光と闇の接点(1)
知らなければ良いことなんて生きている上では幾つもあって、いちいち覚えていられない。
聞かなければ良かった、知らなければ良かったと思っても、時が経てばそのうち忘れてしまうのだろう。
人間の記憶なんて物は、実に曖昧だ。
エルフェリスが眠りに就いたちょうどその時、リーゼン=ゲイル司祭の姿はロイズハルトの部屋にあった。
偶然か必然かは分からないが、エルフェリスとはどこかで入れ違いになったようだった。
彼女はもちろん、この場でどんなやり取りがあったのかは知るわけがない。けれど司祭とロイズハルトのこの密談が、この先のエルフェリスの運命を大きく揺るがすものであったことだけは、間違いない。
「司祭までどうしたのだ?」
苦笑混じりのロイズハルトが頬杖を付いて、向かいに腰掛けるゲイル司祭をじっと見据えた。
「今日は来客が多い。先ほどもエルフェリスの訪問を受けたばっかりだ」
「おや、さすがはエル。すみませんね、誰に似たのか向こう見ずなところがあって」
「ふふ、それも良いだろう。用件は彼女と同じか?」
「ええ、まあ。半分ほどは」
司祭はそう言うと、いつもの人好きのするあの笑顔でくすくすと笑った。しかしそこには幾らかの厳しさも混ざっていて、それは……彼が何かを秘めている時に見せる表情によく似ていた。
「ふ……ん。では残りの半分とやらをお聞かせ願おうか」
赤い液体の入ったグラスを傾けつつ、ロイズハルトは司祭に続きを促した。
それを見たゲイル司祭が僅かに苦笑したのは、その液体の正体を変に誤解したからなのだろう。グラスからは甘い葡萄の香りが仄かに立ち上っている。
「話というのは他でもない、エルフェリスのことなのだが……エルをここに置くという話、考えてみては下さらないか?」
「……なぜ? もちろん生身で預かれと言うのであろう?」
グラスを弄びながらロイズハルトが苦笑する。一方の司祭もまた、自身の前に差し出されたワインを一口含み、にっこりと微笑んだ。
「生身でなくては意味が無いからね」
司祭のその言葉に、ロイズハルトはダークアメジストの瞳をきらりと輝かせた。
「……ゲイル司祭。薄々感じてはいたが……あのエルフェリスという娘……、あの時の?」
核心を突くかのようなロイズハルトの言葉に、司祭は微笑んだまま無言を貫き通す。
「答えぬということは、肯定と受け取って良いのだな?」
じっとロイズハルトを見据えるだけで、一向に返答する様子を見せない司祭に対し、ロイズハルトはそう問いかけた。すると目の前に腰掛ける人間の司祭は笑みを浮かべていた顔を一変させ、普段見せないような鋭い光をその瞳に宿して頷いた。
「やはり、あなたの目は誤魔化せないようだね、ロイズ。その通り、エルは紛れもなくあの時の娘。だから尚更ここに置いて欲しいのだよ」
司祭の話を聞きながら、ロイズハルトは理解できないと何度も何度も首を横に振る。
「なぜだ? たとえあの娘が神聖魔法の使い手だとしても、我々シードの前ではただの獲物だ。それにあの娘がハイブリッドどもの手に落ちてみろ……我々はおろか、人間だって存続が危うくなるかもしれないんだぞ」
「だからだ! だからなんだよロイズ! 安全であるはずの地域で人が喰い殺されるのは何でだと思う? もはやハイブリッドには境界など無いに等しいからなんだよ。エルのような神聖魔法使いの存在はハイブリッドからすれば目の上のたんこぶだろう? 今よりもなおハイブリッドが反抗をし続ければ、最前線にある私たちの村は真っ先に襲撃されてしまうかもしれない。たとえ私といえども命を落とすかもしれない。エルだって……!」
眉間に深く皺を寄せ、身を乗り出して司祭は叫んだ。大袈裟に話を膨らませているわけではなく、近い将来現実となり得ることだ、と言わんばかりに。
ロイズハルトも黙って話を聞いていたが、しばらく思案した後、短く「むう」と唸った。
「だが司祭。彼女がハイブリッドにとって特別な存在であることは、我々二人以外誰も知らないんだ。万が一、襲撃なんて事態になってもやつらは構わず彼女を殺すだろう。ここにいるよりはリスクも少ないのではないのか?」
そして改めて司祭に問う。
ここはあくまでヴァンパイアが住まう領域なのだ。神聖魔法を習得した聖職者であるということを差し引いても、生身の人間が到底暮らしていける場所ではない。
自分一人ならばエルフェリスに襲い掛かる衝動にも耐えられるだろうが、この城にはあと二人、デューンヴァイスとレイフィールというシードがいるし、ハイブリッドたちもたくさん暮らしている。デューンヴァイスとレイフィールに至っては、たとえ首領としての命令を下しても、特に年若いレイフィールなどは或いは牙にかけないとも言い切れない。
またハイブリッドどもも己の身を滅ぼしてまでエルフェリスの血を求めはしないだろうが、それでも興味本位で手を出す者は多かれ少なかれ現れるだろう。
時間の問題だ、とロイズハルトは考える。
しかし目の前の司祭はなぜか、それらを踏まえた上でもエルフェリスをこの城に置けと引かなかった。
「いいえロイズ。初めは私もそう思っていた。けれどね、実はエルにも言ってはいないのだが、少し引っかかることがあってね……」
「引っかかること? 秘密を知るようなやつがいるとでも?」
「いえ、秘密は漏れてはいませんが……、或いは……」
「ふん。思わせぶりな発言だな。私にも話せないことか」
「断言できない状態ではね」
ようやく笑顔を取り戻した司祭であったが、意味深な言葉の中身を一切見せようとはしなかった。
ここまで重大な秘密を共有する自分にも話せないようなことが、彼らの暮らすあの小さな村の中にあるのだろうかとロイズハルトは疑念の目を向ける。
だが何かを疑ったところで、エルフェリスに襲い掛かる脅威を振り払えるわけではないのだ。殺されるだけならまだしも、ハイブリッドに“あの秘密”を知られてしまうことだけは、ロイズハルトもゲイル司祭も同じように阻止しなければならないことだと思っている。
「前線であるあの村から遠ざけるという選択肢も無いのだな?」
「ありませんね。それに、神聖魔法使いが最前線から撤退するなど恐らく教会本部が赦さないでしょう。逆に粛清されてしまいますよ」
きっぱりとそう言い放たれて、ロイズハルトの顔に苦い笑みが浮かんで消えた。
「ここには下手なハイブリッドは入って来ないし、あなたが正式にエルを客人として認めて下されば、いかに反抗心をちらつかせるハイブリッドといえども容易に手出しはしないだろう。教会本部へは私がうまい言い訳を考えます。決してあなた方の迷惑になるようなことには致しません。……いかがか?」
ゲイル司祭の言葉に、ロイズハルトはしばし沈黙する。浮かんでは消えていく様々な事柄を想定しながら。