先人の足跡(1)
草地を踏み付け、残された無数の足跡は永年の風雨に曝されその姿を消していく。
しかしながら人が歴史に刻み付けた轍はまたその理を知らず、人の記憶と耳を介して永く残っていくものでもあった。
その後ろ姿を追い越すことはできずとも、近付くことできるかもしれない。
新たな軌跡を描こうとするならば、いっそ乗り越えてしまえば良い。
その想いは遥かな時を超えて、いつか誰かに受け継がれていくのだろう。
数日後の晩。
エルフェリスとルイは黒塗りの馬車に揺られてヴァンパイアの居城を後にした。
適当な理由を付けてルイが出掛けることを告げると、案の定レイフィールやリーディアは制止の声を上げたが、その心配を振り切るかのようにルイはまるで詩でも読み上げるかのような声色をもって彼らを黙らせてしまった。
「他の城では極彩色の庭園が見頃だとか。エルにその景色を見せてあげたくてね。ここ以外にも素晴らしい世界は存在するということを是非とも教えて差し上げねば、ヴァンプとしての礼節に欠けるというものでしょう? レイが手塩にかけたこの庭園も見事ですけれど、すべてを語るにはここはあまりにも狭い」
そしていつものあの笑顔で「良いでしょう?」と凄んだものだから、当然レイフィールは黙って頷くしかなかった。
もちろん疑念の目は向けられたが、ルイの決定には誰も逆らえないのか馬車もあっさりと調達でき、今夜の出立にこぎ着けた。
ただ御者として指名したデマンドは何やら先約があったらしく城を空けていたため、今回は別のハイブリッドの男がそれに代わることとなった。
彼もまたデマンドと同じくリーディア傘下の男で、名をシーラと言った。
彼の赤味がかった紫色の瞳は場所によって色を変え、闇の中では深く、光源の下では明るく輝いた。
ヴァンパイアらしく細身の長身で、見た目だけなら二十代半ばほどといったところか。しかしこちらはデマンドとは逆に目が合っても表情を変えず、伏せ目がちに俯いて無言を貫き通していた。
どうにもつかみどころがなく、どのような男なのかとルイに尋ねてみれば、彼の長きに渡る放浪生活の際にはシーラを連れ回したことも度々あったと回顧しては笑った。無口で、自分の成す事にも干渉しないところがルイにとっては都合が良かったのだとか。
彼の言う長らく、という期間がどれほどに及ぶものなのかはエルフェリスの想像の追いつくところではなかったけれど、恐らくはエルフェリスの年齢をゆうに超えていたのだろう。
ルイがふいに始めた昔話は、まるで昨日の出来事のような語り口であった。
「旅先では、色々なものを目にしましたよ。けれどここ最近で一番興味を引かれたのはやはり、三百年ほど前の事でしょうか。久しぶりに城に戻ってみれば、そこには人間の男が暮らしていたのですからね。それはそれは驚きましたよ」
そのような導入を経て、ルイはゆっくりと昔を懐かしむような口調で続けた。
「どういう事か、その男は不可視の魔法をすり抜けて、単身城に乗り込んで来たようなのですよね。当時城に住んでいた者たちの誰一人として手引きした者はいなかったと言うのですから、まったく不思議なことです。けれどどうしてでしょう、気付いた時にはもう、彼は城に住む一人の人間の司祭として認知されていました。エルもご存じでしょう? "マルファス・エラス司祭"を……」
ルイの射抜くような視線を正面から受け、エルフェリスは力強く頷いた。その名は、エルフェリスの村に住む者であれば知らない者はいない。
マルファス・エラス。
それこそが共存の盟約を最初に取り付けた司祭の名なのだから。
エルフェリスの暮らす村にはヴィーダのように明確な名前は無かったのだが、信心深い巡礼者やハンターたちの間ではもっぱら「エラス村」との名で呼ばれることもあった。
