聖なる血の裁き(6)
第四夜 灰色の風
***
コンコンとドアをノックする音が静かな回廊に響き渡った。
しかしいくら待ってみても、中からの返答は無い。もう一度ドアに手を伸ばし、今度はやや強めにドアを叩いてみる。それでもやはり答える者はいない。
「……」
しばらくその場に立ち尽くし、ふいに背後を振り返る。泉とは反対側であるというのに、城壁が微かにオレンジ色を纏っていた。
それを見つめるアイスブルーの瞳も、わずかにオレンジを含んで揺れている。対照的にその身体はじっと何かを思案しているのか、ぴくりとも動かなかった。
だが再びドアに向き直ると、今度は直接ノブに手を掛けて、それをゆっくりと右に回した。カチャっと小さな音を立ててドアが開かれる。
「……」
新たに広がった視界の先はやはり真っ暗で、部屋の主たる者の姿はここにはないように思えた。窓には分厚いカーテンが引かれ、時おり隙間から入り込んでくるオレンジの閃光だけが、室内を照らす光源となっている。
その中を、静かに息をひそめて踏み出した。できるだけ音を立てないようにゆっくりと。
「……」
たとえ漆黒の闇の中にあっても、明るい陽の元同様に利く大きな瞳を周囲にめぐらせながら、室内を一つ一つ確認して回った。
「……いない……」
いくつ目かの部屋を確認した後、思わずぽつりと声が漏れた。だがそれを気にする様子もなく、最後の一部屋のドアに手を掛ける。
ノブを回そうとしたちょうどその時、中からかすかに物音がしたのを聞き逃さなかった。瞬時にアイスブルーの瞳からはただならぬ光が発せられたが、口元からはなぜか反対に笑みさえ零れている。
「……」
一、二、三……。
心の中でゆっくりと数えて、そしてそれから最後の扉を開け放つ。
同時に室内を照らし出したのは、オレンジ色の光。
部屋の奥で蠢いていた影を鮮明に映し出す。
「……誰?」
いつもとは少しだけ声色を変えて、それでもなるべく穏やかにそう尋ねると、影は一瞬びくっと体を震わせて一切の動きを止めた。
「留守中に勝手に入ったらまずいんじゃないの? ……カルディナ」
一向に動こうとしない影に痺れを切らしてそう問いかけてみれば、ゆっくりと影がこちらを振り返った。
そしてまた入り込んだ光に、対照的な表情で対峙する二人の姿が浮かび上がる。その時初めて驚愕に震える女の姿が、アイスブルーの瞳に捉えられた。
「……レイフィール、様……」
掠れ声でうわ言のように呟く女。
――カルディナだった。
自分の名を複雑な表情で呼んだカルディナを、レイフィールは冷やりとした笑顔で見つめている。
だがすぐにレイフィールは彼女から視線を外すと、部屋の中央にあったアンティークのランプに火を灯し、にっこりと微笑んでみせた。真っ暗だった部屋を、ランプの灯りが柔らかく照らし出す。
「明かりも点けずにどうしたの? ロイズまだ帰って来てないんでしょ?」
先ほどまでの様相とは打って変わって、いつも通りの人懐こい笑顔を見せるレイフィールに、警戒し身を硬くしていたカルディナは幾分胸を撫で下ろしたように思えた。レイフィールの耳にも届くほど、大きな溜め息が聞こえてくる。
「申し訳ありません。実は……先日この部屋で大切な指輪を失くしてしまいましたの。ロイズ様の不在中に失礼かとは思いましたが、どうしても諦め切れなくて……」
片手で口元を覆い、レイフィールから目線を逸らしてカルディナは非礼を詫びた。それをレイフィールはただじっと見つめている。
「ふーん。それで見つかったの? その指輪」
依然として笑顔を湛えたままのレイフィールがそう問い掛けると、カルディナは首を振って再び周囲を探り始めた。あんな暗闇の中で探し物など端から見つかるわけがないと、冷めた感情が心の奥で渦巻いたが、それでもレイフィールはカルディナの行動を笑顔で見守っている。
だがふいに、彼の瞳が何かを捉えたようにきらりと輝いた。動きを止めていた身体が、音も立てずにすっと動き出す。探し物に夢中になっているカルディナはそれに気付いていない。
けれど次の瞬間には、レイフィールはまた元の位置に素早く戻っていた。
「……何なら手伝うけど? 暇だし」
そしてまたしばらくカルディナの後姿を見守ってから、レイフィールは彼女の背に向けてそう問い掛けた。するとカルディナは手を止めて振り返ったが、その申し出を必要ないと拒んだ。わざわざそこまで手を煩わせるほどの代物ではないと。
「そっか」
レイフィールもまた、必要ないのならこれ以上食い下がることもないだろうと判断して、にっこりと微笑んで頷いてみせた。後はカルディナがこの部屋で何を探し続けようともどうでも良かった。自分の用は済んだのだから。
無邪気な笑顔を浮かべたまま、レイフィールはふっとカルディナに背を向けると、顔だけをカルディナの方に向け、笑顔はそのままに声のトーンを幾分落としてこう言った。
「じゃあ僕は行くね。何だか外が騒がしいみたいだし」
