失われた心(4)
それからしばらく、種族の垣根を越えて三人は他愛もない話題で笑ったり、深刻な話題で表情を曇らせたりと忙しく情報を取り交わしていたが、ロイズハルトが今夜のうちに村を出ると言うので、エルフェリスもそれに付き従い城へと帰還することにした。
もともと長居をする気はなかったし、ルイをシーラと共に馬車に残して来てもいる。
彼らは快く送り出してくれたものの、エルフェリスを待つ間に太陽の光に曝されたり、ハンターの目に留まる可能性も否定できない。ロイズハルトは気にせずもう一晩くらい泊まっていってはどうかと提案したが、そういうわけにもいかないのだった。
司祭が出立前の茶を一杯用意している間に、エルフェリスは自室に駆け込んで、文字通り部屋中をひっくり返しながら大急ぎで荷物の用意を進めた。
三者会議で村を発つ時分には、すでに城への長期滞在を目論んではいたものの、まさかあっさりと実現するとは思いも寄らず、ほんのわずかな荷物で向かったものだから着慣れた服もなければ身の回りの物もほとんど持っていない。
デューンヴァイスによって与えられたドレスは手を加えたと言っても、やはり元がドレスだと動きにくさは否めない。
要するに、着慣れたものが一番というわけだった。
「あれどこやったっけ? あれも無いな! あれー?」
デューンヴァイスの部屋のごとく散らかった床の上を忙しく往来しながら独り言を上げるエルフェリスの耳に、二つの苦笑が届いては消えていった。
「やっぱり、村に戻って良かったな」
荷物片手にゲイル司祭に別れを告げ、ロイズハルトとともに村を出たエルフェリスは、街道を横目に林の中を進んでいた。
夜更けといえども物好きな旅人はどこにでもいるもので、いくら見た目は人間とはいえロイズハルトの姿を人目に曝すようなことはしたくはなかった。
月が夜の空を滑り、斜めに見下ろす中を暗道目指して獣道を掻き分け歩く。
生い茂る木々が零れる光を遮って、時おり足を取られもしたが、何度か繰り返すうちにロイズハルトの方から手を差し出された。
「そそっかしいな、道案内人が」
「仕方ないでしょ、夜なんだから」
苦言を漏らしながらも微笑むロイズハルトの顔に月光が降り注ぎ、その美しい紫暗の瞳に一瞬の色を与える。
呼吸も忘れ、その瞬間に釘付けになっていると、ロイズハルトは風のような動作でエルフェリスの手を握り締めると、また再び歩き始めた。
「……ロイズがいるとは……思わなかったよ」
「……エルが来るとは思わなかったな」
少しの間をおいて呟くようにそう言えば、ロイズハルトもまた視線を前に向けたまま、名をエルフェリスに変えただけの返答をしてきた。
「ルイとどこかの城へ出かけたと聞いていたからな」
そして肩越しに微笑を洩らす。
「ルイは協力してくれただけ。私がわがままを言ったんだ」
「それもまた珍しいことだがな」
「そうかな……ルイって親切だよね。優しいし」
「まあ、それは否定しないな」
悪戯にロイズハルトは瞳を細めると、それからまた前に向き直る。
ロイズハルトのダークアメジストの瞳が見えなくなる度に、エルフェリスも視線を進行方向に向けた。
にわかに視界が開けたのは、それからすぐのこと。
長らく続いていた木々の屋根が取り払われ、藍色の布で一面を覆ったような空が姿を現したのだ。
そこには一片の陰りもなく、光の粒を撒き散らしたような満天の星々と、丸々と形を取り戻した月が煌々と輝いていた。
その下には空からの落し物を受け止めんと広がる、小さな泉。天から注ぐ光を残らず反射して、水面がきらきらとさざめいている。
「この泉の先でルイたちが待ってるはずなんだ」
エルフェリスはそう言うと、ロイズハルトの脇をすり抜けて泉を目指して小走りに駆け出していた。
世界が広まれば、気分も広まる。
「この泉には、小さい頃からよく来てたんだよ。大好きな場所なんだ」
泉のほとりに辿り着いて、後ろを追いかけてきたロイズハルトにそう言うと、エルフェリスはその場に跪いて片手を水の中に浸した。
手のひらで水を掬い、星屑のようにきらきらと零れ落ちていくそれを眺めやる。
そして振り返ると、月を背景にこちらを見下ろすロイズハルトと目が合った。
宝石のように煌めく、ダークアメジストの瞳。
でもどうしてだろう。
エルフェリスを見つめる彼の瞳は月の光を拒むように歪み、揺れていた。
「ロイズ?」
名前を呼んでみても、反応が返ってきたのは数瞬の時を置いてから。
何かに弾かれたようにはっとして、それから胸中を塞いでいた空気を押し出すように吐き出したロイズハルトは、自分の感情をごまかすように曖昧な笑みをその口元に湛えた。
けれどその瞳は相変わらず宙を彷徨っている。
そんなロイズハルトの様子を怪訝に感じたエルフェリスであったが、この世界に生きていれば人間もヴァンパイアも突然何かを思い出し、その光景に意識を奪われることもあるだろう。そう思うだけに留めて、エルフェリスはゆっくりと立ち上がる。
だからエルフェリス自身もまた、気付いてはいなかった。
――自分も、ロイズハルトと同じ景色を見ていたことを。
にわかに風が動いた気がして視線を周囲に巡らせれば、泉の対岸から月の欠片を宿したような男が手を振っているのが目に留まった。
「ルイ!」
その姿を認めて、エルフェリスも彼に手を振り返す。
「行こ、ロイズ」
そしてなおも己を取り戻し切れていないロイズハルトを促して、泉のほとりをロイズハルトと肩を並べて歩き出した。
星を沈めたかのようにきらきら輝く水面は、微かな風を受けて小さな波を作り始めていた。
足が、数歩進んだところでぴたりと動きを止める。
ふいに鼓動が早まり、突如瞼の裏に湧き上った疑念が、エルフェリスの神経のすべてを奪い去っていく。
濃紺色の夜空。
瞬く星の欠片たち。
傾く乳白色の満月。
さざ波に揺れる泉。
ダークアメジストの光。
ダークアメジストの光……。
――私は……この光景を、知っている?
