第二話
私立詠歌学園高等部。幼稚部から高等部までを併設する、比較的規模の大きい学園が、湊の通う学校だった。エスカレーター式に進級することが出来るが、多くの生徒は中等部から外部の高校へ進学してしまう。湊はその逆で、高等部からこの学園にやってきた生徒の一人だった。そのため、まだあまり学園の雰囲気には馴染んでいない。最も、だからこそ自由気ままに生活している部分もあるが。
一年E組の扉をからりと開けて、窓際の最後部に座る。教室の喧騒はいつもよりもぐっと静かで、どうやらかしましいクラスメイト達にあまり元気がないようだ。特に親しい友人が居るわけでもないが、社交辞令くらいは交わす間柄の生徒達も、今日はほとんどが机に突っ伏して寝ている。そういえば、先週からだんだん騒がしさが減ってきていたな、と湊はがさりとコンビニの袋を机の上に置く。中に入っていた栄養ドリンクの栓をあけ、寝不足で回らない頭を回転させるために、ぐびぐびと飲み干す。これで少しはまともに動けるようになるだろう。
校舎の中では、湊は元気な自分を演じることで正気を保っている。自分を騙し続けることに苦しさは全く無いし、むしろ思い込みでやっていけることにこんなに感謝することは無い。だから少年は周囲の人間の異常には目ざとく気づくのだ――自らと同じように濁った瞳を根拠にして。
「おはよう、夜鷹くん」
そんな暗い思考で教室を眺めていた湊の元に、ある少女が声をかけてきた。少しだけ、風船のように心が浮かぶ。さらさらとした長い黒髪の持ち主は、湊の所属するクラスの級長を務めている真面目な子だ。
「どうした、級長? 顔色マジで悪いぞ」
快活に笑ういつもの表情からは遠く、ただでさえ真っ白い肌が青ざめて見える。伏せた瞳を縁取る長い睫を眺めていると、少女は小さな唇をそっと開いた。
「うん……。最近、どうにも夢見が悪くって」
「――夢?」
「黒い影にね、追いかけられる夢を見るの。何かを探してるみたいに。でも、それがとても怖くて。捕まりそうになるといつも目が覚めるの」
その言葉に反応して、湊の周りの席に座っているクラスメイト達がいっせいにこちらを振り向いた。突然注目されたことにびくりと体を震わせるものの、湊は静かに深呼吸を繰り返し、平静を装った。
「あ、その夢、ぼくも見てる」
「わたしも! 奇遇ね……」
次から次へと声が上がる。詳しく話を聞いてみると、どうやら学園中の生徒が似たような夢を見ている様子だった。体調が悪くてげんなりしている生徒たちの原因が悪夢とは、奇妙な偶然もあるものだ。湊は級長に向き直って、探りを入れることにした。
「――いつから、見てるんだ?」
「えっと……今月の中旬くらいからかしら」
「その頃に、なんか変化みたいなことってあったか?」
さぁ、と首を傾げる周囲の生徒たち。少しして、級長があ、と小さく声をあげた。
「玉響神無くんが転校してきた頃じゃない? ほら、C組の」
「玉響?」
初めて聞く名前だった。そもそもそのような転校生が居ることすら知らなかった湊は、自分がだいぶ人と距離を置いていたことを自覚する。詳細を尋ねると、今月中旬に突然転校してきた、容姿端麗な少年だという。ただ、少々近寄りがたい雰囲気であるため、女子からの人気は高いものの未だ一人で行動しているという。確かに、高校一年のこの時期に転校してくるとは、あまり聞かない話だ。何か怪しい匂いがする、と湊は軽く鼻をひくつかせ、おもむろに席を立つ。
引き止める級長の声をスルーして、足早にたどり着いたのはC組の教室。E組から少し距離はあるものの、ホームルームが始まるまでの少しの間なら、話くらいは訊けるだろう。入り口付近で談笑を交わす女生徒に、湊は勇気を振り絞って声をかけた。
「玉響神無って、ここのクラス?」
「そうだけど。神無くんに何の用?」
「あー、えーっと……図書館で借りてるだろう本を返して欲しくてさ」
図書委員の腕章をさりげなく見せながらそう言うと、女生徒はしぶしぶ納得したという表情になった。
「ふぅん? おーいっ、神無くん、お客さんだよ」
女生徒に呼ばれ、気だるそうにやってきたのは、なかなかの美貌の少年だった。
「あんた誰? 俺になんか用?」
