夢、うつつ(2)
すぐに青年の腕を取り、自分の首の後ろに回すと渾身の力を込めて青年の身体ごと立ち上がり、彼の身体を支えつつ、おぼつかない足取りで少しずつ前へと踏み出した。
線の細いヴァンパイアといえども、少女の身で長身の男性を抱えて歩くのは困難を極めた。
時おり体重の均衡が失われて、青年とともに草地に倒れ込んだりもした。普段はなんてことのない段差にも難儀して、一人つんのめったりもした。
けれども夜のうちに光の届かない安全な場所へと青年を移動させなければ、彼は陽の元で灰となる運命なのは目に見えている。
幸い、夜明けまではまだ十分時間がある。
なるべく足跡の残らないような場所を選んで、エルフェリスは彼の身体を引きずって夜通し歩いた。
そしてようやく目的の場所まで辿り着くと、周囲を見回して、それから覚えたばかりの風の魔法でエルフェリスと彼の気配を空へと霧散させた。
周囲は深い森と無数の岩で覆われており、人目に付く事はないかと思われたが、ヴァンパイアは人間よりも遥かに五感に優れていると聞く。
青年の背から流れ出る血の臭いや、エルフェリスの額を流れ落ちる汗の臭いを嗅ぎつけられでもしたらすぐに追手が掛かるかもしれない。用心に用心を重ねるに越したことはなかった。
青年をその小屋へと運び込み、荒れた床の一角に横たわらせると、まずは窓に備え付けられたカーテンを隙間なく引いた。
それから入り口の扉を施錠し、そして拙い手つきとおぼつかない詠唱の末に、ひとつの光の魔法を施した。闇の波動を感じれば、すぐさま魔法が発動するよう仕掛けて。
この魔法を実践で試すことになろうとはまさかのエルフェリスも思ってはいなかったけれど、神聖魔法使いとしての修業で先日習ったばかりのその魔法は、きっとエルフェリスの身を護ってくれるはずだった。
光の魔法は闇の眷属であるヴァンパイアにとっては命取りともなり得る魔法で、人間に対してはあまり効力を発揮しないものの、ヴァンパイア相手では凄まじい威力を誇り、高位の神聖魔法使いともなれば一瞬にして大量のヴァンパイアを葬り去ることも可能となる。
エルフェリスはいまだ修業の身ではあったけれど、養父のゲイル司祭からも教会本部からも素質を認められ、このままいけば正式に神聖魔法使いの称号を得ることが叶いそうな状況にあった。
その力を初めて使う機会がよりにもよってヴァンパイアを助けるために訪れるとは皮肉と言うより他なかったけれど、それでも一度助けると決めたからには種族など関係ない。
扉を覆う光の魔法はゆっくりと建物の外側に広がり、邪悪な闇の一団の侵入を赦しはしないだろう。
すでに中に入ってしまった青年には及ばない魔法であるから、エルフェリスもようやく一息ついて、それから再び室内に戻ると床の一画へと視線を滑らせた。
「まさか、こんなところで役に立つなんてなぁ」
独り言を呟きながらも足は積極的に移動を始めていて、固定していた視線の場所まで来るとエルフェリスはおもむろに身を屈めた。
「確かここに……」
床には一メートル四方の赤い絨毯が引かれていた。騎馬と複雑な文様が織り込まれた絨毯は、長年の間に降り積もった埃によってくすんでこそいたが、床にも同様に埃が降り積もっていたため移動された形跡もないことが一目で確認できた。
その様子にほっと胸を撫で下ろすと、なるべく埃を立てないようにゆっくりと絨毯を引っ張り上げる。
微かに舞い上がる灰色の綿埃を顔を逸らし息を止めることで耐え、少しの間を置いて、再び視線を元に戻せば絨毯の引かれていた床にちょうど手が掛かるくらいの窪みが姿を現していた。
「あった。これだこれ」
それを認めて満足気に頷いたエルフェリスは躊躇いもなくその窪みに手を掛けると、力任せに一気に引き上げた。
ギギィと軋む音がして床が跳ね上がり、代わりに階下へと伸びる階段が暗闇の中に姿を現した。
周囲を取り巻く暗黒をすべて吸い込んだような闇の海が広がっているのは、階下には一つとして光の入り込む隙間が無いからであった。
唯一の光源はこの出入り口のみであって、ここを降りると地下に掘った隠し部屋へと繋がる。
ここにはかつて人嫌いの神官が一人で住んでいたのだが、随分前に迷い込んできたハイブリッドに襲われて命を落としていた。
以来この小屋は無人となり放置されていたのだが、村の外れも外れに位置し、誰も近寄らないのを良いことに、エルフェリスは密かにこの小屋に出入りしてはゲイル司祭のお説教から逃れたりしていた。
