先人の足跡(2)
「気の遠くなるような年月を生きてきた我々にとって、変化の無い生活は退屈そのものでした。誰もが心の奥底で新たな刺激を求めていた。マルファス・エラスの提案は水に薄められた毒のようにじわじわと我らの心に広がり、彼が晩年を迎える頃、ついに共存の盟約は成立したのです。まあ……半分はゲームのような感覚だったのだろうと今考えれば思いますがね」
ルイはそう言って苦笑したが、いずれにしてもそれによって新たな時代の幕は開き、新たな世界が形を成した事は間違いない。
マルファス・エラス司祭によって提言された共存の盟約はヴァンパイアたちにも受け入れられ、永らく続いた両者の攻防には一旦の終止符が打たれた。
戦場を机上に移しただけとの声もあったけれど、それでも一進一退の協議を重ねて今日までやって来た。
相手がいつ再び牙を剥くか知れない状況の中で、代々の司祭たちは時に椅子から転げ落ちながらも自らの命を賭して共存の盟約を守り続けてきたのだ。
土地を奪われれば教会本部に罵られ、取り戻せば称賛される。理不尽だと嘆いた者もいただろうに、誰一人その任を放り出した者はいなかった。
すべてはマルファス・エラス司祭の名を自らの誇りに変えていたからである。
そんな司祭たちの跡を追い掛ける権利を得たエルフェリスにとって、彼らが刻んできた歴史もまた大きな誇りであった。
たとえルイたちにとってはゲームだったとしても、当時の人間は共存の盟約に数えきれないほどの蜘蛛の糸を見出しただろう。
「ゲームと表現したのは失言でしたね」
しばらくエルフェリスが沈黙していたからか、ルイはふっと息を漏らすと、それから苦い笑みをその顔に浮かべて頭を下げた。
「しかしね、エル。なぜ私がこのような話をあなたにしたのかと言いますとね、私もあなたに会って、エラス司祭への態度が間違っていたのかもしれないと思ったからなのですよ」
「警戒してたことが?」
「そうです。私は彼が没するまで一貫して傍観者に徹しました。当時私はすでにシードを統率する者の一人としてそれ相応の力を持っていましたからね、本当は三者会議にも出席せねばならない身分ではあったのです。けれど私は彼を信用できず、また盟約にも何の価値も感じてはいなかった。今さら己に制約を課して何になるのかと、そう思っていた。ですから現在に至るまで会議には一回も参加したことはありません。しようとも思わなかった」
最後の一言をその唇から滑り落としたルイの表情からは、それまで彼を包んでいた笑みがすっかりと消え去っていた。
何の感情もうかがわせないルイは彫像のような冷たさを纏い、それは周囲にも波及して、車内を照らす燭台の炎を不安げに揺らめかせる。
しかし次の瞬きが彼の目を隠した時、不穏な色を纏った空気はふっと闇に溶け、ルイはその口元に再び笑みを取り戻していた。
「まさか時を経て、今さら本質に目を向けることになろうとは……」
自嘲するように呟いたルイから視線を外すことなく、エルフェリスはなおも沈黙を貫き通した。
彼が何の脈絡も無しにこのような話を始めたのだとは思えなかったからだ。
何か意図があって、エルフェリスに語り掛けている。
そんな気がしていた。
だから下手に問い尋ねることで話の腰を折るようなことはしたくはない。
それに、盟約の成立に至る過程をヴァンパイアの視点から語られる機会などそうそうあるものではなく、ここでもたらされる情報はその時代のその場に居合わせたルイから発信されるリアルな歴史の一幕でもあった。
誰の口も介さず、ただルイが実際に見聞きし、感じた真実がそこにはある。
共存の盟約に何の価値も感じていなかった。
ルイがそのように告白しても、エルフェリスは特別驚きはしない。
どんなに入念に練られた策でもどこかに綻びはあるものだし、また世界に生きるすべての者に対して同じような思想、行動を求めることは不可能だと解っていた。
賛同する者がいれば、反発する者もいる。
人の心を強制的に動かせる術はどこにもない。
