手がかりと甘い罠(1)
「……いったぁ! まだ痛いよッ! デューンのせいだからね!」
氷のうを頭に載せたまま、レイフィールは向かいのソファに腰掛けるデューンヴァイスに非難の眼差しを向けた。
けれど対するデューンヴァイスはどこ吹く風。まるで気にした様子もなく、しれっとかわす。
「まったく……お前があんなに手ぇ早いなんて思わなかったぜ。油断も隙もありゃしない」
長い手足をそれぞれに組んだデューンヴァイスはそう言うのと同時に、聞いている者が飛び上がってしまうくらいの盛大な溜め息を吐いた。その様子を見て、なぜかレイフィールは楽しそうに笑う。
「別にエルはデューンのものじゃないし、良いじゃん少しくらい。僕だってエルには興味あるし?」
少し肩をすぼませたレイフィールはおどけるように両手を翻した。するとギラリと光るデューンヴァイスの視線が間髪なくレイフィールを捉える。その口元が嫌味なほどに吊り上げられた。
「ふん……てめぇには高根の花だ、クソガキ」
「……ッ! だからガキって言うなッ」
言いながら、ゆっくりと立ち上がったデューンヴァイスがレイフィールに背を向けると、その背後からカッと顔を紅潮させたレイフィールが猫のように飛び掛かった。二人の男が組み合ったまま、勢いよく床に倒れ込む。ドスンと激しい音が辺りに響き渡り、その衝撃でテーブルの上に無造作に積まれていた本がバラバラと落ちていった。
「ちょっと何? 何の音?」
ちょうどレイフィールの手当てに使うタオルを隣室に設置された洗面所で濡らしていたエルフェリスは、二人のいる部屋から尋常じゃない物音が響いてきたのに驚いて、急いで蛇口を閉めると、水をたっぷり含んだタオルをそのまま放り出して慌てて様子を見に戻った。部屋に入るとすぐ、取っ組み合いをしている二人の姿が目に入る。
「あっ、こらっ! やめなさい!」
レイフィールがデューンヴァイスの上に馬乗りになって、二人して拳を振り上げている。
「ちょっとやめなって……やめろってばっ! 二人とも!」
男の喧嘩を女のエルフェリスに制止できるかどうかは神のみぞ知る、といったところではあったが、とにかくエルフェリスは果敢にも殴られるのを覚悟でためらうことなくレイフィールとデューンヴァイスの間に割って入った。
その瞬間、勢い付いたデューンヴァイスの拳がエルフェリスの鼻先を掠める。あまりに一瞬の事に驚いて、エルフェリスはそのまま固まってしまった。
「あっぶねぇなエルッ! 大丈夫か?」
上に乗って暴れていたレイフィールを跳ね除けると、デューンヴァイスは勢いよく身体を起こして、いまだ固まったままのエルフェリスを覗き込んだ。そして大きな両手でその頬を包み込み、どこにも傷が無いかじっくり確認する。
「だ……大丈夫だよ……」
何とかそれだけを絞り出すように告げたエルフェリスは、びっくりしたのに加えて、あまりにデューンヴァイスの端正な顔が近すぎて、心臓が何度も大きく鼓動するのに戸惑っていた。
ヴァンパイアたちは何かとスキンシップが多かったり、異様に距離が近かったりで、エルフェリスには慣れないことばかりだった。人間にも時たまこういった輩がいるものだが、教会という神聖な場所で育ったエルフェリスにとって、そういった人種との接点はほとんど無に等しかった。
だから余計に動揺してしまう。不自然なほど彷徨った視線の先に、何が見えていたのかもよく覚えていない。
「良かった……怪我は無いな」
少ししてからデューンヴァイスは真剣な顔でそう呟くと、セピアゴールドの瞳を伏せてほっと息を吐いた。そしてそのまま微かに微笑む。
けれどその隣では、床に投げ出される形になったレイフィールがブチブチと悪態をついていた。
「まったく……野蛮なんだよデューンはッ!」
「ばーか!」と叫んで、赤い舌を出してはデューンヴァイスを挑発する。するとデューンヴァイスは無言ですくっと立ち上がると、再びレイフィールに掴み掛かろうと手を伸ばした。
「レイ、てめぇ……」
「だからやめなって!」
エルフェリスも慌てて立ち上がり、レイフィールの胸ぐらを掴み上げるデューンヴァイスを抑止する。慌てて二人の間に割って入って、デューンヴァイスの大きな胸を体全体で押し返し、何とか思い止まってもらおうと声を張り上げたが、闘将と呼ばれる彼の力に女のエルフェリスが適うはずがなかった。
わずかにバランスを崩した拍子にデューンヴァイスの体に押されるように吹っ飛ばされたエルフェリスは、少し離れたソファの上に不恰好のまま投げ出された。やわらかいとはいっても、勢いよく叩きつけられてはそれなりに衝撃もある。しかもどうやら腹部を少し打ったらしく、無意識に食いしばった歯列から不規則になった呼吸と呻き声が勝手に零れた。
「うう……」
「エル、大丈夫かっ?」
「エル!」
腹を押さえて丸まるエルフェリスの頭上から、デューンヴァイスとレイフィールが心配そうに覗き込んでいた。痛みを堪えつつエルフェリスが何とか二人の方を見やると、色白の肌をさらに蒼白に歪めている顔が二つ。
「……二人とも……すごい顔」
