聖なる血の裁き(2)
「リーディアッ!」
泥と傷まみれになったリーディアが泉の中に投げ込まれたのだ。ひどく負傷しているのだろうか。沈みゆく体が抵抗しようとしない。
「リーディア!」
すぐにでも彼女の元へ行こうと身体が勝手に動いたが、楽しそうな表情を浮かべて手を踏み付ける男の足が、それを阻むかのように力を加えてくる。歓声と笑い声が上がる中を、粉々に砕けてしまいそうなほどの激痛にエルフェリスは思わず顔をしかめた。
だが、そんなことを言っている場合ではない。
折れてもいい。リーディアを助けなければ、とエルフェリスは何とかこの場を乗り切るために考えを巡らせようとして、忙しなく視線を走らせた。
そこで気付いた。
幸い水面に沈めたままのもう片方の手には、しっかりとワンドが握られたままだったのだ。
魔法を使うためにはある程度詠唱するための猶予や敵との間合いが必要だが、武器として使用する分にはそのようなものは関係ない。男たちに気付かれないよう視線だけを動かしてそれをもう一度確認すると、エルフェリスは勢いよくワンドを赤目の男めがけて振り上げた。
不意を突かれた男の身体に大量の水が降り注ぎ、一瞬手を踏みつける力が弱まった。その隙を見計らってエルフェリスは男の足を全力で振り払うと、一目散に泉の中へと取って返してリーディアの元へと向かった。
彼女を飲み込んだ水面がわずかに赤く染まっている。ためらう暇などなかった。
とにかく吸い込めるだけの空気を吸い込んで、勢いよく暗い水中に潜る。と、すぐにリーディアの白い腕が視界の向こうに入った。
投げ込まれたときに巻き上げられた砂と、リーディアの血が混ざって水を濁らせてはいたものの、元来の泉の透明度が高いのが幸いして、姿を見失うことなくリーディアの元までたどり着けそうだった。
助けを求めるように伸びるリーディアの腕に向かって、冷たい水の中、エルフェリスは肢体にいっそうの力を込める。潜れば潜るほど身体は重くなっていったが、それでも何とかエルフェリスがリーディアの腕をつかむと、それにより覚醒したリーディアの口から大量の気泡が溢れて水の中に溶けていった。
エルフェリスは急いでリーディアの体を抱え込み、渾身の力で水を蹴ると、無我夢中で水面を目指した。
上へ上へともがく中、何かが足に絡み付く感覚に襲われたが、構わず一気に上昇すると、男たちがいない側の岸まで泳いで二人で陸に這い上がった。
空気に触れた途端、リーディアは激しく咳き込んで何度も水を吐き出す。その様子を対岸の男たちはにやにや笑いながら眺めている。
「何のつもりよ、あんたたち……」
リーディアの背中をさすりながら、エルフェリスは精一杯の侮蔑を込めた目を男たちに向けた。
髪や衣服がべったりと体に張り付いて不快だったが、体力の大部分を水中で消費してしまったエルフェリスにはそれを払い除ける力すら惜しく、なるべくならワンドの力を借りることなく温存しておきたかった。
本当の戦いは、多分これから始まるのだ。
「二人とも殺して良いと言われているんでね」
男の中の一人がそう言って、白い牙を覗かせた。
「誰の差し金ですの……」
そんな中、ようやく息を整えたリーディアがゆらりと立ち上がり、エルフェリスを庇うように一歩前へ進み出た。満身創痍の体でなおも自分を守ろうとするリーディアを、エルフェリスはすぐさま止めようと手を伸ばしたが、その背中に走った大きな太刀傷が目に入り、エルフェリスは思わずその手を止め、そして言葉を失った。白い肌に浮かぶ赤い傷からは少しだけ血が滲み出ていた。
慎重に傷の具合を観察してみたが、どうやらそれほど深いものではなさそうだった。ひとまずはほっと胸を撫で下ろし、エルフェリスも改めてリーディアと肩を並べようと立ち上がる。
だが、ふいにくらりと眩暈に襲われて、不覚にもその場でよろめいてしまった。
「エルフェリス様!」
