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第六話

 なんだか悪い予感がした。言い知れぬ胸騒ぎ。虫の知らせというやつだろうか?昔から悪い予感はよく当たる人だった。当たって欲しくない事に限って特に。今の私にとって良くないこと。思いつくのは一つだけ。昨日からの不安感の延長だという打算的な考えは今の私にはできない。今日は仕事は休むことにしよう。

 なんだかいちわの様子がおかしい。食事をしている時も後片付けをしている時も、いつもならいつもなら話をしたり、騒いだりしているのに今日は妙に静かだ。おかしい・・おかしい・・・昨日から歯車が狂ってしまったようにそこにあった日常が変わっていく予感。いや、単にいちわの体調が良くないだけなのかも知れない。ほら、顔もなんだか微妙に強張っているようだし、心なしか顔色も良くないように見える。そんな打算的で良いのか私?そうやってそこにある現実から目を背けようとしているのではないか?

 「どうしたのいちわ?」

 「え?」

 「なんだか物静かだから。体調悪い?」

 「うん・・・ちょっと・・・」

 「だったら薬呑んでゆっくり寝なさい。今日は私仕事休みだから」

 正確には休みではなく休んだのだが、その辺りは伏せておく。そんなものはどっちでも良いことなのだから。

 「そうなんだ・・・・じゃあ、丁度良いかな」

 「そうね。家事は私が全部やるから、あなたは大人しく寝てなさい」

 「そうじゃなくて・・・」

 そうじゃない?なにがそうじゃないんだ?いちわの言っていることの真意がつかめない。真意をつかもうと必死に考えようとする。それと同時に考えてはいけないと本能が告げる。そして迫り来る言いようのない不安感。

 「あのね、沙希ちゃんに大事な話があるの」

 大事な話・・・大事な話ってなに・・・?いや、もう誤魔化すのは止めるんだ一宮沙希!もう、どんな話があるのか、大概予想はついているんでしょ?逃げるな。目を背けるな。それでも私の予想している事と違う事をいちわが話してくれる事を望んでいる。それはとても確率の低い事ではないか?それでも、わずかでも可能性があるのなら、やはりそれにすがりたい。

 「話ってなに?」

 自分の声が妙に重くなっている事が自分でもわかる。場の空気が一気に重くなる。私は今一体どんな顔をしているのだろう?平静を装う事ができているだろうか?いや、あんな声を出してしまったのだ。装う事なんかできているわけがない。

 「あのね、私・・・」

 そこでいちわは一度言葉を切った。私は何も言わずにいちわの次の言葉を待った。しばらくの沈黙。いちわが意を決したように口を開き、言葉を発しようとしたその時、玄関のチャイムが鳴った。こんな朝早くから誰だろう?立ち上がって玄関に出ようとするいちわを「私が出る」と一言言って制し、私は玄関に出た。チェーンはかけたままで、鍵を開けてドアを開く。そこには中年の男性が立っていた。

 「朝早くから申し訳ありません。私、綾小路と申しますが、こちらにいちわという女性が居ると思うのですが?」

 全身から血の気が引いていくのがわかる。居ませんか?ではなく居ると思うのですが?とと言って訪ねてきた。これはもういちわがここにいることを確信している。この人は何者?

 「お父様!」

 いつのまにか後ろにいちわが立っていた。気配がまったくわからなかった。いや、それほどまでに私が呆然としていたのだろう。そんなことより、今いちわ・・・・この人の事お父様って言った・・・・?ということは、やっぱり・・・やっぱり・・・

 「いちわ・・・あんた記憶が・・・・」

 戻ったの?そこまでを口にする事はできなかった。だが私の言おうとした事は伝わったらしく、いちわが小さく頷いた。ああ、やはり悪い予感は当たってしまったんだ。こうしていちわの父親も迎えに来ている。そうだ、もう私達の二人での生活は終わりなのだ。

 「桜、家に戻りなさい」

 「今更そんな事を言うのですか?お父様が出て行けと言ったのではないですか」

 いちわの父親がその言葉で黙ってしまう。沈黙が続く。その沈黙を破ったのは私だった。

 「あの・・・とりあえず中にお入り下さい。ここ、マンションですし、立ち話もなんですから・・・」

 そういって私はいちわの父親を部屋の中に招き入れた。いちわはびっくりしたような顔で私を見て何かを言いたそうにしていたが、私はそれを無視した。


 私の隣にいちわ(桜と言うべきだろうか?)、テーブルを挟んで向かいにいちわの父親(名を綾小路庄造というらしい)という位置関係で私達は座っている。庄造さんが自分の名前を名乗って以降、誰も口を開かない。かれこれ十分くらいはみんな黙り続けている。重い沈黙、重い空気。

