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プロローグ

プロローグは2009年に掌編として、一話からは2010年にサイトで連載をした作品です。



 絶対に悟らせない。


 まどろむように暖かい地下鉄の車両の中で、どこに座っていたのかも、たくさんの同じ制服を着た人ごみの中、改札をどこから出たのかも、凍えるように冷え込んだ学校までの道のりを、誰と歩いていたのかも。その全てを知っていることを、絶対に悟らせない。


 ちょうど彼女と下駄箱で会える様にタイミングを見計らい、靴を脱ぐ。

「おはよう」

 一晩中求めていたその声に、本当はすぐに振り返りたい衝動を抑え、まだ彼女の顔は見ずに自分の靴を持ち上げ、扉を開けた靴箱へ入れ、いつも通り閉める。そこでようやく口を開いた。


「……おはよう」

「雪、降ってきたね」

「ああ」

三島みしまくん、あの……数学の宿題って終わった?」

「……また、やってないの?」

「やったんだけど、やっぱり全然わかんなくて」

 多分、今困ったように笑ってる。

「……」

「あの、」

「彼氏に教えてもらえば」

「……そうなんだけど」

「じゃあ、そういうことで」

  

 表情ひとつ変えないで廊下を歩き出す自分に、彼女は一歩前に出て顔を覗きこんできた。

「三島くんじゃなきゃ、駄目なんだよ」

「なんで」

「なんでって……。頭いいし」

「頭いい奴なんてもっと一杯いる」

「わかりやすいし」

「……」

「……ごめん。しつこかった?」

 立ち止まり、そこでようやく彼女に顔を向ける。制服の上にコートを羽織り、髪が揺れている首元には何もない。さっきまでマフラーを巻いていた筈だ。視線を下ろすと、それは彼女の手にあった。


春田はるた

 思わず彼女の苗字を呼ぶ。彼女は唇を半開きにして、俺の次の言葉を待っていた。

「……」

「どこ」

「え?」

「わかんない問題」

 途端に彼女の顔が輝き、堪らず目を逸らしたくなるのを何とか抑える。

「あ、あのね、半分くらいあるんだけど」

 そこで大きく溜息を吐いて、思いきり面倒くさそうな顔をしてやった。

「俺、頭の悪い女ってほんと嫌いなんだけど」

 今ならまだ間に合う。俺が言った事なんかまともに受けてないで、そのまま先に教室に行けよ。そう思う気持ちとは真逆の、自分によって打ちのめされる彼女の顔を渇望する自分とがいた。

「……」

 結局、目を伏せて哀しい面持ちをし、自分の傍から離れようとはしない目の前の彼女から言い知れぬ満足感を得て、歩く方向を変えた。

「どこ行くの?」

「図書室。教室でお前に教えてたら、宿題やってない他の奴まで来るだろ」

「いいの?」

「早くしろよ」

 時間が無い。ふつふつと沸き上がるもどかしさを、無理やり胸の奥にしまい込み、出て来られないよう上から強く押さえつけた。


 朝の図書室はほとんど人影もない。彼女の正面に座る。

「自分でやんなきゃ意味ないから、ヒントだけやる」

「ありがとう」

 いかにも、目の前で嬉しそうに笑う彼女の為だと言わんばかりの口調で、問題を解けるよう教えてやる。本当はこんな面倒なことはしないで、ノートを貸すだけでもいい筈なのに、ただこうして彼女を独占できる時間の為だけに、ここにいた。


 予鈴が鳴り、あと一問という時に彼女が言葉を発した。

「三島くんて」

「……」

「何で彼女いないの? もてそうなのに。みんな言ってるよ」

「……」

「告白とか、されないの?」

「黙れよ。終わらせないんだったら、先行く」

「う、うん」

 腹立たしさを露にし、そのまま頬杖を着いて彼女の手元を見る。


「ごめんね三島くん」

 彼女は何故かまた謝った。

「何が」

「いつもごめん」

「謝るんなら何で他の奴に頼まないんだよ」

 ――早く。

「……ほんと、何でだろう」

 彼女のシャーペンの動きが鈍くなる。

「三島くんじゃなきゃ、なんか駄目……なの。自分でもよくわからない」

 彼女は、今朝言った言葉を再び繰り返す。

 まるで自分の気持ちを疑うことを知らないその言葉にイライラしつつも、嬉しさで震え出しそうになるのを必死で堪えながら、少しだけ身を乗り出し、目の前の彼女の顔に近付いた。鼻腔をくすぐるその香りに一瞬だけの喜悦を感じ、溺れないように何とか留まらせる。


 ノートに置かれた彼女の左手に自分の右手を重ね、上から包み込んでゆっくり紙の上を滑らせ、下から現れた文字を、人差し指だけずらして指し示す。

「ここ、違ってる」

「!」

 わざと低い小さな声で囁いてやった。赤くなった顔を上げ、目を大きく見開き、目の前の男の手から逃れようとしている彼女の湿った瞳を見つめ、口元にほんの少しだけ笑みを乗せた。彼女は俺の目からも手からも逃れられない。視線の奥を探り合うように、お互い見つめ続ける。


 ――早く、気付けよ。

 何で俺じゃなきゃ駄目なのか、早く気付け。


 顔を逸らす手前の一瞬だけ笑みを消し、突き刺すような視線に変えた後、彼女から手を離し、椅子の背もたれにだらしなく寄りかかりながら言葉を吐き出す。

「告白、されたよ」

「え……ほんと?」

「ほんと」

「付き合うの?」

「さあ?」

「……」

 ノートに視線を落とし、目は合わせてやらない。動揺が見て取れる彼女が持つシャーペンは、文字を綴ることを許されなかった。


 絶対に悟らせない。


 こうして目の前にいる時、どうしようもなく抑えがたい気持ちに苛まれていることも、自分を見失ってしまうくらい、彼女を好きでたまらないことも。

 今、何でもない顔をしながら、ズボンのポケットに突っ込んだ彼女の感触を確かめずにはいられない自分の右手を、痛いくらいに握り締めていることも、一日中彼女の仕草や言葉に埋め尽くされた自分の心に、引き裂かれそうになっていることも……絶対に悟らせるわけにはいかない。


 彼女のこちらを見ている動かない視線に、顔を上げる。

「……」

「何だよ」

「……」

「何」

「……わからない」

 彼女の疑問に諭してやるように、普段絶対に聞かせたことのない優しい声を出す。

「……わかるように、説明してほしい?」

「え……どっち、を?」


 彼女の困惑を確認した時、本鈴が鳴った。


 最後の問いには答えず席を立ち、図書室を出、教室へ向かう。

 渡り廊下へ出ると寒さの為か、二人の息は白い。それは何の躊躇いもなく吐き出され、一瞬で消えた。降り始めていた雪はいつの間にか水気を帯び、地面に触れた途端、昨夜降っていた雨水のぬかるみに混じり、美しさの微塵もない卑小な飛沫を上げ、それでも諦めずにただ静かに重みを持って落ちてくる。


 歩きながら隣でひたすら無言になる彼女が、自分には嬉しくて可笑しくて仕方が無い。その沈黙に、確かに届いた彼女の困惑に、込み上げる悦びを隠す為、口元に微かに震える手をあてた。


 今日も少しずつ追い詰めて、彼女の心の入り口から、ゆっくりと中に入っていく感触を心地よく感じる準備をする。


 朝も昼も夕方も、長い夜も、自分の心は絶対に悟られないように。さっき見た、一瞬で汚れていく泥の中に堕ちていくようだと、怯えながら。






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