明るく染めた髪と、ギラつくような視線が来訪者を拒絶する意味合いなのは、鈍感な湊にも直ぐにわかった。長身痩躯だが、捲り上げられたシャツからのぞく腕には、筋肉がついている。伏せられた睫は長く、甘い顔立ちはさぞ女子に人気なのだろう。少しだけ苛立ちを覚えながら、湊は神無に尋ねた。
「五月の中旬くらいに来た転校生って、お前だよな」
「そうだけど?」
「最近、変な夢を見なかったか」
「夢? ――いや、何もねぇけど」
口で何もないと言う神無の視線が一瞬泳いだことを、湊は見逃さなかった。もう少し問い詰めようとするものの、休み時間の終わりを告げるチャイムに阻まれる。なおも食い下がろうとする湊の肩に、神無は細い指をかけ、耳元に口を近づけた。
「俺に関わると、あんた、酷い目にあうぞ」
ぞくりとするほど低い声で囁かれ、湊は寒気を覚えた。それはさながら、蛇と蛙の構図。湊はぎゅっとこぶしを握って、しぶしぶその場を立ち去った。
数日後。あの日から何度C組を尋ねても、もはや門前払いされるようになってしまった。どうやらC組のクラスの生徒に対して、ストーカーだと言いふらされているようだ。むっとしながらも神無の様子を見るために教室の前をうろついていたが、翌日には風紀委員から注意を食らってしまった。生徒会の犬には何を言っても無駄だと、すごすごと引き下がっては、何か他に手がかりがないかを探す。
そうして今日も行く当てなく校舎内をふらふらと歩き回っている。そんな湊の耳に、何かの物音が飛び込んでくる。
「美術室……?」
重たいものが落下する音に引き寄せられ、湊は美術室をそっと覗き込む。そこには玉響神無の姿があったが、なにやら様子がおかしかった。
魔族の持つ黒い翼と、ぐるりと巻かれた羊のような角の少年が、なにも描かれていないキャンバスを支えていた。落下しそうになったのを、慌てて受け止めたのだろう。長い尻尾がくるりと絵筆を捕まえている。目覚めた後に散々嗅ぎ、今も学園中に充満する甘ったるい花の香りをとても濃密にした匂いが湊の鼻腔をくすぐった瞬間、反射的に美術室の扉を開けていた。
「やーっぱり、ニンゲンじゃなかったな! お前が魔術を仕掛けたのはわかってんだ」
ずかずかと美術室に入り込む。神無以外の美術部員はどうやらいないらしく、神無は突然現れた湊の姿を見るや否や、翼や角、尻尾といった魔族的特徴を消す。が、瞳の色は真紅に染まったまま戻らなかった。赤く光る目は、魔族が魔術を発動しているときの証だ。
魔族はニンゲンとは異なる身体機能を持つ、本来ならば魔界に住む種族だ。様々な思惑をもった魔族達が人間界を訪れるようになって久しいが、それは魔術に関わるものだけの間のみに知られている事実だ。自分を含め、悪夢を見続ける学園の生徒となんらかの関連があるに違い無い。
「チッ、なんなんだよ!」
絵筆とパレットを持ったまま、神無はじりじりと後退する。間違いない、コイツの匂いは夢で嗅いだものや学園の生徒達からかすかに香るのと同じものだ。近づけば近づくほど、匂いがどんどん強くなる。
「お前の匂いが学校中にぷんぷんすんだ、気づかねー方が変だろ」
「俺は魔術なんざ使ってねぇ。ほっといてくれ、俺はただ普通の生活を送りたいだけだ」
手にしていた物を壁際の棚に置き、神無は湊を睨み返す。彼と対峙する湊は小さく何かを呟く。聞き取れないほどの言葉は吐息となり、窓の閉まった美術室に、どこからともなく風を呼び起こす。制服のワイシャツがふわりと舞い、湊の両手には緑色の光が宿る。意識を指先に集中し、彼は想像する。空想し、妄想する。それに応じて集まってきた光は何かを形作るように収束し始めた。
「周りの人間に迷惑かけて、自分だけのうのうと日常を謳歌しようなんて」
両手で握り締めたそれは、緑光を纏った幻想的な鎌だった。飾りつけは少なく機能的だが、大きさは湊の体と同じ程。太陽の光を受けてきらりと輝くそれは、湊の言葉が形を取ったもの。その効果は、斬戟を浴びせた対象にかかっている魔術の消滅。
「――そうは問屋が卸さないっつーの!」
巨大な鎌を振りかぶる。神無はすばやくそれを避け、キャンバスの傍に置かれていたパレットナイフを数本手に取る。鎌の一閃から間合いをとり、湊の胸部目掛けて投擲する。すかさず緑色に光る鎌を回転させて、湊はパレットナイフを弾き飛ばす。
