ルイという男(3)
「僕のドールって気が利くでしょ? 邪魔者は誰もいないよ」
ふいに顔を上げたレイフィールの口元から、赤い舌と白い牙が覗いていた。
「――ッ!」
その瞬間。
エルフェリスの脳裏に何かの映像が浮かび上がって、消えた。
一度だけ大きくうねった心臓が、たった一瞬の残像が、エルフェリスを狂わせる。
「ッ! やめて!」
「エル?」
何が何だかわからなくなった。けれどガタガタと震える身体を止められない。吸い込むことも、吐き出すことも忘れた唇からは、声にならない声が虚しく零れ落ちていく。
そんなエルフェリスの変化に気が付いたのか、レイフィールの顔色がみるみるうちに蒼ざめていった。
「ごめんエル! 冗談だから、落ち着いて!」
泣きそうな顔をしたレイフィールが震えるエルフェリスの身体を強く抱き締める。それでも震えは止まらない。
なぜだか解らなかった。あの残像が何なのか解らない。解らないのに。ただ、赤い舌と白い牙に、エルフェリスは狂うほどの恐怖を感じた。
「エル……!」
なぜなの?
なんで涙が溢れるの?
私はどうしてしまったの?
この城に来ると決めた時から、こんな状況は幾らでも想像していた。幾らでも覚悟していた。
それなのになんで?
それなのに、なんで?
夜空を映しているはずの瞳には何も映らない。ただただあの一瞬の残像だけを追い求める。
「ごめんね? ごめんエルフェリス……ごめんよ」
必死の眼差しで、レイフィールはそんなエルフェリスを抱きながら謝り続けた。何度も何度も。エルフェリスが自身を取り戻すまで、何度も何度も。
「泣かないで?」
少し震えが治まってきても、レイフィールはエルフェリスを離そうとはしなかった。時おり背中を擦っては、エルフェリスが落ち着くまでずっと傍を離れようとはしなかった。
「ごめんね、エル。……もうしないから……嫌いにならないで」
ようやく落ち着きを取り戻した頃、レイフィールはエルフェリスの肩に顔を埋めて、今にも泣きそうな声で弱々しく懇願した。
「うん、大丈夫。……もう大丈夫だよ。ごめんね」
エルフェリスもそんなレイフィールの肩をぽんぽんと叩きながら、表情を崩して詫びた。
本当は恐ろしかった。ヴァンパイアの顔をしたレイフィールが。ヴァンパイアが。そんな彼を、エルフェリスのすべてが拒絶していた。
けれど本当に恐れたのはレイフィール自身を、ではない。エルフェリスの中にある“何か”を恐れたのだ。
「大丈夫。気にしなくて良いよ」
しばらく経ってから、エルフェリスはゆっくりとレイフィールの腕から離れた。
「うん……。こんなところデューンに見られたらまた怒られちゃうな」
目を少し赤くしたレイフィールも、ようやく安堵したのか眉尻を下げてくすくすと笑った。いつも通りに。
けれど……。
「見てたけどね……ずーっと」
レイフィールの背後からゆらりと大きな図体が姿を現わすと、少年はとっさに振り返ってさっと顔色を変えた。
「うわ! デューンッ!」
その姿を認めるや否や、逃走を図ろうとするレイフィールの首根っこを、デューンヴァイスの大きな手がむんずと掴んだ。その顔には、今にもはち切れんばかりにはっきりとした青筋が浮かび上がっている。
頑丈に握り締めた拳がゆっくりとレイフィールの頭上に振り上げられた。
「レイてめぇ……発情してんじゃねぇよッ! このクソガキッ」
空気さえも悲鳴を上げるほどに容赦ない一撃がレイフィールの脳天に振り下ろされた。思わずエルフェリスも目を塞いでしまうほど鈍い音が、誰もいない庭園に響き渡る。
一瞬の沈黙。
そして大地に向けてゆっくりと傾くレイフィールの体。その光景を、エルフェリスは両手で口元を覆ったまま、息を呑んで見つめていた。
「……いってぇ」
苦痛に顔を歪めて遥か頭上のデューンヴァイスを睨み付けるレイフィールに、デューンヴァイスは至極非情で冷めた笑顔を向けた。
「こんな真似……誰が許すかよ」
二人を交互に見つめるエルフェリスはただ、黙って立ち尽くすしかなかった。
***
「何をごらんになってますの?」
窓辺に佇んだまま離れようとしない男に痺れを切らした女は、裸のまま背後から男に絡み付いた。
「ロイズ様……」
そして何かを強請るように甘い甘い声で男・ロイズハルトの耳元で囁く。それでもロイズハルトの視線が揺らぐことはなかった。無言のまま複雑な笑みを浮かべて、ずっと一点ばかりを見つめている。
一体何を……?
不審に思った女が窓の外に目をやると、少しばかり離れた薔薇の咲く庭園に三つの人影が見えた。頼りない月明かりの中目を凝らすと、どうやら一人は少女のようだった。その少女が随分と小柄に見えるのは、隣に立つ男が長身だからだろうか。あのシルエットは……。
「……デューン様?」
それにもう一人の男ははっきりと見て取れた。あれは間違いなくレイフィールだ。
なぜあの二人が?
女はさらに目を細め、彼らと共にいる少女が誰なのかを見極めようとした。自然とロイズハルトの身体に回した手に力が入る。
なぜ?
なぜ……?
その姿が誰なのか確信するにつれて、女の瞳に憎悪の炎が灯る。キュッと噛み締めた唇から、ギリッという音が漏れた。
どうして……。
どうしてなの……?
どうしてロイズ様はあの女を見ているの?
今、彼の目の前にいるのは自分なのに。
愛されているのは自分なのに!
女の中の狂気が、あっという間に膨らんでいく。
だがそれでも女は、ロイズハルトが再び自分を顧みてくれることを期待した。ただ景色に目を奪われていただけだと笑ってくれることを期待した。
しかし、自分に背を向けたままの愛しい男はその晩、とうとう彼女に目を向けてはくれなかった。
差し出した女の手を乱暴に振り払って、男は何も言わずに部屋を後にしたのだ。
こんなことは今まで一度もなかった。一度たりとて……。
振り払われた手が震える。
「……許さない……」
一人取り残された部屋の中、女は静かに怒りを募らせた。
あの憎たらしい小娘のいた窓の外をじっと睨み付け、鋭い爪を冷たい窓ガラスに突き立てる。その力に抗えず、わずかな悲鳴を上げて赤い爪がパキッと欠けたが、怒りと憎しみに支配された女にとってそのようなことはもはやどうでも良かった。
ただただ呪いのように、何度も何度も同じ言葉を繰り返し呟く。
「殺してやる……。殺してやる……エルフェリスッ」
雲の切れ間から姿を現わした月が、女の姿を照らし出した。
「ロイズ様は渡さない……。彼は私だけのものよッ」
そこにいたのは、目を真っ赤に血走らせたカルディナだった。