瞳を開いたまま立ち尽くすエルフェリスには、駆け抜けていく風の音も、夜を彩る景色も、木々の香りも、届いていたはずなのに、心の内側を突き破ってきたその「情景」は、エルフェリスからありとあらゆる感覚を奪い取っていた。
「……どうした? エル?」
そんなエルフェリスの様子を背後から覗き込むロイズハルトの姿が、にわかに霞んでいく。
急速に色を失って、闇が広がって、エルフェリスの瞼に大量の血を思わせる幻が押し寄せてきた。
「いやっ!」
その瞬間。
エルフェリスは狂ったように叫びを上げ、両目を固く閉じると頭を抱えてその場にうずくまった。
髪に爪を立て、迫り来る何かを拒絶するように何度も何度も頭を振る。
「エル? どうしたんだ? っ……ルイ!」
明らかな異変を察知して、ロイズハルトはエルフェリスの傍らに跪くと同時に対岸のルイに対しても声を張り上げる。
ルイもその時にはすでに走り出していて、エルフェリスのそばに到着するのにはそれほどの時間を要さなかった。
けれど、今のエルフェリスにはそのようなことを気にする余裕すらない。
「ああ……、ああ……!」
痛い。
割れるように、頭が痛い。
「あっ……あ!」
目が、焼ける。
心臓が、突き破られる!
「エル……しっかりしろ! エル!」
「何事です、これは!」
「エル!」
エルフェリスの名を呼び続けるロイズハルトと、動揺の色を隠そうともしないルイの声は、すぐそばで発せられていたはずなのに、苦しみ喘ぐエルフェリスの耳には遥か彼方の幻聴のようにしか響かなかった。
この痛みにはこれまで何度も耐えてきたはずだった。
――はずだったのに。
けれどどうしてか、今夜のそれは今までとは比べ物にならないほど強烈な痛みを伴っていた。
自らを掻きむしり、押えつけなければ急速に形を取り戻し始めた「何か」に身体ごと引き裂かれてしまいそうになる。
体中の至る所からは次から次へと脂汗が浮かび上がり、泉に落とされたわけでもないのに衣服はそれを吸い取って重く濡れ、己を掻き抱く両手の爪は白く色を失っていた。
何が起こっているのか、分からなかった。
エルフェリスも、ロイズハルトも、ルイも。
けれども、泉のさざ波の音が耳の奥にこびりついて離れない。
水の音が鼓膜を刺激する度に、突き上げるような頭痛と"何か"の情景が浮かんでは消えていく。
「ど……して……」
荒々しい呼吸の狭間から言葉が零れていったのは、偶然だったのか、それとも必然だったのか。
薄く開いた瞼の向こうに、紫色の光が輝いていた。
ああ……そうか……。
刹那。
何かの弾ける音がして、紫色の光を映したまま、エルフェリスの身体はゆらりと大地に向けて傾いていた。
けれども地に叩き付けられるよりも先に、素早く伸びてきたロイズハルトの腕の中、気まぐれに風に舞う羽根のごとく、もう一度だけふわりと意識が浮上した。
星々を背に揺れる、紫暗の瞳。
抱き止める、冷たい腕。
――そうだった……。
そうだった。
「どうして……忘れていたんだろ……」
うわ言のように呟くエルフェリスの瞳から涙が一粒零れて、ロイズハルトの腕を伝って大地へと染み込んでいった。
そして震える手をロイズハルトの頬に伸ばせば、指先は彼の冷たい頬をかすり、そしてすぐに力を失って、再び地に落ちる。
揺れる、紫暗の瞳。
「……私……ここで……」
脳裏に浮かぶ情景に想いを馳せたまま、言葉は勝手に零れ落ち、けれどその先を紡ぐことはできなかった。
夜の闇が瞼の上に降り注ぎ、意識はそこで途絶えた。