ある夜の出来事(1)
たとえば“それ”に気付かなければ、或いは何か変わっていたかもしれない。良くも悪くも。
あの夜に。
――全ては悲鳴から始まった。
「エルフェリス様、お加減いかがですか?」
「うん、もうすっかり元気! 心配かけてごめんなさい」
「まったくですわ。しばらく無茶は禁止でしてよ」
「はーい。……てか別に無茶なんかしてないんだけどなぁ」
「してます! この城にいらしてからずっとご無理をしていた気がしてなりませんでした。お疲れが出たのですわ」
そう言うのと同時に、リーディアは淹れたての紅茶のカップをエルフェリスに差し出した。
「ありがとう。……いただきます」
エルフェリスはそれをやや申し訳ない気分で受け取った。
熱い湯気に絡まり立ち上る、林檎の香り。
エルフェリスはリーディアの淹れてくれる紅茶が大好きだった。甘くて香りも豊かで、優しい温もりがほんの一時現実を忘れさせてくれる。飲み込んだ後の鼻を抜ける林檎の風味が忘れられない。
「あー美味しいね! 天気のいい日に庭園で飲めたら最高だろうなぁ」
「淹れるだけならいくらでも淹れて差し上げますわ。お供はできませんけれど」
エルフェリスが無意識に呟いたセリフに対して、リーディアはくすくすと苦笑しながらそう切り返した。その言葉に、エルフェリスはまた無神経なことを言ってしまったと少し自分の発言を後悔する。
リーディアはハイブリッドヴァンパイア。陽の元に出た途端に、その身を焼かれてしまうのだ。
「ごめんリーディア。私ったらついうっかり……」
口元を軽く覆いながら謝罪するエルフェリスを、リーディアはきょとんとした顔で見つめていた。
「なぜ謝るんですの? エルフェリス様にとっては当然に思うことですから、私に気を使うことなんてないのですよ?」
「うん……でもさ……」
「気にせずご自分らしく生きている方が、エルフェリス様って感じがして私は好きです。それに互いに互いの弱点を気にしていては真の共存などできませんわ。エルフェリス様は人間。私はヴァンパイア。でもはっきり言って生活時間帯が異なるだけのことですわ」
両者の違いなんてたったそれだけのことだと、リーディアは明るい笑顔でそう言ってのけた。だから何も気にする必要はないのだと。
「そ……そうだよね! そうだそうだ!」
あっけらかんとしたリーディアにエルフェリスはなぜかとても感化されて、不自然な同意を繰り返した挙句、慌ててカップに残っていた紅茶を飲み干した。
口から喉に広がる香りはやはり甘い。幸せの溜め息が出た。
「そういえばエルフェリス様。ルイ様にはもうお会いになりましたの?」
間抜けな顔で至福の溜め息を吐いているエルフェリスに構わず、リーディアはふと思い出したようにそう尋ねると、エルフェリスは小さく首を振った。
「まだなんだよね。一度わざわざ訪ねて来てくれたらしいんだけど寝込んでた時でさぁ……」
「まあ、そうだったんですか。ルイ様も帰ってくるなり色々お忙しいみたいですし、少しもったいなかったですわね」
そうとは言ってもリーディアはその後すぐに、また明日にでも訪ねてごらんなさい、と微笑んだ。
実はエルフェリスもそう思っていたところだ。
本当にタイミングも良くありがたいことに、この城の最上部という領域に部屋を用意してもらっていたから、初めの頃のように城内を駆け回らずともルイの居室を把握することだけはできていた。
だがリーディアの言うように、ルイはいつもどこかに出掛けているようでなかなか部屋には戻らない様子だったから、そういう点ではやはりある程度城内を探し回る必要はありそうだ、とエルフェリスは考えていた。
だが。ルイとの初対面はその後すぐに実現することとなる。
何とも言えない衝撃を伴って。
それは夜も明けるか明けぬかという時分だった。
森の中で目覚めた小鳥たちのさえずりが聞こえ始めた頃。
身を切り裂かんばかりの悲鳴が、静まり返った居城内にけたたましく響き渡った。
「なにっ?」
ヴァンパイアたちと同じようにまどろみかけていたエルフェリスは、その叫び声に一気に現実に引き戻された。
そしてとっさに上掛けを跳ね除けて飛び起きると、そのままベッドから駆け下りて窓辺まで転がるように駆ける。そして勢いよくカーテンを開けた。
「は……」
朝焼けの空が暗い室内を赤く照らし出し、それを見つめるエルフェリスもまた同じ赤色に染められていた。
けれどそれだけで、特に変わった様子は見受けられない。
念のために窓も開けて周囲を見回してみたものの、瞳に映るもの、それはいつもと同じ朝の風景だった。
「?」
外部の異変でないとすると、あの声はこの城のどこかから響いてきたのだろうか。
それともただの勘違い?
