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† 残 †   作者: 月海
第六夜 螺旋の彼方
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夢、うつつ(5)


 だからエルフェリスはその日、隣町まで行く用事ができたと司祭に嘘をついて、一人村を出た。


 ゲイル司祭は怪訝な表情を隠そうとはしなかっ

たが、陽の高い時分に隣町まで着ける時間であったことと、向こうに一泊してから戻ることを告げると、渋々ながらに頷いた。


 多少の後ろめたさを引き摺りながら村を出て、行き着いた先は隣町ではなく、もちろんロイズハルトのいるあの小屋だった。


 いつもよりも早い時間帯にエルフェリスが姿を見せたためにロイズハルトの睡眠を妨害してしまったようであったが、人間ほどに睡眠を必要としない性質があるそうで、ロイズハルトからは「気にするな」とだけ告げられた。


 その言葉を受けて頷いたエルフェリスではあったけれど、いつも以上に彼の瞳を注視してしまうのは、別れの予感をさらに強く意識していたからなのだろうか。


 ロイズハルトもエルフェリスの様子がいつもと違うと感じたのか、時おり訝しげにエルフェリスを見つめている場面があった。しかしその度にエルフェリスは彼の視線から逃れるように、顔を逸らして笑っていた。


 そして夜。


 渋るロイズハルトの手を強引に引っ張ってエルフェリスは外へ出ると、濃紺色の天鵞絨ビロードを広げたような空の下を、ロイズハルトと肩を並べて歩いていた。


 天の中心を少し掠めた位置には完全なる形を取り戻した月が浮かび、その周囲を取り囲むように無数の星が煌めいている。


「もうすぐお別れだから……ここ、私の大好きな場所なんだ」


 足を止め、精一杯の笑顔でロイズハルトを見上げるエルフェリスが指差す先には、満月の姿を水面に映し揺れている小さな泉があった。周囲を木立が取り囲み、その脇を整備された街道が走っている。


 けれども村は今、ハイブリッドたちの脅威に曝されているため、この街道を行き交う旅人の姿はめっきりと減ってしまっていた。いくらヴァンパイア世界との境界線にほど近い村であったとはいえ、常時は夜でも人通りが少しばかりはあった。だが今では旅人はおろか、村の住人でさえも夜に外出しようなどという者はいない。


 だからエルフェリスはかえって堂々とロイズハルトを伴ってこの泉に赴くことができたのだった。


 その代わりと言ってはなんだが、ハイブリッドたちの気配には十分に気を配らなければならなかったわけだが、周辺の変異など関係ないと言わんばかりに泉は穏やかに静まり返っていた。


 時おりそよぐ風が木立の葉を揺らし、水面に映した月の姿を悪戯に揺らめかせるだけで、エルフェリスとロイズハルトがたてる物音以外、何も聞こえない。


 その静寂を破るかのようにエルフェリスは泉のほとりへ駆け寄ると、ふいに身を屈めて片手を泉の中へと沈めていった。


 そしてゆっくりと冷えた水を掬い上げると、きらきらと月光を反射して、連なり、零れ落ちて行く水の珠たちをじっと見つめた。その様子をロイズハルトが背後から見つめている。


 ロイズハルトは何も言葉を発しなかった。


 発しなかったけれど、エルフェリスはそれでも良かった。


 ロイズハルトの吸い込まれそうな紫暗の瞳に今映っている自分は、あの小屋を抜け出して別の景色を背にしているはずであったから。


 この一月の間、エルフェリスとロイズハルトの共有した時間はすべて、あの小屋の中で過ごした時間であった。


 だからもちろん、エルフェリスの記憶にあるロイズハルトも、彼の記憶にあるエルフェリスも、常に薄暗く狭い室内を背景にしていた。埃っぽいベッドと、薬の瓶が置かれた机、それに水差し。


 だから一つくらい、別の景色をその瞳に刻みたいと願うのは、愚かなことなのだろうか。


 たとえ永い年月の果てに忘れ去られてしまうとしても、少しでも彼の記憶の中に留まりたいと願うのは、愚かなことだったのだろうか。


 ふいに風が水面を撫で、小さな波が立ち始めていた。


 その情景を少しだけ眺めた後で、自分の気持ちに半ば無理やり整理を付けたエルフェリスは、小屋へと戻ろうとロイズハルトに声を掛けようとして、背後に立つ彼を振り返った。


 とびきりの笑顔で。


 けれど、その笑顔はロイズハルトの瞳には映らなかった。


 映ったのは、蒼白に顔を歪めるエルフェリス――。


 そのエルフェリスの変貌を認めるや否や、ロイズハルトは瞬時にその身体を抱えて、空高く跳び上がった。


 それから一瞬遅れて、二人がそれまでいた場所に複数の男たちが飛び込んでいた。誰も彼も、片目が真っ赤に染まっている。


「……ハイブリッド……!」


 その光景を上空から見下ろして、エルフェリスは絶句した。そして己の浅はかさを悔やむ。


 けれどロイズハルトはエルフェリスの行動を責めるようなことはしなかった。


「私の気配を察知して来たんだろう。エルを巻き込んですまない」と、反対に謝罪までされてしまったものだから、エルフェリスは余計に罪悪感に囚われた。


 ハイブリッドの群れから少し離れた場所に降り立つまでの間、エルフェリスたちはどうにか彼らの魔の手から逃れる術がないか探ったものの、相手も能力的に劣るとはいえヴァンパイアであることは変わりなく、地上から、そして空中から、容赦ない攻撃が加えられ始めていた。