この場所は教会の限られた者たちしか知らない場所にあり、目と鼻の先は未知なるヴァンパイアの領地。そのような場所までわざわざ足を運んで探し出し、エルフェリスを連れ戻そうなどという強者はあの教会にはいない。
だからたとえこの場でヴァンパイアの青年を匿っても、人間たちにはばれないで済むだろうと考えていた。
とにもかくにも階下へ降りるには階段か隠し部屋に明かりを点けねばならず、エルフェリスは少しだけ青年の様子を窺うと、すぐに荒れた室内を火を灯す道具を捜して歩き回った。
隠し部屋に降りることなど久しくなかったために道具の隠し場所を失念していたのだが、記憶の糸を辿って何とか探り当てると、さっさと階段と階下の部屋のランプに火を灯した。
闇が取り払われ、オレンジ色の炎が揺れる中を、青年の身体を再び持ち上げて、ずるずると引き摺るように階段を下りて行く。
日頃の修業の賜物か、無駄に力だけはあって助かったと本気で思ったくらいにそれは体力を要する作業であった。
階下の部屋はかつての主人が主に居住スペースとしていたのか、寝具が一式と、食器、机、棚、それから給排気口がきちんと備えられていた。
エルフェリスは迷わずベッドを目指すと、半ば倒れ込むように青年の身体を横たえた。
そして彼の肩と腰の辺りに両手を掛けて、背中の傷口を上にする体勢を取らせる。
それから室内を忙しなく物色して回り、何か手当に使える物は無いか探った。机の引き出しをすべて確認し、それから棚の捜索に取り掛かる。
すると引き戸の奥から包帯と乾燥させた薬草を詰めた瓶が出てきたのでエルフェリスは迷わずそれらに手を伸ばし、すぐにベッドに横たわる青年の元へと向かった。
癒しの魔法は聖職者のほとんどが習得できる初歩の魔法ではあったが、光の力を集めて起こす奇跡がヴァンパイアである青年にどのように作用するかわからない以上安易に使うわけにもいかず、薬草を用いた治療を施す以外打つ手はなかった。
瓶を開け、中の匂いを確かめる。
薬学は教会でも教わっていたし、教会の中庭でも薬草を栽培していたのがこんなところで役に立つとは思わなかったけれど、瓶の中身が消毒と治療に使える物であったことを神に感謝せずにはいられなかった。
エルフェリスは早速青年の体を寝台の上で転がして、その身に纏っていた黒い装束を脱がしに掛かった。
何だかこう、若い娘が若い男の――実際の年齢など分かったものではなかったが――服を脱がすなど、気恥ずかしい気もしないでもなかったが、今は一刻を争う。
乱暴に頭を振って邪念を振り払い、それから一気に上半身を覆っていた服を脱がすと、再び青年の肩と腕に両手を掛けてうつ伏せの体勢に持っていった。
ランプの灯りの中で、青年の白い背中が暖色に染まる。
そして改めて肩から背中に斜めに走る傷が、その全容を現した。
傷の周りは青年自身から流れ出た血で汚れてはいたものの、傷の具合を確かめようと顔を近付けてみると、出血自体は収まりかけているようだった。
ヴァンパイアは傷の回復が人間よりも遥かに早いと噂で聞いたことはあったけれど、これほどまでに大きな傷を受けてもこんな短時間で出血を止められるとは驚愕以外のなにものでもなかった。
しかしながら手当もせず帰るのは忍びなく、エルフェリスは薬草の瓶を手に取ると一通りの治療を施して、それから悪戦苦闘して包帯を巻き、仕上げに青年の纏っていた漆黒のマントをその体に掛けた。
長い間使われていなかったので仕方がないが、ベッドも室内も埃っぽく、エルフェリスは小さく咳き込むと、外の様子を窺うために一人上階へと上がっていった。
小屋の中はしんと静まり返っており、朝を告げる鳥たちのさえずりが鼓膜を刺激する。その声に誘われるように窓辺へと移動すれば、カーテンの隙間から闇を切り裂く光の筋が入り込んでいた。
その情景に、エルフェリスは人知れず安堵の溜め息を漏らしていた。これで再びの夜が訪れるまでハイブリッドの影に脅えなくて済む、と。
青年はいまだ意識を取り戻してはいなかったが、ありがたいことに自分は無事朝を迎えることができた。
太陽が昇れば、村を飛び出したまま戻らないエルフェリスを捜索するためにハンターたちがこの辺りまでやって来るかもしれないことを危惧して、エルフェリスはすぐに階下への出入り口を閉ざし、絨毯を元に戻すと、窓から一応外の様子を窺って、それからゆっくりと陽の元へと踏み出し大急ぎで村へと帰還した。