見送るカルディナの顔に、一瞬の不審が浮かび上がる。けれどあえてレイフィールは気付かない振りをして、そのまま踵を返すとさっさとロイズハルトの部屋を後にした。
ひんやりとする回廊の空気に触れながら、レイフィールは一度だけカルディナの残る室内を振り返った。
そしてそっと握り締めた左手に目を落とす。赤い紙切れに途切れた黒い文字。
氷のように冷たく輝く二つの瞳が、ゆっくりと伏せられた。
***
ワンドの先から白い閃光を何度も何度も放つと、それは瞬く間に大きく炸裂した。神聖魔法の中でも一番威力の弱い魔法ではあったが、それでもただのハイブリッドが相手ならば十分すぎるほどの威力を発揮した。その証拠に、閃光の走った後には無数の灰の山が積み重なっている。わずかな風にもそれは舞い上がり、その度にむせかえる。
先ほどに比べればだいぶ数は減ったようにも思えたが、それでもまだ、エルフェリスらと向かい合う男たちの姿は多い。
減ったと思えばいつの間にか数を増やし、また減ったかと思えば……その繰り返しだ。どいつもこいつも同じ方向からやって来るようだったが、あの先にアジトでもあるのだろうかとエルフェリスは苛立つ頭で勘ぐっていた。
たかだか自分とリーディアの二人を葬る為だけに、こんなに大量のハイブリッドが一同に会していたとはにわかに思い難いが、この状況を考えるとあり得ない話でもあるまい。
「ねえ……リーディア」
切れ切れになる息を整えながら、エルフェリスは少し前でサーベルを構えるリーディアに声を掛けた。
「……なんですの?」
振り返らないまま答えるリーディアも、先ほどに比べて肩の上下が激しくなっている。額から顎にかけて流れ落ちる汗を拭い去る回数も頻繁に見られるようになっていた。かなりの体力を消耗してしまっているようだ。振り返る余裕すら、今の彼女には無いのかもしれない。
それでも、エルフェリスは構わず話を進める。
「あのさ……リーディア。このままじゃ私たち根負けするよ……。それよりも……元凶を探ってみない?」
「……元凶……ですか?」
そこで初めてリーディアはエルフェリスを振り返って怪訝な顔をして見せた。言っている意味が分からないのだろう。
まあ、これだけ言葉少なな問題提起ではそれも仕方のないことだ。焦る余り趣旨を要約しすぎてしまったことに、エルフェリスは少しばかり反省し苦笑した。
「こんなに大人数が控えてるなんて……それも絶えず増えていくなんておかしいと思わない?」
相手には聞こえないようになるべく声を潜めてそう言うと、リーディアは何かを思案しながら、懲りずに斬り掛かって来る男に向かって十字にサーベルを振るった。新たな灰の山がまた彼女の前に積み上がる。
それを冷たい眼差しで見つめながら、乱れた髪を適当に払い除けるリーディアであったが、次の瞬間エルフェリスに向けたのは、いつもの柔らかさを含んだ微笑であった。
「私も……同じことを思ってましたの。ちょうど体力もそろそろ限界ですし……こんなに次から次へと来られては、やはり私アンデッドではないかと疑いたくなっています。……それにほら、ご覧になって?」
リーディアはそう言うと、黒く揺らめく泉の水面をサーベルの先で指し示した。それに合わせてエルフェリスもそちらへ目を移す。エルフェリスとリーディアが突き落とされた以外には……特に変わった様子もなさそうだったが、リーディアは眉間に皺を寄せてじっと水面を見つめていた。
「影ですわ」
「……影?」
「ほら、水際に立っている男たちの姿は確かに水面に映っているでしょう? でも……」
そこまで言うとリーディアは一度言葉を切って、迫り来る新たな男に狙いを定めた。
そして叫ぶ。
「影をご覧下さい!」
思いっきり後方に引いたサーベルを勢いよく繰り出し、リーディアは気合の声を上げると男の心臓を躊躇うことなく刺し抜いた。貫かれた心臓から真っ赤な血を噴き出して、ハイブリッドの男がリーディアの前で絶命する。だが灰と化すまで待てないというように、リーディアはぐらりと傾く男の身体に蹴りを入れながら、サーベルを素早く引き抜いた。
そしてすぐさまあの魔法のボウガンを利き手に装着すると、何を思ったか天に向けて魔法の矢を何発か射る。空高く打ち上げられた矢はしばらくすると、暗い暗い夜空を照らすようにボンッと破裂音を伴って何度か弾けた。
ほんのわずかな間だけであったが、辺りの景色に光が差す。
「……あッ」
影……影……、と心の中で繰り返しながら、エルフェリスは瞬きもせずに男たちの足元を注視していた。そして魔法の光が降り注いだ時も。
「どういうこと?」
そこにあるはずの黒い影が、―—ほとんど見当たらなかった。男たちの影だけが見当たらない。
エルフェリスとリーディアはもちろんのこと、周囲に生い茂る木々や水面に漂う落ち葉に至るまで、突然の光を受けて一瞬の影を生じさせたというのに、後を絶たないハイブリッドの男たちには、まったくと言って良いほど影を引きずる者はいなかった。
「姿映れど影は居ぬ……アンデッドですわ!」
赤い瞳を鋭く細めたリーディアの額から、一筋の汗が零れ落ちた。