第一話
「兄さんッ、逃げて!」
「オレはいい、行け、シオリッ! 振り向くんじゃねえぞ!」
「兄さん……!」
視界一面に広がる、赤い赤い炎。木が焦げ、焼けて、爆ぜる音が耳にこびりつくようだ。舐めるような炎が、走り始めた妹を追いかける。意思を持ったように動く炎から少女を守るため、少年はすくむ足を必死に動かそうとする。熱いし、苦しい。おまけに息がうまく出来ない。奥のほうの部屋で何かが崩れる音が聞こえた。やっとのことで立ち上がるものの、立ち上る煙を吸い込んで咽こんでしまう。
せめて妹だけは、守らなくちゃいけない。少年は緑色の鎌を炎に向けて振るい続ける。彼の鎌が薙いだ部分だけは、空間から炎が消失していく。しかしそれも長い間は続かず、次第に少年の意識は混濁していく。くらくらとする視界の中、気絶する直前に聞こえたのは悲痛な少女の歌声――。
ぐっしょりと汗をかきながら、少年は布団から体を起こした。目を見開き、そこが自室のいつも通りの風景であることを確認すると、深く息を吐き出す。夢だ、夢だ夢だ夢だ。だから、大丈夫。そう自分に言い聞かせて。
癖のある茶髪をくしゃりとつかんで、奥歯をぎりりと噛みしめる。こびりつくような炎の匂いも、恐ろしい火の手も全ては幻だ。くんくんと鼻を動かすと、自分の部屋の中に少しだけ甘ったるい、花のような香りが混ざっている気もする。しかし、それらに対して神経を過敏にして、部屋からでられなくなっている場合ではない。空いている方の手で枕元に置いてある愛用の眼鏡を探り当てる。それをかけたところでようやく安堵感が戻ってきた。明瞭な視界が、しないはずの香りやかつての忌まわしい記憶を忘れさせてくれる、そんな気がした。
「おーい、湊。朝飯だぞー」
男のしゃがれ声が少年を呼ぶ。しぶしぶパジャマ姿で立ち上がって、彼は廊下へとつながる扉を開いた。廊下のひんやりとしたフローリングを踏みしめ、いつものようにダイニングテーブルの定位置に座る。ふと、キッチンのカウンターからこちらを覗く男と目が合って、少年――夜鷹湊は思わず目を逸らす。
「どうした、湊。元気無いじゃねぇか」
無精髭を生やした男が、心配そうな顔でこちらを見ていた。男の着ている服はラフなTシャツにジーパン、さらにボロボロのジャンパーを羽織っていた。片手には目玉焼きの乗ったフライパンを、反対の手にはフライ返しを持っている。ぼさぼさの髪の毛が、寝癖のせいでさらに飛び跳ねている。
「なんでもねーよ、おっさん」
「ケッ、それが義理とはいえ息子のとる態度かよ? 全く、最近の若いのは可愛げが無いなぁ」
細かく詮索されるのが面倒くさくて、湊はぷい、と顔を逸らす。湊の養父――夜鷹譲は頬をふくらませながらも、半熟卵の目玉焼きを皿に乗せていく。一枚、二枚と平たい皿に熱々の目玉焼きを置いて、今日も朝食が始まる。
「んじゃ、いただくとするか」
ベーコンとクルトンの乗ったシーザーサラダに、オニオングラタンスープ。かりかりに焼けたバゲットには柔らかそうなバターがとろりと乗っていて、グラスには牛乳が注がれている。実に美味しそうな朝食を前にしてもなお、湊の顔色は優れなかった。
「話は聴いてやる。が、まずは食え。な?」
フォークとスプーンを手渡され、湊は深く溜め息をついた後、それを受け取った。
「……イタダキマス」
「おっさんは、悪夢を見たことがあるか」
あらかたの食事を終え、デザートに用意されていた高級そうなゼリーをつっつく譲に、湊はぽつりと呟いた。息を深く吸っては吐き、牛乳の入ったコップを持つ手がぶるぶると震えている。ただならない少年の様子に、譲はあごの無精ひげを触りながら耳を傾けた。
「俺か? まぁ、ないわけじゃないな。ある病気になった時、特効薬だって言って飲み続けてた薬の副作用で、毎晩うなされてたなぁ……。何でだ?」