 「桜、家に戻りなさい」

 その沈黙を破って庄造さんが口を開く。先ほどと同じ台詞。

 「ですから、私は家には戻りません。そもそも出て行けとおっしゃったのはお父様じゃないですか」

 「まさか本当に出て行くとは思わなかったのだよ」

 「そう申されましても、私の意見は変わっておりません。私は私のやりたいようにやらせていただきます」

 「だから、お前のやりたいこととはなんだ?」

 「まだわかりません。でも、少なくともお父様の言うとおりに従っている事でないことだけは確かです」

 庄造さんの顔が怒りに染まっていく。気分を落ち着けようと必死で息を整えているのがよくわかる。桜は表情を変えないままじっと父親の姿を見据えている。いつものような雰囲気はまるでない。ここにいるのは紛れもなく、私の知っているいちわではなく、綾小路桜なのだ。庄造さんが気分を整え終わると、考え込むようにまた黙ってしまった。だがすぐに意を決したように口を開いた。

 「・・・・・わかった。そこまで言うのならお前の好きなようにするが良い。私ももう何も言わない。しかし、家には戻りなさい。いつまでも一宮さんのご自宅にお邪魔しているわけにはいかないだろ」

 庄造さんはそう言うと私に同意を求めるように視線を私の方へ移す。桜も私に視線を注ぐ。そんな事無いです。私は迷惑ではないですからこの子はここに置いて上げてくださいと、言って欲しそうな眼差し。期待と不安の入り交じった視線。もちろん私だって桜と一緒に暮らしていきたい。あの楽しい毎日をいつまでも続けていきたい。

 「そうですね、いつまでも居られても私も困ります」

 自分の考えている事とは正反対の言葉が口をついて内心自分でもびっくりしている。しかし、その声色は冷静そのものだった。桜が目を見開き、驚いた顔を見せた次の瞬間一気にその顔を曇らせる。

 「元々桜さんの記憶が戻るまでという話でしたし、こうしてお父様自らが迎えにいらしたのですから私が桜さんをここに置いておく理由はありません」

 なんでこんな事を口走っているんだろう?私はこんな事を言いたいんじゃない。

 「桜、支度をしなさい」

 「ここに私の荷物はありません。何も持たずに出て行きましたから」

 そう言って桜は庄造さんの後に付いて玄関に行く。私も見送りをするためにその後を追う。出て行く直前で桜は一度私を振り返った。

 「沙希ちゃん、この一週間ありがとう。どこの誰とも解らない私をここに置いてくれて。凄く嬉しかった。沙希ちゃんが付けてくれた「いちわ」っていう名前もすごく好きだった。たったの一週間だったけど、すごく楽しかった。ずっとこんな時間が続いたらって思ってた。失敗ばかりで沙希ちゃんに迷惑かけてばっかだったけど、いつかテキパキとなんでもこなせるようになって、沙希ちゃんをあっと言わせたいって思ってた。でも、それはもう叶わないんだね。仕方ないよね。沙希ちゃん、本当にありがとう。楽しかった」

 桜はそう言って踵を返し歩き出そうとする。

 「桜!」

 私はつい呼び止めてしまった。なんと言うべきなのか、そう言う事は何も考えないまま。私は、何を言うつもりなの?桜はもう一度振り返った。桜はちょっと怒ったような顔をしていた。私はその顔に罪悪感を感じた。そうだ。私は桜に怒られて当然なのだ。桜のあの助けを求めるような視線を無視したのだ。私は桜を見捨てたような物なのだ。

 「沙希ちゃんには・・・桜じゃなくて、いちわって呼んでほしいな」

 しかし、桜から出た言葉は予想もしていないような物だった。「いちわって呼んでほしい」・・・か

 「うん、解ったわ桜・・・じゃなくて、いちわ」

 そういうといちわは微笑んだ。その微笑みはぎこちなく、笑みよりも寂しさの方が多く滲み出ていた。

 「なに?沙希ちゃん」

 私もいちわと同じ気持ちだよ。私もいちわと一緒に暮らしていきたい。ずっと二人で楽しい時間が続いていったらって思ってたよ。そう言いたい。でも言えない。さっきいちわの助けを求めるような視線を裏切ったじゃないか。それなのにこんな事を言うのはムシが良すぎるのではないか?むしろ、そんな言葉は真実味を持たない、ただの社交辞令的言葉としていちわには受け取られるだろう。いくら私が本心だと言ったところで、さっきの私の台詞から考えれば当然の事。私はなんで・・・どうしてあんな事を言ったんだろう。悔やんでも悔やみきれない。いちわが私の言葉を待っている。何か・・・早く何か言わなくては・・・

 「・・・・・元気でね」

 「うん」

 他にも言うべき事がいろいろあるだろうに・・・私にはそれだけしか言う事ができなかった。庄造さんが「桜」といちわに呼びかける。いちわは踵を返し、歩み出す。最後にいちわはもう一度振り返りこういった。

 「ばいばい、沙希ちゃん」

 今度は私はなにも言う事ができなかった。いちわが遠ざかって行くのをただ黙って見ている事しかできなかった。

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