 ロイズハルト一人ならば苦戦するような相手ではなかったのかもしれないが、エルフェリスというお荷物が行動をともにしているために、必然的にエルフェリスを庇いながらの応戦となり、言うまでもなく戦法に狭まりを強いられる形となっていた。


 それでも的確に魔法を繰り出してはエルフェリスを抱えて攻撃を避け、そしてまた魔法を放ち、ハイブリッドたちを確実に仕留めていく。


 少しの時を経る頃には、五人目のハイブリッドが大地の上で物言わぬ灰と化していた。


 その光景を憤怒と驚愕の入り混じる眼差しで見つめていたハイブリッドたちは、圧倒的な力を見せつけるロイズハルトの前に分が悪いと判断したのか撤退の素振りを見せ始めている。


 リーダーらしき男が残った周囲の者たちを森の中へと退かせて、自らもまた身を翻し、大地を蹴った。


 かに見えたその時。


 反対側の足でもう一度大地を蹴った赤目の男は、素早く体の向きを回転させると、エルフェリスの安全を確かめるために背を向けていたロイズハルトに向けて、その手に握り締めた剣の切っ先を真っ直ぐに突き出した。


 その情景をロイズハルトの肩越しから見ていたエルフェリスは、とっさに彼の腕の中から飛び出ると手を広げ、飛び込んでくる男とロイズハルトの間に割って入っていた。


ロイズハルトが振り向くのと同時に、エルフェリスの体の中を熱い何かが通り抜けていく。そして再び体の中を何かが引き抜かれていく感触。


 痛みを感じることはなく、エルフェリスが溢したのは一つの吐息のみだった。


 エルフェリスはついに、自分の身に何が起こったのかを知ることなく崩れ落ちた。けれどその瞬間を、ダークアメジストの双眸はしっかりと映していたのである。


 刹那、驚愕に揺れる紫暗の光がエルフェリスの瞳を捉えたものの、どういうわけか、エルフェリスの口から零れていくのは言葉ではなくて、隙間風のような異様な音と、生暖かい鉄の塊。


  そして数瞬の時を待たずしてその音を掻き消すかのような喧騒が沸き起こると、森に姿を消していたハイブリッドたちが再び襲い掛かってきた。


  彼らの到達を待たずに、エルフェリスは新たな苦痛に声を奪われていた。揺らめく視線の先で、赤目の男がエルフェリスの手首に噛み付いているのが目に入る。


 その瞬間にロイズハルトは力を失いつつあったエルフェリスの身体を片腕で強く抱くと、いまだ手首に噛み付いたままの男の顔面を力いっぱい蹴り付けて、それから容赦なく魔法の一撃で葬り去った。


「貴様ら……楽に死ねると思うなよ!」


 ロイズハルトが吠える。


  そして灰と化しつつある男の首を片手でのみでへし折ると、無造作にそれを崩れゆく体から引き千切り、迫り来るハイブリッドたちに向かって投げ付けた。


 頭もすぐに体同様灰と化したが、その光景を見せつけられたハイブリッドたちは戦意を削がれ、今度こそ森の中へと退避してゆく。


 エルフェリスはその様子をロイズハルトの腕の中でぼんやりと見つめていた。


 いや、正確に言うと両目の焦点はすでに失われつつあり、鮮明に物事を映すことができなくなっていた。


 ハイブリッドたちが立ち去ったのを確認して、それからロイズハルトはエルフェリスを草地の上に横たえた。そして優しく、その名を呼ぶ。


  エルフェリスの目に映るのは、儚げに揺れるダークアメジストの光だけだった。


 彼の名を紡ごうとしても、口から零れるのは得体の知れない異音ばかりで、代わりに瞳から涙が溢れていく。


「エル……。村へ連れて行ってやるから、持ち堪えろ!」


  必死の形相で叫ぶロイズハルトの声が遠ざかっていく。


 それと同時に意識は体から引き剥がされ、また再び、深い水の底へと沈んでいく感覚に襲われていた。


 ダークアメジストの光が薄れ、代わりに広がった世界はどこまでも続く闇に包まれている。


 ようやく紡ぐことのできた名前は虚しく宙に吸い込まれ、泡沫の波に飲み込まれながら消えていった。


 涙が、溢れる。

 あの男性ひとの瞳の色を想い出して。


  涙が、溢れた。

 あの男性ひとの瞳の色を忘れていたことを想い出して。


  そうだった……。


 そうだったのだ。


 ――私はあの時。


 あのダークアメジストの光に包まれたあの時。


  ……涙が、溢れた。


「私はあの時、――死んだんだ」



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