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† 残 †   作者: 月海
第六夜 螺旋の彼方
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夢、うつつ(1)


 冷たい水の中を、流れに任せて漂っている。


 波を受ける体は左右に大きく揺さぶられ、けれどもその瞳を開こうと思わなかったのは、目を開けたらまたすべてを失ってしまうかもしれない恐怖を覚えていたから。


 水に揉まれ、侵食される心は波間を漂うガラスのように角を削られ、ゆっくりと形を変えようとしている。


 変えられるのか、それとも変わるのか。


 次に目を開けた時に自分は一体何を想うのだろうか。


 沈んでいく身体が、冷たい。





 二台の漆黒の馬車が、暗く、光の差しこまない暗道を駆け抜けて行った。


 先頭の一台目には御者の男だけが乗っており、その客車は明かりも灯されることなく一見すると黒い塊が移動しているようにしか見えなかったが、かわって後列の二台目の客車には明かりが灯されており、こちらは窓越しに三つの影が揺らめいていた。


 泉のほとりで突如異変に襲われたエルフェリスを抱えたロイズハルトとルイは、シーラの御する馬車を先導させ、自分たちは後列のデマンドの馬車へと乗り込んだのだった。


 がっくりと意識を失ったエルフェリスを抱えて現れたロイズハルトを出迎えたデマンドとシーラは、何事かとひどく血相を変えたが、ルイが短く出立を宣言すると、それ以上を詮索することなく互いに顔を見合すだけに留めてそれぞれの御者台へと上がっていった。


 客車のソファに身を沈めた後もロイズハルトはエルフェリスの身体を放そうとはせず、ルイもまた向かいの席に腰を下ろしてその様子を時おり横目で眺めるだけで、両者の間には沈黙という名の壁が築かれつつあった。


 しかしながらルイの黒曜石の瞳が室内を照らす燭台の炎の色をまとった瞬間に、その壁は静かに崩れ去った。


 炎の揺らめきを両眼に映したままのルイが、その唇を静かに動かしたのだ。


「話したくても話せない秘密というものは、誰にでも存在するでしょう。でも、これ以上を私に悟られるのはロイズにとっても、エルにとっても良くないのでは?」

「……何が言いたい」


 ルイの言葉を受け、ロイズハルトはエルフェリスの顔に視線を落としたまま、暗く、感情を押し殺した声で唸った。


 その返答を聞くや否や、ルイが小さく笑みを漏らしたのは、向かいの席に座る男の心が動揺の波にさらわれていなかったことを確信したからであった。


 しかしその表情を正面から受け止めた紫暗の瞳の男には、そのような心情など知り得るはずもなく、いささか不快そうに眉を潜めている。


「私が何も気付かなかったとでも? これでも、他人の心の動きには敏感なのですよ」


 意味あり気なセリフと微笑を投げ付けるルイを一瞥して、ロイズハルトはその瞳を微かに動かしたが、その挑発に乗ることはなくまたその口を堅く閉ざすと沈黙を決め込んだ。


 そしてその腕に抱えるエルフェリスに再びの視線を向けると、それ以上の追及を拒むようにダークアメジストの瞳をも瞼で隠したのだった。






 闇色に染まった世界の先に、一筋の光が差し込む。


 頬を風が撫で、目を開けろと迫る。


 浮上を始めた意識は上昇気流に乗り、加速して、堪らず開いた瞳に映るのは、幻のごとく白く霞がかった情景。


 ふわふわとその空間を漂う体は実体ではないのだろうか。


 ぐるりと視線を巡らせば、広がるもやの向こうに人影が佇んでいるのが見て取れた。


 その影に吸い寄せられるように、体がふわりふわりと勝手に綿毛のように歩を進める。


 近付くごとに視界を遮っていた霞は晴れ、次第に体の感覚が戻っていく中、やがて"エルフェリス"の前に一人の青年が背を向けて立っている場面に出くわした。


 青年の顔こそ見えなかったが、その肩から背にかけて斜めに刀傷を負っている。


 その光景が目に飛び込んでくるのと同時に息を飲むと、エルフェリスの存在に気が付いたのか青年は静かにその顔を動かすと、「娘、死にたくなければ今すぐここを離れろ。ここは危険だ」とだけ呟いた。


