失われた心(2)
漆黒の闇の中、紫暗の瞳を煌めかせ、蝶のように夜空を舞うあの男性。
「ロイズ……」
自制よりも驚愕が勝り、その確信は言葉の刃となって沈黙のベールを引き裂いた。
それを発端として室内の会話も途切れ、それに代わって人の動き出す音が聞こえた。床を踏み鳴らし、気配がこちらに近付いて来る。
まずい!
そう思った瞬間にエルフェリスの体はとっさに行動を開始していた。向かいの部屋のドアノブを握り締めていたのである。
ここはこの教会においてのエルフェリスの部屋。
ヴァンパイアの居城で与えられた大きくて豪奢な部屋とはまるで違ったが、妙な安心感を得られるのと、窓から見渡せる山々と、教会が管理する庭の眺めが特に気に入って、前所有者でもあったゲイル司祭に駄々をこねる形で部屋を変わってもらった経緯があった。
けれど三者会議に伴ってこの村を発つにあたり、留守中に誰かに入られても年頃の娘としては困るわけだから、当然出発時には施錠は厳重に行った。
そしてその用心さが仇となった。
開くわけもない扉を一生懸命引っ張る後ろ姿を、ロイズハルトに発見されてしまったのだ。
「エル! どうしてここに……」
「え? エルが来ているのですか?」
エルフェリスの姿を認めて呆然とロイズハルトがそう言うと、数瞬遅れて慌ただしく彼の背後から懐かしい顔がのぞく。
「エル……戻って来たのですね! ああ無事で……無事で……」
白髪交じりの髪を揺らし、目尻の皺をより一層深めて司祭はエルフェリスとの再会を諸手を挙げて喜んだが、エルフェリスとしては少々不服なものであった。
なぜなら、彼女の両手はその瞬間も自室のドアを無意識に引っ張っていたのだから。
本当ならば湧き上る感動に打ち震えていたはずなのに、自分の作り出したこの状況がその半分ほどを削いでしまっていた。
しかしながら、久しぶりに見るゲイル司祭の姿はやはり胸に迫るものがあり、エルフェリスはようやくノブから手を放すと、無言で司祭の胸に飛び込んで行った。
「お客様の前で」と苦言を口にしながらも、愛おしそうに抱き締めてくれるこの暖かい腕が大好きだった。いくつになっても、それは変わらない。
ゲイル司祭の懐から離れた時、ロイズハルトは気まずそうに視線を逸らしていたが、ふいにエルフェリスと目が合うと、いつもと変わらぬ笑顔をその顔に浮かべた。
「しかし本当に驚きましたよ、エル。ロイズのみならずあなたまで一夜のうちに訪ねて来るなんて……」
改めて室内にエルフェリスとロイズハルトを案内しながら司祭は感慨深げにそう言うと、二脚ある椅子のうちひとつをロイズハルトにすすめ、自らもその向かい側に腰を下ろした。
エルフェリスはというと、まさか床の上に直接腰を下ろすわけにもいかず、司祭の背後にあるベッドの縁に座ることにした。ここならば司祭の表情は見えないけれど、ロイズハルトの顔は良く見える。
「なに、私は近況報告も兼ねて来ただけのこと。しかしエルはどうかな? 確かルイと共に城を出たのでは?」
いつもより少し堅苦しい喋り方をするロイズハルトに少しの違和感を覚えながらも、エルフェリスはどこから話したものかと考えを巡らせながら、今さらこの二人に隠し事をしても何の利益もないだろうと頷いて、ルイと城を出た経緯を簡単に説明した。
「ではルイは村までは来ていないのですね」
ルイの名を聞いて、ゲイル司祭は懐かしそうに目を細めたけれど、彼の来訪が無かったことには少し肩を落としたようだった。
「ルイは風のような男だ。誰もいない気楽な時を選んでまた来ることもあろう」
それに対してロイズハルトは目を伏せると、小さくそう呟く。
「そうですね。今はどう考えても気楽さの先立つ時ではありませんからね。この村に居ても、耳に入ってくるのはどれもこれもうんざりするようなものばかり。毎日頭が痛いですよ」
司祭は背後からも分かるように大きく両手を広げ、それから肩をすくめた。
「エルのこともね、この村で噂に惑わされる者はいなくても、外の世界では分かりませんからね。どうしたものか、皆心配していたのですよ」
「すいません……」
ゲイル司祭の言葉に、エルフェリスは肩身の狭くなる思いがした。
神聖魔法使いの称号を得てからというもの、村にいても、ヴァンパイアの城にいても、結局は司祭の手を煩わせる問題ばかりを呼び寄せ、その足を引っ張ってしまっていることに罪の意識を感じずにはいられなかった。
事あるごとに教会本部からは目を付けられ、実際に査問にかけられたこともあったのだが、恐らく今回はそのどの事態よりも分が悪いのは目に見えている。
教会本部に絶大な発言力を持つゲイル司祭の力をもってしても、状況次第でエルフェリスはいくらでも劣勢に追い込まれていくのだろう。司祭の言葉にはそのような懸念が見え隠れしていた。