繋がる想い(1)
目覚めは新たな日々の始まりであって、終わりではない。
けれどそこから浮き上がるか、沈むかは、また別の話。
その糸を掴みたいと願ったのは他でもない自分。それなのに、這い上がった先に在ったものは、私を重く、暗く包み込む闇。
道しるべとなるものは、真っ直ぐに私を射抜くダークアメジストの光。
あの輝きだけが、その先を照らす唯一の希望だ。
荒々しく繰り返し吐き出される呼吸。額から瞼を掠めて零れ落ちて行く汗。鼻孔をくすぐる薔薇の芳香。
うつろう水晶体に反射する、いつもの景色。
けれど、どれが本物でどれが偽物か、エルフェリスには分からない。
わからなかった。
ひどく悪い夢を見て、飛び起きた。
ほんの少し前のことだ。
それなのに、いつまで経っても一向に動悸は収まらず、顔面を伝い落ちていく汗を拭うことも忘れて、たった一つの事柄のみに意識は集中していた。
「……夢じゃ……ない……」
夢じゃない。
あれは、記憶。封じられていた、自分の記憶。
「どうして……」
片手で顔を覆いながら、隙間から覗くもう片方の手を漠然と見つめた。
中指の根元にはめられた銀色のリングが控えめに輝いている。しかしながらそれは決して自発的に光を発しているわけではなく、震える手が燭台の炎を複雑に捉えて、リングがその光をその身の至る所で反射していたからであった。
けれどそのようなことに気を留める余裕などなく、エルフェリスの思考は自分の脳内と、取り戻された記憶の狭間を頼りなげなく漂っていた。
想う事はただ一つ。
なぜ、自分は今ここで、こうしているのだろうという疑念。
私は死んだ。
死んだはずだったのだ。あの時に。あの場所で。
死んだはずだったのだ。
ロイズハルトを庇って、ハイブリッドの剣と牙に刺し貫かれた。
この胸を、この腕を。
貫かれた、はずなのに……。
着ていた衣服の襟元を乱暴に引き、目線を落として傷跡を探してもそのようなものはどこにも見当たらなかった。
ならばと手首に目をやると、やはりこちらにも傷跡らしきものは見当たらない。
当たり前だ。もともとそのような傷、あるはずないのだから。
あの出来事から、すでに五~六年が経っていた。
いくら記憶を失っていたとはいえ、その間に自分の体に一度も目を馳せなかったわけではないし、毎日鏡も見ていた。体に残る傷痕など、背面以外は自分が一番良く知っているだろう。
けれど、エルフェリスは胸の傷や手首の傷の存在を知らなかった。
知り得るはずがなかった。そこには何も無かったのだから。
それなのに、記憶を取り戻してしまった。
あれは決して夢や幻などではなく、現実にエルフェリスの身に起きた真実。
覚えている。
体が覚えている。
レイフィールの牙に異常なほどの恐怖を覚えたのも、ロイズハルトの背中の傷に息苦しさを覚えたのも、ドールと睦まじく腕を組むロイズハルトの姿に胸を痛めたのも、すべては、すべては……。
「私は一体……なに?」
それまで口にすることを無意識に拒んでいた言葉が、勝手にするりと唇の隙間をすり抜けていった。
――自分は一体、何者なのだろう。
その問い掛けに答えてくれる者は、この部屋にはいない。
力の入らない身体を引きずって、エルフェリスは身に着けていたレースの夜着を脱ぎ捨てた。
そして新たに袖を通したのは、いつぞやの夜も身に着けた神官のローブだった。
何者にも惑わされず、心が闇に支配されることが無いように。そのような願いを込めて織られたこのローブを纏う意味を意図せず思い知らされた気がして、ふっと自嘲の笑みが漏れた。
闇に、支配などされたりしない。
けれどエルフェリスは今、確実に自分を見失っていた。そしてこれから更に自分を追い込もうとしている。
エルフェリス自身、躊躇いが無かったわけではない。
身支度を整える間、何度その手を止めただろう。これ以上を知らなければ、今のままでいられるかもしれないと何度思っただろう。
しかしここで歩みを止めたら、きっと後悔する。望んで自分を取り戻したのに何も知ろうとしなかった今の自分を、きっと非難するだろう。
だからエルフェリスは止まるわけにはいかなかった。どのような現実がどのような形で待っていようと、止まるわけにはいかないのだ。
それにきっと待っている。
あの閉ざされた深い闇の向こうで、きっと待っている。
だから自分は行かねばならない。
あの瞳を、もう一度この目で確かめるために……。