ルイの懸念(3)
気を取り直し、ルイの背後にぴったりとくっついて歩を進めると、すぐに一つの大きな部屋が姿を現した。
シードの部屋と言うのはだいたいどの部屋も同じような構造をしているのだと気付いたのは、ちょうどその時だった。
しかし闇に不自由なエルフェリスのために灯りを確保しようとルイが灯した燭台の数は、他のシードの部屋のそれとは桁が違った。
室内のすべてを余すところなく照らし出すように、テーブルや棚には小さなキャンドルがところ狭しと並べられ、主を加えてようやく完成となる絵画のごとく、幻想的な空間を演出していた。
自分が足を踏み入れては計算された調和を乱してしまいはしないだろうかとエルフェリスが危惧するほどに。
「な なんかすごい部屋だね……。わ……私、なんか場違いじゃない? こんなカッコでここにいて平気? 着替えてくる?」
普段から愛用している改造ドレスの裾を摘まんでおろおろするエルフェリスを、ルイは心底楽しそうな目で見返した。
「おもしろいことを考えるものですね、エル。この部屋の心配をするより先に、自分の境遇を案ずるべきでしょう? ハンターたちによる流言、本当は気が気でないのではないですか?」
天鵞絨張りのソファをエルフェリスに勧め、自らはグラスと菓子の用意をしながらルイはそう言って笑った。
そして脚に細やかな装飾の施された黒い大理石の卓にグラスを並べると、片手で器用にシャンパンを注ぐ。キャンドルの炎を受けて、無数の気泡がグラスの中で弾けて踊った。
「顔に出てた?」
「ふふ。どうぞ」
エルフェリスの質問に曖昧に微笑んで、ルイはグラスの片方をエルフェリスの前に差し出した。
それを素直に受け取って、一口含む。舌先から喉にかけて、ピリリとする感覚を楽しんだ後、エルフェリスはゆっくりと口を開いた。
「やっぱり人生のキャリアが違うのかな。シードのみんなには何もかもばれちゃうね」
肩をすくめて苦笑するエルフェリスを横目に、ルイもまたグラスの中身に口付ける。
「あなたは特別に分かりやすいと言うのもありますが、ヴァンパイアに心を奪われて糾弾された神官の末路を私たちも知らないわけではないですからね。懸念しているのですよ」
「うん……。でも、もしそうなったとしても、ルイたちに迷惑を掛けるようなことはしないよ。安心して」
「そういう問題ではないのですよ。ある事ない事ハンターたちに吹聴して回られるのも不愉快ですけど、あの時我々は撤退のためとはいえ、ハンターと一戦交えました。エルが私たちと行動を共にしたことも、私たちがハンターを叩きのめした事も、恐らく彼らは言って回るでしょう。人間の脳裏にその事が事実として焼き付くのはそれほどの時間を要しはしないと思います。早急に手だてを考えねばならないのです。この意味が分かりますね?」
「つまりルイは、今回の件が杞憂では終わらないと思ってるの? 教会本部が動き出すと?」
「あるいは」
エルフェリスの疑問に、ルイは鋭い眼差しを両眼に湛えて頷いた。
「人間たちとて愚かではありません。決定的な証拠も無しに我々の元に乗り込んでくることはないとは思います。しかしながら、エル。ハンターたちの多くが目にしました。ヴァンパイアと心を通わせ、同じ方角を見つめる"神の使い"を。彼らが再三に渡り、権力者たちに入れ知恵をしたらどうなるでしょう? 疑念だけでも確信となり得ることが世の中にはいくらでもあるのですよ」
人間とヴァンパイア。
両者の間を流れる風はいつだって嵐のように吹き荒れて、収まったように見えてもそれは一時のまやかし。すぐに吹き返しの強風に煽られて、新たな火種が目を覚ます。消し止めたように思えても、それはどこか奥底で燻って容易に消えはしない。
まるでイタチごっこのようだと思わずにはいられなかった。
「とまあ、脅してみたわけではありますが、これはあくまでも最悪の事態を想定したまでの発言です。そんなに気を落とさなくても大丈夫ですよ」
「でも……あり得ない話じゃないし……」
「エル。それこそ先ほど私が言ったように、疑念が確信へと変わってしまっているようです。素直で何よりですが、それでは気が持ちません」
顔の横に持ち上げたグラスを二、三度振り、からかうような素振りを見せた後、ルイはその淡色の液体をゆっくりと口に含んだ。
そして目を伏せ、いささかルイにしては人の悪い笑みをその口元に湛える。
「そのような状態に我々を陥れるためには、あのデストロイとかいうハンターも己の恥を曝さねばならないでしょう。まさかその名を世に轟かせた至高のハンターが、"たった二人のハイブリッド"を相手に手も足も出せず敗残したとは口が裂けでも言えないでしょうしね」
目の前の美貌の男はそう言うと、再びその目に光を灯してグラスを煽った。
対するエルフェリスはルイの口から飛び出た皮肉に、不謹慎にも噴き出しそうになるのを懸命に堪えていた。
確かに、彼の言うことももっともなのだった。
相手がシードならばいざ知らず、あの時デストロイらが剣を交えたのは"片目の赤いハイブリッド"――実際にはハイブリッドを装ったシード――だったのだから。
あるいは朝日の昇る中、剣を交えた相手がヴァンパイアだったとは思っていなかったかもしれない。瞳の色が赤味を失いつつあった時分であったがゆえに。
けれどカイルたちが目覚めた後に、敵の正体はあっさりと露見しただろう。
そして恐らくは力量の差を思い知って悲嘆に暮れたに違いない。片や大軍、片やたった二名の多勢に無勢という条件下で、相手の片割れに重傷を負わせた事実はあるにせよ、その状況を生かすこともできず敗走したのだと広く世に知れれば、今までに築き上げてきた名声が音を立てて崩れてしまうことになるかもしれない。
そのような危険を冒してまでエルフェリスやシードを陥れようとあの男が考えるだろうか。
いや、それは無いと断言する自信がエルフェリスにはあった。
人々の羨望の眼差しを一身に受けてきたデストロイが戦歴を重ね、名声を重ね、やがては再会するであろうエリーゼに最高の姿を見せようとしているのは火を見るより明らかなのだから。
ヴァンパイアに魅せられて姿を消したエリーゼの心を再び奪うには、そのヴァンパイアの魅力、つまりはルイの魅力を上回らねばならない。
元来エリーゼはハンターを支持していたし、ハンターとして名を上げ、屈強な肉体と精神をもって、エリーゼをたぶらかしたルイを目の前で仕留めればまた彼女の心も取り戻せるかもしれないとデストロイは考えている。
まったく単純な男だと呆れるばかりではあるけれど、その辺りまで考えが及ぶ頃にはそれまでエルフェリスを支配していた不安は急速にその形を失っていくようであった。
けれど、それだけではまだ足りない。自分はやはり……。
「ゲイル司祭に……会うべきなのかも」
それはルイに対してでもなく、誰に対してでもなく、自分の心に向けられた言葉であった。
村に戻って、デストロイと教会本部の事、そしてハンターの事、さらには自分自身の事をゲイル司祭に相談すべき時が来たのだ。
死霊使いの件も、誰か信頼の置ける人間の耳に入れておかねばならないだろうし、その情報がハンターの口からのみもたらされるのでは、どのように歪曲されるものか知れたことではない。
為すべき事は山ほどあった。
「どうします? エル。あなたの決断を私は尊重しますよ。必要とあらば、手を貸しましょう」