同じような表情をして覗き込む二人の顔に、なぜだか笑いが込み上げてきてしまったエルフェリスは、痛みを堪えつつもくくっと肩を揺らした。するとデューンヴァイスがほうっと息を漏らして、気の抜けたように床にどっかり座り込んだ。
「心配くらいさせろ。マジ悪かった」
少し乱れた髪をかき上げてから、デューンヴァイスはエルフェリスに向かって頭を下げた。それを見たレイフィールもその場に屈み込んで「ごめんね、ごめんね」とエルフェリスの手を握り締める。
その様子を見て、エルフェリスはまた笑ってしまった。
この二人は何か……似ている。
「なに笑ってんの? エル、ホントに大丈夫?」
怪訝な顔でそう言ったレイフィールに、エルフェリスは笑いを堪えながらこくりと頷いた。
二人が似ていると思ってしまったなどとは、さすがにこの状況では口が裂けても言えなかった。このタイミングでは。
「ごめんごめん、大丈夫。ちょっとびっくりしただけだよ」
しばらくすると痛みも治まり、呼吸も元通りになった。むくっと身を起こす際も二人はすかさず手を差し出し、エルフェリスの体を労わる。
が、当のエルフェリスからすれば本当に大したことではないし、自分から手を出した結果だと理解していたのだから、気を使わせることになってしまい逆に申し訳なかったと恐縮しっぱなしであった。今後はヴァンパイア同士の喧嘩には迂闊に手を出さないよう注意しなければ。そう自分に戒めたのと同時。
「レイ、てめぇいつまでエルの手握ってんだよ」
「あ」
デューンヴァイスに指摘されて、エルフェリスとレイフィールの視線が一様に下降した。
確かに……エルフェリスの両手はいまだしっかりとレイフィールの両手に包み込まれていたままだった。少し冷たくて、けれど意外としっかりとしたレイフィールの大きな手。
エルフェリスは慌てて手を引こうと思ったが、なぜかそれを拒むかのように逆にレイフィールはわずかに顔を伏せたかと思うとぐっと握り締めた。しかし隣で口をひん曲げて自分たちを見ているデューンヴァイスの様子を大きなアイスブルーの双眸で一瞥すると、すぐにその手を緩めてエルフェリスを解放した。
「やれやれ、レイのせいで進む話も全然進みやしない」
エルフェリスとレイフィールの手が離れたのを見届けると、デューンヴァイスは心底疲れたように床の上で大きく胡坐をかいてそう言った。その言葉に、エルフェリスも一連のやり取りの中ですっかり忘れてしまっていた本来の目的を思い出した。
レイフィールの戯れからデューンヴァイスの登場など、今夜はやけに慌ただしくて、ともすればあっという間に流れに飲み込まれてしまいそうになる。だがデューンヴァイスが折り入って話があると言うので、半ば無理やり付いてきたレイフィールと三人で庭園から場所を移したのだった。
ここはデューンヴァイスの私室。ロイズハルトの部屋と同じく、城内でも限られた者しか入れない上層部に位置している。
他の部屋には入ったことがないので何とも言えないが、部屋の作りだけ見るとロイズハルトのそれと大きな違いはないように思えた。一人で使うには十分すぎるほど広い部屋の奥にはさらに部屋があるのだろう、ノブの付いた扉がいくつか点在しており、そのうちの一つはきちんと閉められておらず、半分開いた状態で放置されていた。
部屋の主といい、ドアといい、ここは何というか……ロイズハルトの部屋とは随分違って、色々な物が色々な形で“自由”を得ている。つまり……。
「それにしても……きったない部屋だよね、いつ来ても」
レイフィールもほとほと呆れたように見回して溜め息を吐いた。つまり……そういうことだ。
先ほどの乱闘でテーブルの上から落ちた本のほかにも、床のあちこちにはまた別の本が散らばっていたり山積みになっていたり、ペンや、何か走り書きされた紙切れなどもその中には混在していた。
「エル呼ぶ前に片付けなよ」
ここぞとばかりに毒吐くレイフィールに対して、またもやデューンヴァイスはムッとした表情を見せたが、さすがに今回は自制心を働かせたのだろう。少しだけ唇を動かしただけで言葉自体は飲み込んだようだった。その代わりに握り締めた拳と不自然に引き攣った笑顔が、彼の心中をよく表していたと思う。
とにもかくにもこれ以上また不穏な空気に苛まれるのはごめんだと、エルフェリスは会話の途切れたタイミングを見計らって少し強引に話題の修正を図ることにした。
「まあ後で片せば良いじゃない。それよりも話って何なの?」
「その前に……オレはレイを呼んだ覚えはないが?」
そんなエルフェリスの胸中などお構いなしに、なおも心ばかりの反撃とばかりに冷ややかな声を飛ばすデューンヴァイスだったが、無邪気なレイフィールにはたいして通用しなかったようだ。
「あ、気にしなくていいよ。勝手に聞いとくから」
と、少々矛盾した返答と共に小悪魔がケラケラ笑った。そしてくるっとエルフェリスの方に向きを変えると、あの必殺ともいえるキラキラの瞳で訴えかけてくる。
「ねぇねぇエル、僕もいて良いでしょ? それとも僕がいると邪魔?」
胸の前で組んだ両手と下がった眉尻、今にも零れ落ちそうな潤んだ瞳。まだまだ修行が足りないなと思いつつも、レイフィールの懇願には抗えず、エルフェリスはまるで魔法に掛けられたかのようにやっぱり頷いてしまった。