手がかりと甘い罠(5)
「ホントごめんッ!」
エルフェリスが慌てて窓を閉め切ると、途端にひやりとした冷気が駆け抜けて、居城内は再び闇で閉ざされた。
太陽の熱ですら遮断してしまうガラスを前に、温まったはずの身体がにわかに肌寒さを覚えて、エルフェリスは人知れずぶるっと小さく身震いをした。
「ああ、良かった。今日は一日中デューンと添い寝しなきゃならないのかと思ったよ」
光が遮られたのを確認してから、レイフィールは胸に手を当てて安堵の溜め息を吐いた。
「ごめんね! 久しぶりの太陽で気分良くなっちゃって……」
「まったく……あんなのが良いなんて、人間て不思議だよね」
そう言いながらも特に怒ったわけでもなさそうなレイフィールは、にこにこ笑いながら遮光ガラスの遥か先にある太陽を見つめていた。それにつられてエルフェリスも、光と熱を失った太陽に目を移す。肉眼では直視することのできない太陽の姿が、闇色のガラスを通すと丸く、まるで夜空の月のように浮かんでいた。
「私たちにとってはなくてはならないものなんだよ。でも確かに不思議だよね。人間もヴァンプも姿かたちは同じなのに、同じ命なのに……二人はあの光で、……死んじゃうんだよね」
ヴァンパイアにとって、太陽は裁きの炎。利得になるものなど何もない。あるとすれば……あの庭園の花々を美しく咲かせることくらいだろうか。
いずれにしても、天気の良し悪しはあるとしても日の昇らない日などないだけに、その不自由さといったら人間のエルフェリスにはおおよそ想像も付かないものであることは間違いない。
「まあね、仕方ないよ。それと引き換えに、僕たちはずっと生きていられるんだもん。一つくらい制約がないとね」
レイフィールはそう言うと、無邪気にカラカラと笑った。それからじっとエルフェリスを見つめて、こう言った。
「落ち込んでるんじゃないかと思ってたんだ。ね、ロイズ」
レイフィールの問い掛けに、ずっと下を向いていたロイズハルトが顔を上げた。
暗い回廊の中でも輝きを失わない紫暗の瞳がほんの少しだけ細められる。
「背中が丸まっていたからな」
「え……?」
微かに微笑むロイズハルトに目を奪われたまま、エルフェリスは放心したように呟いた。
「ぬか喜びさせたんじゃないかと思って」
そのロイズハルトの言葉に、エルフェリスはただひたすらに首をぶんぶん振った。
「そんなこと……無いよ……」
自分の心の中を見透かされているような気がして、エルフェリスはそのあともしばらく「そんなことはない」と頭を振り続けた。
どうして……?
エルフェリスは思う。どうしてそこまで心配してくれるの……と。自分は聖職者で、貴方たちはヴァンパイアなのに……と。
確かに、エリーゼが生きていると断定できる情報までたどり着けなかったことは残念ではあったけれど、それでもエルフェリスにとっては十分すぎるほどの手掛かりを得ることができたのだ。これ以上何を望むだろう。
「今まで何も手掛りがなかったんだもん。可能性の話でも聞けて良かったと思ってる。……ドールになってるかもしれないっていうのは、少しショックだったけど……」
ドールとなる人間は、今の時代にあっても実は少なくはない。時代は移り変わっても、人は美しいヴァンパイアに魅了され続けるのだ。実際に目の前に立つ青年たちを目の当たりにすれば、ドールになる人間など愚かだと声を張り上げる者であっても納得してしまうかもしれない。
けれど、理屈と心情はまた別物だ。血を分けた姉がドールになっていたとしたらやはりショックだし、やるせない。少なくともエルフェリスはそう考えていた。
エリーゼは自分と同じ聖職者だったのだから。ヴァンパイアよりはむしろ、ハンターのデストロイを支持していたのだから。
「……」
だからエルフェリスは信じられなかった。エリーゼがよりにもよって、そのヴァンパイアに惹かれたという事実に……。
「でも大丈夫。おかげで心の準備だってできるし、うん!」
まるで自分に言い聞かせるようにエルフェリスは複雑な気持ちを押し殺すと、あえて明るくそう言って笑ってみせた。
するとふいに、ロイズハルトの瞳がエルフェリスを捉えた。表情を動かさず、じっと見つめるだけのロイズハルト。レイフィールの肩越しからダークアメジストの瞳に射抜かれて、エルフェリスは急に胸が詰まったように息苦しくなって言葉が出せなくなった。
……やめてよ。
そんな風に見ないでよ。
落ち着かせようとしている心が音を立ててざわめく感覚に、エルフェリスはいたたまれなくなって微かにロイズハルトから視線を外した。それでもなおロイズハルトはエルフェリスを見つめている。
そんな二人の様子に気付かないまま間に挟まれたレイフィールは、彼なりに気を使ったのだろう。明るく声を弾ませてこう言った。
「でもさ、デューンには悪いけど、あの情報はガセだった方が絶対良いよ」
「え? なんで……」
彼の笑顔と言葉の意味が分からずに、エルフェリスは思わず口を開けたままポカンとしてしまった。ガセだった方が良いということはつまり……そのドールがエリーゼでなければ良いということだろうか?