訝しげに思いながらも、エルフェリスはまた眠りに就くために、ほっと一息吐いてから窓とカーテンを閉める。
だがやはり何かが気になって、その後自然に足は部屋のドアへと向いた。
ノブに手を掛けつつも、耳をドアにぴたりとくっつけてまずは外の様子を窺う。不審な物音は聞こえなかった。
「……空耳?」
やはり自分が聞き間違いをしていたのだろうかと疑ってしまいたくなるほどに、夜明けを迎えた城内はひっそりと静まり返っていた。
しばらくその体勢のまま外で何か動きがないか探ってはいたものの、そうこうしているうちに目は冴え、眠りに就く気も失せてしまった。
何もないならそれで良い。
また新たな眠気が訪れるまで少し散歩でもして来ようと思い立ったエルフェリスは、恐る恐るドアを開けて、それでも確かな一歩を踏み出した。
ドアを閉める音ですら、余韻を残して響く。
そんな中注意深く周囲に視線を巡らせると、回廊の少し先を歩く者の姿が目に入った。足早に、エルフェリスのいる場所から遠ざかっていくあの後姿……。
「……ロイズ?」
自分にも聞こえるか聞こえないかほどの声で、エルフェリスはその名を呟いていた。
普段なら彼らも今頃眠りに就く時分のはずなのに、部屋とは別の方向に向かって歩くロイズハルトの後をエルフェリスは反射的に追いかけていた。
広くて冷たい回廊を足早に歩く彼の姿を見失わないよう、努めて足音を立てないよう注意しながら小走りで付いて行く。
ロイズハルトをはじめとするヴァンパイアは五感が人間よりも優れていると聞くから、エルフェリスの立てる物音にも反応して、後をつけていることがばれてしまうかもしれない。もし気付かれてしまったら、眠れないので散歩をしていたとごまかせば良いと考えていたが、ロイズハルトがどこへ向かっているのか興味があった。
だからエルフェリスは彼を見失わない程度の距離を保って、時には柱や物陰に身を隠しながらその後を追った。
「……ってコレじゃロイズのことが気になるみたいじゃない……」
そこからまた少し進んだところでふと我に返ったエルフェリスは、自分の行動に疑問を感じて立ち止まった。
妙な叫び声を聞いて飛び起きて、でも状況を確認したものの何もなくて、仕方がないから散歩に出たはずなのに気付いたらロイズハルトの後を追っている。
わずかな間に随分な行動の変化が見て取れて、エルフェリスは自分でも戸惑った。
だがそれでも、どうしてだか分からなくても、ロイズハルトの姿を見た途端に目が離せなくなった。どこへ行くのか、誰の元へ行くのか、気になって仕方がない。
「なんでだろ……」
自分の行動に自分で小首を傾げながらも、その瞳はしっかりとロイズハルトを探している。
だが立ち止まってほんの一瞬目を逸らしていた間に、ロイズハルトの姿をすっかりと見失っていた。
「あれ? あれ?」
小さな子供でもないのに、ただそれだけなのに、ひどい不安に襲われた。
暗い回廊のど真ん中、迷子のようにきょろきょろと周囲を見回して、消えたロイズハルトの姿を捜す。
だがやはり見当たらないところをみると、この辺りの部屋にでも入ったのだろうか。見れば、同じような造りの部屋がずいぶんとたくさん並んでいた。
ここもエルフェリスの部屋と同じ最上部ではあったが、この辺りはまだ足を踏み入れたことのない領域だったゆえに、どこにどんな部屋があるのか皆目見当もつかない。
かといって一部屋一部屋確かめることもできないし、こうなってしまっては仕方がない。諦めて帰って、今度こそさっさと寝てしまおうとエルフェリスが踵を返した時だった。
すぐ近くでまた悲鳴が上がったのだ。
今度は聞き間違いではない。思わず身を竦めてしまうほどの悲鳴が、エルフェリスのすぐ近くで起こった。
目の前に並ぶ部屋のどこかで、何かが起こっている。
エルフェリスはすぐさまそう判断すると、今度は躊躇うことなくロイズハルトの消えた方へと一歩、また一歩と足を踏み出した。