「原因は不明だけどな、このところ毎日見てんだよ、悪夢。おかげで2時間も眠れやしない」
目の下の隈をぐりぐりと押しながら、湊は自嘲的に笑った。異常に憔悴した様子が伝わったのか、譲は眉間にシワを寄せた。
「魔術か」
こくり、と湊は頷いた。目が覚めるといつも、誰かの魔術の残り香が、煙の匂いに混ざっているのだ。湊はあまり魔術的な方面に明るいわけではないが、優秀な妹を支えるためにある程度の知識は身につけさせられていた。そんな彼の得意なことは、魔力の探知と発動している魔術を消滅させることだった。もっとも、魔力探知は意図的にしていると言うよりも、本能のようなものだったが。
夜鷹湊も、その養父である夜鷹譲も、魔術師の血を引くニンゲンである。魔術とは、大気中に微量に存在する魔素を体内で魔力に変換し、尋常ならざる力を行使する技術だ。魔素を魔力に変換する体内の代謝機能を魔素回路と呼ぶが、その機能が優れていればいるほど、強い魔力を持つと定義されている。
夜鷹家はその中でも、言詠と呼ばれる魔術師一族である。言詠はその名の通り、詩を紡ぎ、歌を謳い、文字や言葉による魔術を得意とする。夜鷹家の他には、白鳥、青鷺、烏丸、斑鳩等といった家柄が言詠だったなあと、湊はうろ覚えの記憶を引っ張り出す。思い出したくない記憶は、奥の方にしまっておく方が良いことを彼は知っているからだ。
数年前まで、湊の名字は夜鷹ではなかった。白鳥湊という名前で、本当に普通の中学生として毎日を暮らしていた。しかし、三年前。彼を発端とした“とある事件”によって彼の両親が昏睡状態に陥り、妹ともども心身に深刻なダメージを負った湊は、その事件の責任を取らされる形で白鳥家の当主である祖母から勘当され、白鳥の名字を剥奪されたのだった。
魔術師にとって名前の一部を剥奪されることは、己の存在が不安定になることと同義である。自暴自棄になって絶望し、精神的にぼろぼろになっていた湊を養子に引き取ったのが、目の前に座っているお人よしの養父だった。どうして湊を養子にしようと思ったのかなど、詳しい思惑は三年間一緒に暮らしていても全く読めない。だが、人間不信気味の湊でも、譲に対しては信頼感を抱けるようにはなってきた。現在は譲と湊の二人だけで、共にマンションの一室に暮らしている。最近は少し、家族らしいやり取りもできるようになってきた。
妹のことを思い出そうとすると、どうにも頭がちりちりと痛み、記憶がうまく思い出せない。無理やり思い出そうとした時は、突然目の前がブラックアウトしたり、胃液が逆流するような気持ち悪さに襲われるため、譲には無理に思い出すなと厳命されている。そのため、以前養父に妹――白鳥栞のことを尋ねたときに「お前は心配しなくて良い」と言われたことだけを支えに、安定した精神状態で生活していた。その矢先に、今回の悪夢だ。誰かが意図的に見せているとしたらば、悪趣味極まりない。
「おっさんには迷惑かけたくねーけど、正直もう限界なんだよ」
譲は半透明のゼリーを掬い取り、プラスチックのスプーンを口に運ぶ。湊はどこか遠くを見たまま、ぞんざいな口調で言った。毎日甘ったるい花の香りを嗅ぎ続けたせいで、唯一の特技である魔力探知すらもなまくらになりそうな不安が、彼の心中を占めていた。しばらくの間はあまり譲と会話をせずに彼の目を誤魔化し続けていられたものの、湊の精神状態は既に限界を超えつつある。一番近い人間を騙せるほどの気力はもはや存在しなかった。
「いけるか、学校」
「まぁ、何とかする」
「もし辛いなら帰ってこいよ。くれぐれも、無理はすんな」
無邪気な子供のように、養父はにかっと笑った。その笑顔に励まされるように、湊は教科書の入った鞄を持って、ゆっくりと椅子を立ち上がった。