「どうして……そんな?」
分からない。
分からない。
混乱する。
これ以上、私を混乱させないで。
そう思いながらもエルフェリスは平静を装って、無機質な笑顔を取り繕った。
「だってさ? ルイは本当にシャレにならないくらいドール持ってるしさ、それにお気に入りなんかになったら命が……――フガッ!」
レイフィールの言葉はそこで途切れた。それまで黙って話を聞いていたロイズハルトが突然、レイフィールの口をその手で塞いだのだ。
「フガーッ! フガーーッ! はにふんはほほいふっ《何すんだよロイズ》」
不意打ちを喰らったレイフィールが、ロイズハルトの手の中で暴れる。けれどロイズハルトの手は、しっかりとレイフィールを押さえ込んで放さなかった。
「余計なことは言わなくていい! エルも……何でもないから気にするな」
「え? う……うん」
気にするなと言われる方が人間は気にする生き物なのだが……と思いつつも、レイフィールの言おうとした言葉の先は、ロイズハルトによって失われてしまった。だが、レイフィールは確かに何か“気になること”を言おうとしていた。
――ルイのお気に入りなんかになったら……命が……?
その後は一体どうなるというのだろう。忘れろと言われたあのセリフが、それ以降エルフェリスの頭の中でグルグルと回り続けた。
***
「あら、おかえりなさいませ。エルフェリス様」
二人と別れたエルフェリスが自室のドアをゆっくり開けると、窓辺に置かれたテーブルの縁に腰掛けてティーカップを傾けるリーディアに声を掛けられた。
「あれ? まだ寝てないの?」
「お帰りをお待ちしておりましたの」
リーディアはそう言うと、きれいなオリーブ色の両目を細めて立ち上がった。ハイブリッドであるリーディアの瞳は、夜間は片目が真っ赤に染まるが、今は太陽が出ている時分のため、彼女が生まれもっている本来の色を湛えていた。
「先に寝てて良かったのに……」
「お話しなければならないことがあったのですわ。とにかくお掛けになって?」
そう言うと、リーディアは手早くもう一つのカップを用意しながら、エルフェリスにテーブルの向かいの席に着くよう勧めた。
湯気の立ち上るティーポットから、新たな紅茶が二つのカップに注がれる中を、エルフェリスはリーディアの誘いに従って、指し示された席にゆっくりと腰掛けた。それと同時、絶妙のタイミングでリーディアは淹れたばかりの紅茶をエルフェリスへと差し出した。
「わざわざ改まって何の話?」
ありがとう、とリーディアに声を掛けてから、エルフェリスは熱い紅茶の入ったカップに指を滑らせると、それを口元へと運んだ。微かに甘い果実の香りがする。
リーディアも同様に一口紅茶を飲むと、ふっと小さく息を吐いた。そしてこう切り出したのだ。
「先ほど、ロイズ様の使いだというハイブリッドの男がこの部屋を訪れましたの」
「使い? ロイズの? さっきまでロイズとは一緒にいたよ? わざわざ何だろう」
「実は、これを預かったのですわ」
リーディアはそう言うと、自らのスカートのポケットに手を入れて、中から一通の封筒を取り出した。
赤地に黒の文字。三者会議の開催を知らせるあの手紙と同じ色だった。
「中身は確認しておりませんが……宛名の文字を見る限りではロイズ様の筆跡に間違いありません」
「宛名?」
エルフェリスは不可思議な展開に訝しみながらも、ロイズハルトからだというその手紙を受け取ると、リーディアの言う宛名や筆跡とやらを確認しようと封筒を表に返して見た。そこには確かに、流れるような美しい文字でエルフェリスの名前が表記されていた。もしかしたら届ける相手を間違えているのかもしれないとも思ったのだが、どうやらそうではないらしい。
ロイズハルトの書く文字を実際に見たことはないが、これは明らかに自分に向けてしたためられたものであることだけは間違いなさそうだ。
「エルフェリスって書いてあるね。何だろう、ホントに」
「使者は大きな声では言えない内容なだけに、公言はするなと申していましたわ」
「……とにかく開けてみよう」
妙な胸騒ぎがした。