村に名など付けたところで、いつハイブリッドに滅ぼされるか知れないとの考えが村中を占めていたからというのが無名の村としての存続を決めた理由ではあるが、確かに呼び名が無くては困ることもしばしばあって、その折には村人や商人たちも臆することなくエラスの名を名乗った。
だからエルフェリスにとってマルファス・エラスの名は敬愛すべきものであって、かつ身近なものでもあった。
理想を説くだけで何もしてくれない神よりも、がむしゃらに生き抜いて共存の盟約を成立させたエラス司祭にこそ、エルフェリスは尊敬の念を感じ得ずにはいられない。
「知ってるよ、もちろん! エラス司祭のお陰で私は居城に来ることができたんだし、ルイたちにも会うことができたんだから! 知らないなんて言ったら呪われちゃう」
エルフェリスがやや興奮気味にそう言うと、ルイはことさら楽しそうに微笑んだ。
「呪われるとは、彼が生きていたらきっと殴られてましたよ。彼も司祭とは程遠い男でしたからね。まあ、そうでなくては我々の領域に踏み込んで来るような大それた事、するわけがありませんがね」
「……なんかそれ、私にも言ってる?」
「さあ、どうでしょう。ですが、あなたと彼は似ていますね。彼も初めはシードに喰われそうになったり、ハイブリッドどもに馬鹿にされたり、散々だったようですよ? 特にシードもハイブリッドも今とは比べ物にならないほどの人数がいましたからね。他の城からわざわざ訪ねて来て、彼を罵倒したなんて輩もいたようです。ご苦労なことですが」
「それだけ、人間とヴァンプの間には信頼関係が無かったんでしょ? 仕方のないことだと思う。……そんな状況だったら、いくら私でも乗り込んだりはしなかっただろうな。盟約っていう後ろ盾が無いんだもん」
「後ろ盾どころか、エラス司祭が神聖魔法使いである事を公言していなければ、ハイブリッドたちは群れを成して彼を襲ったでしょうね。獲物が自ら飛び込んできたのだから、シードでさえその想いは強かったと思いますよ? けれど、不思議とそんな想いはほんの数か月で影を潜めてしまった。誰も彼を殺そうとも、追い出そうともしなくなったのです」
心境の変化という言葉だけでは説明も理解もできないのだと、ルイは苦笑した。
「私が帰参したのはちょうどその頃でした。血気盛んなヴァンパイアたちがこぞって彼を友人だと紹介するのですから、私も随分と面食らったものですよ。あの頃のシードと言えば、今のヘヴンリーのような輩ばかりでしたからね。男も女も人の世界に足を踏み入れては美しい者を攫い、気に入らなければ噛み殺し、気に入れば飼い殺す。私が言えた義理ではありませんが、随分と人間たちは私たちを恐れていたことでしょう。そんな業を積み上げていたシードたちが、一人の人間の司祭に心を奪われている。私は逆に、心に鉄の鎧を纏わせたものです」
ルイはそう言うと、ひと息付くために体勢を崩し、そして椅子の背もたれの上部に肘を立てて頬杖を付いた。
ルイの言わんとしていることは、わざわざ聞き直さなくても察することができた。マルファス・エラス司祭の存在に、ルイは他のシードたちとは別の感情を覚えたのだ。
つまりは、警鐘。
易々とヴァンパイアの心の隙間に入り込んだ人間の司祭に警戒したのだ。
神聖魔法使いの血はシード以外のヴァンパイアを焼き尽くし、その身から放たれる魔法はシードをも闇の彼方へと消し去る。そんな危険極まりない存在が単身乗り込んで居場所を確立してしまったのだから、警戒するなという方が無理だろう。
「だからね、私は頑なな態度を貫き通したのです。自分でも柄ではないとは思いましたが、彼が懸命に説くヴァンパイアと人との共存とやらには現実味が感じられなくてね。その点については他のシードたちも私と同じだったようで初めは一蹴して済ませていましたが、時が経つにつれ、流れが変わった」
頬を支えていた手を口元に移動させ、ルイは遥か時の彼方へ思いを馳せるように視線を彷徨わせる。