第五話
自宅まで全力疾走した私達は二人して床に倒れ込んだ。が、暑さに耐えきれず私はすぐに起きあがり、窓を全開にする。夕暮れ時の涼しい風が部屋に入ってくる。それに満足した私は再び床に倒れ込んだ。二人ともしばらく何も言葉を発さないまま黙っていた。十数分ほどした所でお互いの呼吸も戻ってきたので私は口を開いた。
「なに・・・あれ・・・・・?」
さっき私達を襲ってきた二人組について、私はいちわに尋ねた。
「んー・・・・わかんない」
まあ、当然と言えば当然か。いちわには私の所に来た時以前の記憶がないのだ。私の所に来てからは家事をしているだけでどこにも出かけることはない。買い物も一人で行かせるのが不安だったから私と一緒に二人で出かけるようにしていた。あの二人組、明らかにいちわをいちわと解っていて、いや、いちわの正体が、いちわが本当はどこの誰なのかわかっていて私達に接触してきた。しかも私のような人間とは居られる存在ではないと言った。今更になって不安に思う。この子は一体何だろう?どうして記憶をなくしたのか?どうしてあんなやつらに狙われているんだろう?考えれば考えるほどわからないことばかり。やはり何かの事件に巻き込まれたのではないか?逆にこの子が首謀なんて事はないだろうか?いや、そんなわけはない。まだこの子と暮らし始めて間もないけど、それでもわかる。この子は事件を起こすような子じゃない。そんなことができるなんて到底思えない。じゃああの二人はなんだったのだろう?・・・・だめだ、堂々巡りをするだけだ。でも考えずにはいられない。この子は一体・・・・・?
「風が気持ちいいねぇ〜・・・・」
私が思考に耽っている隣でいちわが目を閉じて気持ちよさそうに言った。その脳天気さにちょっとむっとした私はいちわに詰め寄った。
「あんた・・・あの二人について何も思わないわけ・・・?あんたの事知ってる風だったし、あんたの無くした記憶に関する事かもしれないのよ?」
「ん?う〜ん・・・・まあ、なんとかなるよ」
うん、なるなる。と、もう一度繰り返し、いちわはまた清々しい風に身を任せ、はぁ〜気持ちいい〜・・・・と呟いた。当の本人がこんな感じで自分ばかりがあれこれ考えていることがばかばかしくなり、私は不安を残しながらも思考を止めることにした。そして私もいちわ同様に夕暮れの心地よい風に身を投じた。それからふと思い出す。
「そういえば今日夕飯ないから」
「え!?なんで!?」
「買い忘れ。冷蔵庫の中にも何もないし」
「じゃあレトルト食品とかは!?」
「そういう物はうちにないってあなただって解ってるでしょ?」
「むぅ〜〜じゃあどうするの?は!まさか今晩は抜き!?」
いちわがこの世の終わりであるかのような顔で大げさに叫ぶ。これで良い。いつものやりとり。こうやって今日の出来事は忘れてしまえばいい。
「あんたがそれで良いなら良いけど?」
「うぅ〜・・・・沙希ちゃんが意地悪する・・・・」
「ぷ・・・あはははははははは」
拗ね始めたいちわがおかしくて、堪えきれずに笑ってしまう。
「あー!沙希ちゃんひどい!笑った!」
私は懸命に笑いを堪え、ごめんごめんと適当に謝った。いちわはまだ不満そうな顔をしていたが、私が外食と出前どっちがいい?と聞くと途端に笑顔になり、間髪入れずに出前を選択した。
「なにがいい?」
「ピザ!」
またも即答するいちわ。その回答の早さにちょっとびっくりしていると、今日の新聞広告を取り出し、ピザ屋の広告を指してこれを食べたいって思ってたんだよ〜と満面の笑みを浮かべた。私はいちわのご所望通りの物を注文する。そうだ、これで良い。これで良いんだ。こうやって少しずつ今日の事を払拭していけばいい。不安も気にならなくなるくらいに楽しい日々を送ればいい。この時の私は何故か楽観的で、この楽しい時間が毎日毎日、いつまでも続いていくと信じて疑わなかった。いや、不安を拭い去るために無理矢理不安要素を楽観視していただけなのかもしれない。この楽しい時間も、そうだったら良いという希望を現実の物にしようと躍起になっていただけなのかも知れない。この楽しい時間が、いつまでもいつまでも・・・・。願い続けていればいつか願いは叶う。そんな物は子供じみた思考概念、自己暗示でしかない。そうと解っていても、今はそれにしがみついていたかった。不安の種が発芽してしいませんようにと、ただ願うだけ。
ここはどこだろう?誰かの家の中?見たことあるような無いような・・・思い出せない。そこでふと思い当たる。そうだ、これは夢の中だ。と、いうことは私はこの場所を知っている。でもわからない。ここはどこであっただろう?
「桜」
後ろから声がしたので振り返る。そこには中年の男性が立っていた。風格から威厳がにじみ出ている。この男性も見覚えが・・・ある・・・・?
「なんでしょうか、お父様」
自分の考えことに反して、私の口からはなんの躊躇もなくその言葉が出た。お父様・・・この人は私の父親・・・・?そして「桜」という呼びかけに答えた私。私の本当の名前は桜・・・
「学校を自主退学してきたそうじゃないか。一体どういうつもりなのだ?大学も出ずにどうするというのだ?」
「別にどうというつもりはありません。ただ、私はお父様の敷いたレールの上を走りたくないだけです。私は私の考えで・・・」
「生意気を言うんじゃない!お前のような世の中を何も知らないような子供が考えて行動ができるほど世の中は甘くないのだ!お前は私に従っていれば良いのだ!お前の行動は浅はかだ。学校を中退するなど、綾小路家の恥だ!」
「綾小路家の規定など関係ありません!私は私の道を道を歩みます!」
「だからそれが浅はかだと言っているのだ!何度言えば解る?お前はただ私の言うことに従っておれば良いのだ!」
「それがイヤだと言っているのです!」
「・・・・そんなに我を貫き通したいと言うのなら、この家から出て行きなさい。勘当だ」
「わかりました、出て行きます。二十一年間ありがとうございました」
それだけ告げて私は踵を返し、家を出て、愛用の自転車にまたがり走り出した。どこへ行くという訳でもなくただ闇雲に。しばらく走った所でお父様の秘書の人と執事の人が私を追いかけてきた。
「桜お嬢様!」
「桜様、お戻り下さい!」
あの二人が追いかけてきたと言うことは私を連れ戻せというお父様の命令が下ったのだろう。自分から出て行けと言ったくせに。私は二人を無視して、速度を上げて自転車を走らせ続けた。この先にある、誰に強制されたわけでもない自由な自分の人生を夢見て。桜の咲き乱れる街頭を走り抜けた。視界に薄い靄がかかっていき、夢はそこで終わった。