「エル。私とあなたがこうして同じ馬車に揺られている。まあ、色々と建て前があってのことではありますが、盟約が無ければ恐らくはあり得なかったでしょう。そうでなければ、私は躊躇いもなくあなたから血を奪っていたはずだ」
ルイの黒曜石の瞳がゆっくりと動き、エルフェリスの両眼に固定された。白く美しい顔の中心で、その瞳だけが闇を吸い取ったかのように揺らいでいる。
「その私が、あのヴィーダであなたとロイズを見ているうちに、盟約の何たるかを少しではありますが理解したのですよ」
「私と……ロイズを見て?」
その場に縫い止めるような視線を真っ向から受けつつ、エルフェリスが掠れる声を振り絞れば、ルイはまた一つ頷いて先を続けた。
「ええ。盟約が無ければ、そもそもあなたがこの城に来ることはなかった。そして私たちと出会うこともなかった。一人の人間を救うために、ロイズが命を懸けることもまたなかったでしょう。ましてや手負いの状態に陥ってまでその者を護ろうとは……」
捕食者と被捕食者の関係でしかなかったヴァンパイアと人間を違う形で結び付けることもあるのだと、ルイはその点に価値を見出したようだった。
「あなたは我々を良く理解しようとしてくれる数少ない人間です。そして私も、あなたのような人間がいるのならば、また共存をしてみても良いと思い始めたのですよ。けれどあなたは今、その人間たちによってその行動を封じられようとしている。私にはそれが面白くない」
盟約を前面に押し出しておきながら、それを実行しようと声高らかに叫べば粛清の対象となる。そのような矛盾に、ルイはいささか不快感を拭い去れなかった。
エルフェリスとしても同じ気持ちではあったけれど、人間はそれほど短期間でその考えを大きく改めることなどできない。
ヴァンパイアの一握りほどの寿命も与えられず、それなのにその人生は選択の連続なのだ。
目まぐるしく変わる日常と世界の狭間に立って、自分の道筋を見出すことなくその生涯を終える者も少なくはないのだった。
だからエルフェリスは彼らの行動をひとえに非難することはできなかった。降りかかる火の粉は振り払わねばならなくても、それを反対に浴びせかけようとは思えなかったのだ。
「私だって不本意だよ。でも……私には進むことしかできないから。それが他の人たちにとって闇の道だとしても……」
糾弾されて、監視の対象となり得る可能性を考えると、多少の躊躇いが無いわけではない。けれどまた、自分の行いが人の道を外れるものだと言われる筋合いもない。
その信念だけは、どんな状況に陥ろうとも主張するだけの覚悟は初めから持っていた。
「あなたの前には二つの道が開かれています。一つはこれを最後に私たちとは別の方向へと伸びる道です。そしてもう一つは我々と共に歩む道。かつてエラス司祭の前にもこの道は幾度となく分岐し、その度に彼は自分で決断して足跡を残しました。どんなに人間たちから疑惑の目を向けられようとも、彼は態度を変えることなく、神に仕える司祭として堂々と二つの種族の間を渡り歩いていた。想像もできないほど苦難の道ではあったでしょう。その道がエル、あなたの前にも敷かれているのです。あなたはどうしますか?」
どうするか。
そう問われて躊躇するようならば、初めからヴァンパイアの城に乗り込もうなどと考えはしなかっただろう。自分の答えはたった一つだ。
やがて馬車が止まり、シーラによって扉が開け放たれるとエルフェリスは一人、懐かしい郷里の土を再び踏んだ。
目の前には月光を反射してきらきら輝く小さな泉と、その泉を囲うように生え立つ木立の群れ。
そしてその並木に沿うように整備された街道の先には、エルフェリスが生まれ育った村と教会があるのだった。
「私はその先の暗道で待っていますから」
一人で行くことを決めたエルフェリスに、ルイは何も言わずにそれだけを告げた。
エルフェリスは彼の協力に改めて感謝し、そして夜の街道を足早に進む。泉から立ち上る水の香りは郷愁を誘い、踏み出す足に力をもたらした。
空に浮かぶ満天の星と満月だけが、闇に包まれる街道を急ぐエルフェリスの守護者であった。
けれど彼らはその足元に刻まれた、真新しい轍をエルフェリスに知らせるようなことはしなかったのである。