 しかしエルフェリスがその言葉に返答しようとする間もなく、青年の身体は陽炎のごとくゆらりと揺れ、大地に引き寄せられるように崩れ落ちた。


 死にたくなければここを離れろ。


 そう忠告されたばかりであったが、目の前で倒れた青年を見捨てることはエルフェリスにはできなかった。


 その背に負った刀傷は青年の黒い装束を引き裂いて周囲を赤く染めている。


 躊躇している暇などなかった。一刻も早く治療を施さねば、命に関わるかもしれない。


 ざっと見ただけでも、それほどの傷であることは容易に理解できた。


「どこか……。……そうだ! あそこへ」


 誰の手も借りることができない手前、一人で青年を運ばねばならなかったがそれも承知の上だ。


 少しばかりの思案の後、エルフェリスは彼を運び込む場所を決めて、そして倒れる青年の前に回り込んだ。身を屈め、改めて青年の顔に目を移す。


 美しい顔をしていた。両眼は閉ざされていたが、その瞼に落ちかかる髪が青年の白い顔に影を作り出していて、えも言われぬ妖艶さを醸し出している。


 しかし眉は苦痛に歪み、色を失った形の良い唇からは荒い息と呻きが交互に零れている。


 そして、その唇の影に隠れるもの……。


「っ……ヴァンパイア!」


 薄く開いた口の両端から、鋭く光る毒の刃がその存在を主張するかのように煌めいているのを見るや否や、エルフェリスは息を飲んで思わず自分の口元を両手で覆っていた。


 青年の顔と牙とを視線が忙しく往復し、全身を流れる血液が一斉に逆流を始めるような感覚に皮膚がざわめいた。


 それもそのはずだった。


 エルフェリスの暮らす村では今、ハイブリッドヴァンパイアによる襲撃が後を絶たず、日々数人の村人や旅人がその毒牙に倒れていたのだ。今夜もまた殺戮が行われ、三人の死者を出したばかりだった。他にも何人か、やつらの持っていた武器によって負傷した者もいた。


 自分は神聖魔法を習得せんとする神官として、とっさにハンターと一緒になってハイブリッドヴァンパイアたちを追っていたのだが、所詮人間の自分がヴァンパイアの足に追い付けるわけもなく、姿を見失って、仲間のハンターたちともはぐれ彷徨っているところをこの場に出くわしたのだった。


 しばらくの間、エルフェリスは重傷の青年を前にどうしたら良いのか迷っていた。


 ヴァンパイアであることは間違いないのだが、このような容貌の者は襲撃してきた面々にはいなかったと記憶している。


 しかしながら、村の外にハイブリッドの仲間が蔓延っている可能性も否定できず、もしこの青年がやつらの仲間であったのならば、自分は自分の暮らす村に危害を加えようとしている者を助けることになる。


 迷うなという方が無理というものだった。


 けれど、青年は言った。


「死にたくなければここを離れろ」と。


 そして背中の太刀傷。


 もしもこの傷がハンターの誰にかによるものでなかったとしたら、この青年は村を襲ったヴァンパイアの集団とはまた別のヴァンパイアという可能性も出てくる。


 共存の盟約の盟主代理を務める教会の司祭を育ての親に持つ身ゆえ、エルフェリスはヴァンパイア側の事情とやらにも少しだけ知識を持ち合わせていた。


 名前は忘れてしまったけれど、共存の盟約を軽視し、異議を唱え、人間の世界を荒らしまわるハイブリッドヴァンパイアの一団がいるのだとか。


 そしてそれを平定するために出撃してくるシードヴァンパイアという上級吸血鬼たちもいるのだそうだ。


 この目で見たことはなかったけれど、シードヴァンパイアというのはハイブリッドヴァンパイアのように夜になるとその片目が真っ赤に染まるわけでもなく、見た目は色白の人間と変わりないと聞き及ぶ。


 目の前に倒れている青年は両眼を固く閉ざしており、その瞳の色を確認することはできない。


 けれど、エルフェリスを見ても襲うことなく逆に逃げろと忠告してくれたことを考えると、村を襲っているハイブリッドとは違うのではないかという思いが大きくなっていった。


 この場で彼を見て見ぬ振りをし、通りすがるのも手段の一つではあった。


 けれども、時に人の命を委ねられる神のしもべとして、傷付き、苦しんでいる者を見捨てることなどできない。それが、たとえヴァンパイアであったとしても。


 その瞬間に、エルフェリスの心は固まった。



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