望月の晩
幼い頃より幽閉されている僕は、外の世界を知らない。
なぜ僕がこのような境遇にいなければならないのか、その理由も知らない。
知っていることといえば、僕がこの頑丈な鉄格子の中で暮らさないといけないのはこの体の中に流れる呪われた血脈が関係しているから。それだけだ。
僕の血筋は代々続く商家らしい。らしいというのはあくまで伝聞で知った情報だからであって、実際に僕の家族が商家としての職務を全うしているところを見たことはない。
商家とはつまり商いをする人たちのことだ。僕の家はどうやら江戸時代から続く老舗商家であるらしく、平成の現代でもそれなりに大きな店舗を構えるだけの財力があるそうだ。
そうだ、らしい、とのことだ――僕はそれ以上のことは一切知らない。
これらのことは全て僕の世話係の明歩が教えてくれた。
明歩というのは僕より五つほど年上の世話係のことで、昔からなにかと僕の面倒を見ている。といっても、それほど手間のかかることではない。
ただ彼女は火のついたローソクを持ってこの薄暗い地下室へやって来るだけだ。明歩は鉄格子の隙間からおそるおそるローソクを中に差し入れると、すぐに手を引っ込めてしまう。
誰もとって食ったりしない。いや、食ってしまうから僕は牢屋に閉じ込められているのだ。
「ぼっちゃまは……」
明歩は格子から数メートルほど離れたところからよく話しかける。昔は僕のことを恐れていたようだったのだが、既に慣れたらしい。彼女はいろいろなことを僕に教えてくれる善良な人間だ。僕は彼女のことを心底から気に入っている。唯一気に食わないことがあるとすれば、僕のことを『ぼっちゃま』と呼ぶことぐらいだろう。
「なんだ?」
僕の声は嗄れている。これでもまだ十代なのに、これではじじいも同然だった。
「ぼっちゃは、外の世界に行ってみたくありませんか?」
「……もしもの話か?」僕は空想の話は嫌いだ。「興味がない」
「違います。もしもの話ではありません」
明歩はそう言うと胸元から鍵束を取り出した。
「よろしければ、外に出ませんか?」
「馬鹿なことを言うな」
僕は呆れ返ってしまった。――今更何を言うんだ?
僕がこの薄暗い地下の牢獄に閉じ込められているのには訳がある。それは、僕が怪物だからだ。
江戸時代から続く老舗の商家である我が家には、脈々と受け継がれているある掟がある。それは『始末』と呼ばれている。
始末とは本来、商人が計画をたてることを指す。
金勘定にうるさい商人は寸分の狂いもなく利益を計算しなければならず、始まりから終わりまで一貫とした計画性が求められる。
始まり、そして終わりがやってくるまで商人は始末を守らなければならない。
我が家の始末。それは紅い瞳を持つものを外に出してはならない。それだけだ。
なぜそのような始末があるのか、詳細はわからない。ただ一つわかることは、それを破ると恐ろしいわざわざいが望月の晩に訪れるらしい。
望月、つまり満月のことだ。
そして僕の瞳は、常人とは違う赤い眼であるらしい。
そういえば、今夜は満月ではないのだろうか?
「不憫でなりません」
明歩は顔を背けて、そっと呟いた。
「ぼっちゃまの境遇はとても見ていられません。このまま死ぬまでここで暮らすなんて、私だったら耐えられません」
「それはお前が外の世界を知っているからだ。僕は外の世界なんて知らない。だから……」
――どうも思わない。
本当に?
僕は自問自答した。本当に外の世界に興味がないのか?
僕にとっての世界とは、この明かり一つない薄暗い地下室だけだ。それ以上でも以下でもない。
そういえば、両親の顔を見たのも随分昔のような気がする。ここ最近は明歩の顔しか見ていない。
影のせいで明歩の顔がよく見えなかった。だが、その口元が少し歪み、何か言葉を発したような気がした。
「お逃げください。もうすぐここに鬼がやってきます」
「鬼?」
「そうです。鬼でございます」
鬼とはなんだ?その疑問を口にしたものの、要領を得る答えは得られなかった。明歩はただ「鬼は鬼でございます」とだけ言った。
「鬼とは、人ではない者です」
――人の理を破れば、誰でも鬼でございます。明歩はそう言うとささっと鉄格子に近寄る。そしてこちらの了解をとることなく、鍵を開けてしまった。
一体いつぶりだろう?いや、もしかしたら初めてなのかもしれない。今まで僕を閉じ込めていた鍵が開き、キィと軋むような音がした。
扉は空いてしまった。ローソクの炎がゆらめく。明歩の人影がゆらゆらと壁にうつり、揺らいだ。
明歩は物憂げな顔をして、そのまま階段を登っていってしまった。最後に「お逃げください」とだけ言う。
――逃げる?どこに?
僕にとって世界はこの鉄格子の中だけなのに。逃げ場所なんて、どこにもないのに。
この世界がなくなったとき、僕はどこにいけばいい?
――鬼がやってくる。
その言葉が妙に脳裏に焼き付いて離れなかった。
みしり。何かが軋む音がした。
天井からか、それとも地面からか……
みしり、みしり、みしり、みしり……
揺れている。そう、これは地響きだ。
地震?まるで何か、巨大な者がやってくるような、足音に似た地震が何度も繰り返された。
何かが、やってくる?
途端に恐怖が湧きおこった。僕は開かれた扉を走り抜け、明歩と同じように階段を上った。
生まれて初めて登る階段はきつかった。体が重く、バランスを崩しては転び、壁にぶつかり、それでもとにかく上へ上へと駆け上がった。
やがてどこかの部屋に飛び出た。
干し草のような畳の匂いと、どこか鉄っぽい匂いがした。
――なんの匂いだ?
僕は襖を開いた。するとそこには、骸が転がっていた。
骸はひどく恐怖したような顔をしていた。だらしなく開いた口角からは血泡が吹き出し、目は白目をむいている。
腹をかっさばかれたのか、畳に内蔵のようなものをぶちまけていた。
――なんだ?
「鬼?」
知らず知らずのうちにその言葉が口から漏れた。
「鬼?鬼?鬼ってなんだ?」
うううううううううん、うううううううん、ううううううううん……
今まで聞いたことがないようなけたたましい音が突然鳴り響いた。
なんだ?なんだ?何がやってくる?
――鬼がやってくる。
明歩はどこにいった?鬼とはなんだ?
僕は絶叫した。骸を蹴り飛ばし、ただ闇組の絶叫して、そして外に飛び出した。
家の外には白と黒のよくわからない巨大な鉄の塊があった。その前には青い服を来た男どもが目を見開いてこちらを見ている
「警察だ!両手をあげろ!」
なんだ?なんだ?警察って、なんだ?
鬼?鬼?鬼?
「うわあああああああッ!」
「う、撃て!」
青い服を来た男どもは何か黒光りするものを僕に向けた。それは強烈な赤い炎を噴射したかと思ったら、次の瞬間体に激痛が走った。
なんだ?なんだ?
胸元をみると、黒い穴があいていた。
僕は外で、一体何を見たんだ?
初めて見た世界は、僕にとって恐怖の対象でしかなかった。
全身から力が抜け、ゆっくりと倒れていく最中、僕は見た。
青い服を来た男たちの後ろに、にやりと笑っている明歩の姿があるのを。
鬼とは、人の理から外れてしまった者のこというらしい。
なるほど、あれが鬼か。僕は薄れゆく意識の中、鬼の正体に気がついた。