「ケッ、血の気の多い野郎はこれだから」
後方に跳躍した神無は、デッサン用に置かれていたワインボトルを投げつける。湊は横に飛びのきそれを避けて、今度はぐいと神無に間合いをつめるべく走り出す。神無の方から真っ白い紙や画鋲がばら撒かれるのを避けつつ、相手が何も書かれていない大きなキャンバスの後ろに隠れているのを見て、大鎌を一閃する。
ガキンッ、と金属に触れる感覚。鎌が何かに引っかかったと、湊は感覚で悟った。
「盾ッ!?」
「いいや、ノコギリッ!」
木工用のノコギリを手にした神無が、ニンゲン離れした跳躍力で、宙から湊に振りかぶる。咄嗟に鎌で応戦するものの、あまりの力に体勢を崩す。
踏みとどまろうとして一歩後ろに退いた瞬間、先ほどばら撒かれた白い画用紙に足を掬われる。自分の体が倒れる方向に画鋲があったことを思い出して、湊は無理やり身を捩った。急いで立ち上がろうとするものの、何故か背中が床に敷かれていた大きなコルク板から離れない。状況を悟り、思わず湊は舌打ちをした。
「接着剤か!」
「ご名答」
顔のすれすれに鋸を突き立てられ、上から冷ややかな表情でこちらを見下ろす神無と目が合った。自分とよく似た、生気のない瞳。どこかおびえているような色が浮かんでいるのは、気のせいだろうか? 湊は冷や汗をかきながら、大鎌の柄を掴みなおす。
「関わるなって言っただろ。……なんで邪魔しに来た」
学ランの上から、いくつもいくつもパレットナイフが突き刺さる。両袖、服の裾、はもちろん、身動きできないように首のそばにも付き立てられる。差し詰め、標本を作るために昆虫をピンで留めていくように。
「オレの目の届く範囲の平穏を守るのが、オレの仕事だ」
「守るためなら誰かを犠牲にするのかよ? ハッ、とんだヒーロがいたもんだな」
「っ……」
神無の冷たい言葉が、心に突き刺さる。本当にナイフを突き立てられたかのように、心臓辺りが鋭く痛みを発している。眉間にしわを寄せながら、湊は手にしている鎌を弱々しい力でもう一度掴みなおし、目を閉じる。
「『全部、剥がれろ』」
吐き出すように呟かれた言葉。それは湊に突き立てられた刃や彼自身を、ふわりと宙に浮かせるための魔術だった。気が付くのに遅れた神無を、今度は湊が引き倒す。先ほどまで自らの動きを封じていたナイフを、今度は神無に向ける。
「さあ、みんなにかけた魔術を解け」
「言ったろ、俺は魔術なんざ使ってねぇ」
苛立つ神無と湊の拮抗状態が、数刻続く。が、突如として静寂を破る音が、美術室の外から聞こえてきた。人の足音と話し声が、こちらに向かってくるのが解る。ハッとした湊がそちらに視線を向ける。がらりと開いた扉の前に立っていたのは、湊のよく知る人物だった。
「っ、きゃーーーーーっ!」
「げッ、級長!?」
まずい。パレットナイフを持ったまま、神無に馬乗りになっている姿なんて、どう考えても弁解の余地などない。冷や汗をかきながら、湊は慌てて神無から離れる。
「誰か、誰か来て! 夜鷹君が、暴れてる!」
「ち、ちがう、これは誤解でっ……!」
全身から急激に体温が失われていくのが解る。駆け出して行った級長を追うべきか。しかし神無を放置しておくことも出来ない。指先は見る見るうちに冷たくなっていくのに、パニックになった頭はオーバーヒートを起こしそうだ。
ボカッ、と頭部を叩かれる衝撃で、湊はハッと息を呑んだ。上を向くと、そこには学園に居るはずのない男が呆れた顔をして立っていた。
「お、おっさん!?」
夜鷹譲は、やはりいつものようにボロボロのジャンパーを纏っていた。が、右手には機械的な装飾の施された長い杖を持っている。それが彼の魔術道具だということを、少年はよく知っていた。
「問題解決のための喧嘩はいい。だが、派手にやりすぎだ。――ちょっとは反省して来い」
ため息と共にその杖が振り下ろされる。ブオン、という音と共に、湊と神無の周りを魔術円の紋様と、緑の光が囲む。
「えっ、あれっ、うわぁああああああああああああ!」
「うぉおおっ!?」
そうして足元にぽっかり空いた穴に、飲み込まれるように落下していった。