赤い瞳の侵入者(4)
こんな場面にあっても間抜けに響いたエルフェリスの声は、この場に集った者たちの視線を集めるには十分すぎる声量だったようだ。
親しげに言葉を交わすヴァンパイアと聖職者。
この場に於いて、ハンターたちの興味と注目を引くにはいとも容易いことだった。
誰も彼もが眉を顰めてエルフェリスとロイズハルトを交互に睨み付けている。その集団の先にはもちろん先ほどまで行動を共にしていたカイルの姿もあった。
彼はそれまでにない冷たい瞳で、エルフェリスの隣に立つロイズハルトをことさら鋭く睨み付けている。そのあまりの形相に、エルフェリスは思わず息を飲んだ。
「エル! 良い子だから戻っておいで。君は神官だろう? 穢れたヴァンプの元で暮らすだなんて……君までが穢れてしまう。それを神は赦すと思うのかい?」
そうやって掛けられた声はひどく優しいものに聞こえたものの、棘にまみれた彼の言葉はまるで裁きの杭のようにエルフェリスの心を貫いた。
神官だの神だの、普段は対して気にもならない事実が、こういう時に限ってエルフェリスの心を縛り付ける。
今さら何を、と思ってはみても、エルフェリスの中に住む聖職者としての自覚が時おり重たい枷となって邪魔をするのだ。
自分一人が糾弾されるならまだ良い。
だがそれを口実として、ヴァンパイアたちの領域に攻め入るきっかけを与えてしまうことがエルフェリスは怖い。
自分でも歯痒くなるほどに……。
カイルの言葉にすぐに反論できない自分が情けなくて仕方なかった。結局自分はどこまでも聖職者としての自分を捨てられないのだと自嘲する。
そんな葛藤に苛まれていたエルフェリスの隣では、ロイズハルトがふと笑みを零していた。
彼はなぜかひどく楽しそうにカイルの方を見つめていたが、ふいにこちらへと向けた瞳はそれとは対照的な光を湛えていた。
そうまるで、見る者すべてを凍り付かせてしまう光。
「……」
人知れず、背筋を冷たいものが流れていくのを感じながら、エルフェリスがごくりと息を飲み込めば、妖しく微笑むロイズハルトから一つの問い掛けを受けることとなる。
「ふふ。気にするな、エル。我らは闇の化身なれど、この身が穢れているなどとは一度たりとも思ったことは無い。それとも……エル。お前も俺たちが穢れていると思っているのか?」
エルフェリスの心を掻き乱すカイルの言葉に、螺旋を描くロイズハルトの言葉が交差する。
――彼らが、穢れている?
「……」
そんなこと、考えたことも無かった。
確かに始めはヴァンパイアのことなどただの知識としてしか知らなかったし、色々な現実に驚き、怯えながら今日まで来たのは事実だ。でも、そんな中にあっても彼らが、彼らの存在が穢れているだなんて、エルフェリスは一度たりとも思ったことは無い。
だから何度も何度も首を振った。
どうしてか、言葉がうまく出てこない。
ロイズハルトの冷たい瞳に身が竦んでしまったのだろうか。
それとも何かを発することで、それが偽りだと疑われてしまうのが怖かったのだろうか。
兎にも角にもエルフェリスは精一杯首を振ることで、ロイズハルトの疑問に答えるしかなかった。どの種族が優れているとか、穢れているとか、そんなこと自分には答えられないから。
唇を噛み締めてひたすら頭を振るエルフェリスに、少しだけロイズハルトの表情が和らいでいくのが分かった。それを見てようやく、エルフェリスの心にも安息が訪れる。
ふっと息を吐いて、それから再びロイズハルトに視線を戻せば、大きな手のひらで一度だけ頭を撫でられた。
「ふ、分かっているさ、エル。困らせて悪かったな」
そして闇の中でもきらりと輝く瞳で、エルフェリスに微笑みかけた。
その笑顔に、エルフェリスの胸が締め付けられそうになる。
こんな風に笑うこの男性が……好きでたまらない。
