
「いや。……俺も、悪かった」
これで、とりあえずひと段落だな。湊がそう口にしようとした瞬間、甘やかな声が上から聞こえてきた。
「やっと見つけたよ、神無」
バリィイイイイインッ!
突然、上の窓ガラスが砕け、きらきらとした破片が降る。美しいなどと見蕩れる場合ではないのはわかっているのに、一瞬太陽を反射するガラスの煌きに目を奪われた。――そして次の瞬間には、神無を抱えてガラスの破片から彼を守るように床に伏せる。
「チィッ、随分な御登場じゃねえかッ!」
夕暮れの空、禍々しい赤色の満ちる逢魔が時。そんな状況に似つかわしすぎる笑い声が降ってきた。声の主は逆光によって黒い影のように見える。湊の咆哮を嘲笑うのは、類稀なる美貌の男だった。
「わざわざ神無を守ってくれてありがたいけど、僕の弟はそこまで柔じゃないから、さっさと離れてくれないかなぁ? 泥棒猫ちゃん」
神無によく似た笑みで、魔族の翼を羽ばたかせながら、その男は傲慢に呟いた。神無に色香を山積させ、かつ子供らしさを削ぎ落としたようだ。そろそろ夏だというのにきちんとした礼装で、優雅な仕草はそれに似つかわしいものだ。
「こんな辺鄙な街に逃げ込んでたんだね? 悪い子だなぁ、神無は。おかげで探すのに大分苦労したじゃないか。ニンゲン共の夢を手繰った甲斐はあったみたいだけどねぇ、ふふふっ」
「――お前が今回の主犯か」
起き上がろうとする神無を背後に庇って、きっと眼前の夢魔を見据える。
「おやおや、正義のヒーロー気取りかい?」
おもむろに湊の方に右手をかざす。何事だろうと身構える湊の顔すれすれを、黒い光がすばやく通り過ぎる。鋭い痛みだ。呆気に取られた湊が頬に手をやると、生暖かい血液がべっとりとついていた。
「君じゃお話にもならないさ。だから、早く神無を僕に返してくれないかな」
「嫌だ、って言ったら」
震える声で、湊が呟く。
「だったら、君を殺して神無を奪い返すだけだよ」
黒い無数の影が湊に迫り来る。あわてて鎌を振るうも、日没の迫った今、影はもっとも暗く、無数に存在する。切り払えども切り払えども止まない攻撃の手に、湊は歯を食いしばりながら必死に対抗する。
「っく……」
「ほらほら、さっきまでの威勢はどうしたのかなぁ?」
ぱちり、と男が指を鳴らす。離れていた神無が、宙にふわりと浮き、その周りを檻のように黒い光が取り囲む。さながら、鳥籠に入れられた鳥のようだ。神無の方へ意識がそれた湊の隙を突いて、すかさず夢魔は間合いを詰めて来る。しまったと思った瞬間には、思い切り首をつかまれていた。
「ふふふふっ。愚かにも僕に抗おうとするからさ」
「っ……ぐ、ぅ……」
首を絞められ、うまく息が出来ない。頭に酸素が回らない。ただでさえ言葉をうまく扱えない出来損ないの言詠だというのに、その言葉すら封じられてしまえばもう手も足も口も出なくなる。
「じっくりと醒めない悪夢に蝕まれるといい」
赤い瞳が妖しく光る。視界が歪み、神無の叫び声が遠くなっていった。