それに気付いたリーディアがふらつくエルフェリスの身体をとっさに支える。同時に彼女はエルフェリスの体を見回して、ある異変に気が付いた。
「――ッ! 失礼、エルフェリス様!」
さっと顔色を変えたリーディアがエルフェリスの足元に屈み込む。それに合わせてエルフェリスも何だろうと不思議に思いながら、何気なく視線を足元へやった。
足首に赤い葉のような物が巻き付いていた。
「?」
エルフェリスが何だか分からずに朦朧としていると、青ざめたリーディアが真剣な顔付きで見上げてくる。
「少し痛みますわよ」
リーディアの忠告の意味が分からずに、エルフェリスはなおも戸惑いを隠せずにいた。だがそんなエルフェリスに構わず、リーディアは足首にへばり付く赤い物体に手を伸ばすと、それを力いっぱい引いた。
「ひッ……!」
途端にきつく爪を立てられたような痛みがエルフェリスの足に襲いかった。あまりの痛みに再び足元に目をやると、その物体がいつの間にか足にしっかりと根を張っている様子が見て取れた。
異様な光景にエルフェリスは思わず息を呑む。
「な……なんなのこれ……」
呟くエルフェリスの身体が恐怖と驚愕で震え始めたところで、待っていましたとばかりに対岸から声が掛けられた。
「吸血水中花だよ、エルフェリスさん」
男の中の一人が、楽しそうに声を張り上げた。
「吸血……水中花?」
震える声を抑えながら聞き返すと、男はにやにやしながらこう続ける。
「ロイズ様のご命令で数日前に泉に放しといたのさ。それならば誰の手を汚すことなくお前たちを葬り去れるとな!」
「まさか……!」
男の言葉に、リーディアも顔面蒼白のまま否定の意を唱えた。まさかロイズハルトがそのような命を下すわけが無いと何度も呟いて……。
エルフェリスとしても、突然ロイズハルトに命を狙われる理由が分からずに混乱していた。
確かに三者会議のためだけに呼ばれた自分が、シードの暮らす城に留まり続けているのを良く思っていないかもしれないということは何度も考えた。実際、ロイズハルトを何度も何度も説得して、ようやく認められた滞在だ。本音ではどう考えているのか分からない。
しかしあの夜に、エリーゼへの手掛かりをつかんだあの朝に、ロイズハルトが掛けてくれた言葉は偽りだとは思えなかった。柔らかく微笑んで、エルフェリスに向けられた紫暗の瞳が殺意を秘めたものだったとは、到底思えないのだ。
けれどロイズハルトの名でしたためられた手紙に誘われて出向いたこの場所で、ロイズハルトの命で放たれたという吸血植物に襲われて、今に至る。
エルフェリスはどうしてか、ひどく絶望的な感覚を味わっていた。
その間にも足首に纏わり付く吸血花が、エルフェリスとリーディアの疑念をも吸い取っているかのように大きさを増していく。その度にひどい眩暈がして、ついにエルフェリスはぐらりとその場に崩れ落ちた。
立っていることすらままならない。それを見た男たちがゆっくりじりじりと、獲物を追い詰めるようにエルフェリスたちに詰め寄り始める。
何とか顔だけを上げて、エルフェリスは精一杯の力を振り絞って男たちを睨み付けた。
そんなエルフェリスの姿を遠目から嘲笑うのは、先ほどリーディアが「ヘヴンリーの……」と呟いたあの男。
「まだそんな目ができるとは……なかなか人間もしぶとい生き物だな。……すっかり忘れていたよ、人間の時の事なんか」
その笑みが、エルフェリスの働かない脳内に生理的嫌悪をもたらす。
こんな輩の前に這いつくばっている自分が情けなくて、悔しくてたまらなかった。できることならば、すぐにでも立ち上がってその顔に神聖魔法の一つでもかましてやりたい。こんな状態にあっても、そんな衝動に駆られた。
しかし無常にも、そんな思いとは裏腹に、エルフェリスの身体はちっとも言う事を聞いてくれない。
だから男たちは調子に乗って、口を滑らせたのだ。“生”に見捨てられかけたエルフェリスたちを再び立ち上がらせてしまうような一言を。