こんな風に、切なく笑うこの男性が……。
――迷う必要などない。
その瞬間、エルフェリスの中に宿る神が迷える自分にたった一言、そう言ったような気がした。そしてそれはエルフェリスの中に、エルフェリスの瞳に、確かなる光を与えてくれる。
自分の選択はきっと間違ってなどいない。
だから……。
「私は、私の目で見極めるために戻る。そこに穢れなど存在しないから。私のこの決断が許されないのなら、もう私のような……司祭のような聖職者はこの世から消されているはず。……そうでしょ? カイル」
自然と唇がそう言葉を刻んでいた。
ヴァンパイアは生きるために人間の血を必要とする。時に人の命を奪いながら。
しかしそれは人間が動物の肉を糧とするのと同じこと。その行為を穢れていると言うのなら、自分たち人間はどうなのだろう。人間とてヴァンパイアのことを非難などできない。
それに急進派以外のヴァンパイアは共存のために努力してくれているのをこの目で見ている。
だからエルフェリスは少しでも気持ちが揺らいでしまった自分を恥じた。
自分を取り戻したエルフェリスを見て、ロイズハルトも満足そうに頷いていた。
もちろんカイルは面白くなさそうだったが。
「無駄に争うのは止めようよ。……お願い……カイル。道を開けて」
自分でも滑稽な頼みであるとは解っていた。けれど、どうしても無益な戦いは避けて通りたい。
カイルも、ロイズハルトも、そしてルイも、エルフェリスにとっては大切な人たちなのだ。相対する立場にあっても、そんな人たちが目の前で争い合う姿をエルフェリスは見たくはない。
見たくはなかった。
しかしその願いはあっさりと破り捨てられる。
想像通りと言えばそれまでだが……、両者を引き裂いている溝はエルフェリスの言葉など一言も届かないほど深くて遠いのかもしれない。
非情だ。
痛いほどにそう思い知らされる。
そしてそれはすぐに、この身をもって再び痛感させられることになる。
「……わかった、エル。君がそうしたいのなら……そうすれば良い。でも……ならばなおのこと、このまま退くわけにはいかないな。無理やりにでも君を連れ帰るために、そこのハイブリッドどもには死んでもらわないと!」
カイルのその言葉と同時に、夜空に掲げられた彼の細い刀が鈍く光を発した。
そして狙いを定めるかのようにゆっくりと振り下ろされたそれは、真っ直ぐな軌跡を描きながら、とある高さでぴたりと止められる。突き出された切っ先が標的とするのはロイズハルトの喉元。
暗く沈んだ銀色の瞳が、美しく歪んだ口元と同時に細められた。
それを見つめるロイズハルトもまた、鋭いまでの眼光でカイルと対峙していた。
言葉や表情は無い。
一方、ハンターたちに取り囲まれていたルイは、この緊迫した二人の状況にもまったく動じることなく、ただ一人妖しい笑みを浮かべていた。
彼を取り囲むハンターたちの注意が一瞬にして一斉にカイルとロイズハルトに向けられたことがよほど興味深かったに違いない。
フードの中に隠された髪の毛を指先で器用に弄ぶ仕草が、彼の表情を何よりも物語っている。
しかしふと、しんと静まり返った静寂を切り裂くようにその口が開かれた。
「ふふ。どうやらあちらのハンターも随分とエルにご執心のようですね。……でも我らもこんなところでのんびりあなたたちの相手をしてる余裕なんて無いんですよ。蹴散らしてでも道を開けてもらいましょう。……もうここは飽きました」
細い身体の奥底に溜まる、すべての空気を吐き出すような大きな溜め息は、まるで戦いの火蓋を落とす合図さながら響き渡り、ヴィーダが戦場と化すにはさほど時間を要することはなかった。
どうしてこうなってしまうのかと自問自答しても答えは見つからず、ただこの場を生き逃れることだけがエルフェリスの唯一の役目として目の前に立ち塞がる。
傾く月が、嗤っている。